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第9話 殿下より呼び止められるました1

「話がある、来いよスティング」

馬車を降り、学園の正門を潜ってすぐに殿下が現れ、そう言うと、正門から少し離れた場所へと連れていかれた。

朝の空気はまだ冷たく、張り詰めたような静けさが辺りを支配している。

淡く差し込む朝陽が校舎の屋根に反射し、まるで世界が新しく始まろうとしているような、清廉な光を放っていた。しかし、その光は心を温めてくれることはなかった。

殿下の表情は明らかに機嫌が悪く、鋭い視線をこちらに向けながら、眉間に深く皺を寄せ、口元は固く結ばれていた。

そして、その背後には、殿下の傍にいつも寄り添う2人の存在、友人という名の監視役が、影のようにぴたりとついていた。

ドレシャン・フィルタ、フィルタ伯爵家のご子息と、コリュ・テレリナ、テレリナ子爵のご子息。

彼らの存在は重く、空気をひときわ冷たく、息苦しいものに変えていた。

その場に立っただけで、一気に気持ちが沈んでしまった。胸の内がひやりと冷え、心が少しずつ凍りついていくようだった。

今日は金曜日。明後日には、お二人がゆっくり遊びに来てくれる予定だ。

先日のコスプレ騒ぎもあったが、あれから毎日を御一緒でき、とても楽しい時間を過ごしていた。その日々は私にとって、夢のように穏やかで優しい時間だった。

これが友達なのね

そう思えたことが、自分でも驚きだった。知らなかった感情が芽生え、そしてそれを自然に受け入れてくれたお二人に、心から感謝していた。

そのお二人と、もちろんクルリも加えての、有意義な時間がすぐそこに待っている。

そう思えばこそ、今日と明日を乗り越えようと、気を引き締めていたところだった。

だから、くじかれた。

その思いは、胸の奥で小さく鈍く響いた。風が吹き抜けたように、心の奥にぽっかりと小さな風穴が空いた感覚に包まれ、自分でも驚くほど落ち込んでいた。

けれど、それでも殿下から声をかけてくださったこと、それ自体は重要なことだった。

たとえその感情がどんなものであれ、

私に声をかけてきた、

その事実が、大切なのだ。

それなのに。

冷静な自分がそこにいた。

前なら、お声をかけていただいただけで、身も心も捧げるような気持ちになっていた。殿下の声と、言葉。それだけで心が満たされていた。

それなのに、今は。

殿下よりも、周囲の目を気にしている自分がいる。そのことに狼狽えながらも、不思議と落ち着いている自分が、当然のように思えた。

背後にいる2人。

ドレシャン・フィルタと、コリュ・テレリナ。

彼らの目は、殿下の苛立ちとは裏腹に、どこかニヤニヤとした嫌な笑いを浮かべていた。まるで、これから起きることを楽しみにしているかのような、嗜虐的な光をその瞳に宿していた。

その光景が、胸をじわじわと冷たく染めていく。

「おはようございます、殿下」

軽く裾を持ち、丁寧に挨拶をした。

だが、殿下はまるでその声を聞いていないかのように、怒りを込めた大声で怒鳴ってきた。

「昨日は何故勝手に帰った!?」

その声音は、怒気が露わで、真っ直ぐに私を打ち据えるようだった。

校庭に冷たい空気がざわめくように震えた。

「恐れ入りますが、昨日はフィー皇子様とカレン皇女様に声をかけていただき、御一緒に帰りました」

言葉を選びながら、落ち着いた声で返す。だが、その返答は殿下の怒りにさらに火を注いだ。

「よくもまあ、そんな嘘をつけるな!」

怒声が響き渡り、周囲を歩く生徒たちが驚いて振り向いた。早朝のまだ落ち着いた空気に、その怒鳴り声が無遠慮に突き刺さる。

ざわつきの中、数人の生徒が足を止め、こちらの様子をうかがっていた。中には気まずそうに目をそらす者もいたが、大半は興味の目を向けていた。

私は嘘なんかついていない。私は、これまで一度も嘘を言ったことがない。

王宮では「被害妄想令嬢」と陰口を叩かれていた私だが、殿下は以前、こう言ってくださった。

自分の耳で聞かない限りは信じない、と。

そして、私はその殿下に、嘘をついたことなど一度もなかった。

それなのに、今、殿下がそう言うということは、誰かが何かを吹き込んだに違いない。

その誰かとは、すぐに察しがつく。

背後にいるコリュ様。

彼は、私が皇子皇女と帰るところを、確かに見ていた。にもかかわらず、それを殿下に伝えていない。つまり、あえて黙っていたのだ。

まあ、そうでしょうね。お二人は王妃派だものね。

貴族は二つの派閥に分かれている。

公爵派と、王妃派と。

王宮での実権はもちろん、公爵派が握っている。けれど、王妃は先を見据え、静かに、着実に動いている。

つまり、子、だ。

私ではなく、レインが産む子を王座につかせたい。

そのために、私を、いや、公爵家を蔑ろにし、少しずつ権力を削ごうとしている。

王宮では公然と手出しできなくても、ここは学園。貴族の跡目たちが集うこの場所なら、私に対して背後から操作することができる。

今ではなく、レインが子を産む“その時”のために、動いているのだ。

そして、彼らは私が殿下をお慕いしているのを知っている。

だからこそ、どれほど追い詰められても私が離れないとわかっていて、こんな姑息な手を平然と使ってくる。

だから、生徒たちの目につくように、大声で私を馬鹿にし、恥をかかせる。

これまでにも、こういうことは何度もあった。だが、レインが来てからは、その頻度が明らかに増えている。

それでも、私は

「嘘などついておりません」

反論しても、意味がないのは分かっている。

けれど、お二人を悪く言われるのは、どうしても我慢できなかった。

要は、レインがいなかったから、仕方なく私と帰ろうと思っただけなのだろう。

「最近、お二人が声をかけてるからと、勘違いするなど甚だしい!」

違う。

「相手は帝国の皇子、皇女だ。私ならともかく、お前のような奴を本気で相手する訳ないだろ!」

様な、

奴。

その単語だけが、異様に脳裏に残った。

「恐れ入りますが、私は嘘はついておりません」

冷静に答えるしかなかった。

「まだ言うか!? お前が一緒に帰りたいと言うから、わざわざ迎えに行ったというのに、さっさと帰るとはどういう事だ!!」

よく言うわ。ご自分の都合で言われても困る。昨日はレインがいなかったのね。だから、仕方なく私と帰ろうとしただけでしょう?

「殿下、スティング様は殿下の気を引こうとして毎回言っているだけ、ということですよ。レイン様がいる時に大騒ぎして、いなかったらどうでもいい、ということですよ」

違うわ、コリュ様。

あなたがきちんと説明してくれれば、それで済むことだった。

けれど、あなたは言わない。

それに、お二人の馬車は、馬車置き場の奥に停められていた。つまり、かなり早く登校され、校舎の中にいることを確認した上で、黙っているということだ。

「最低の女だな。公爵令嬢でありながら、そんな浅ましい考えなのか」

「違います。私は嘘などついておりません。でしたらお二人にお聞きになったらよろしいではありませんか」

「はあ!? 嘘だと分かっているのに、何故聞かなければならない。失礼にも程がある」

「殿下、これが罠なんですよ。聞けないと分かっていて言ってくる。つまり、嘘を本当にする気なんです」

「言葉を慎みなさい、ドレシャン殿。私は嘘などついておりません」

「言葉を慎むのはお前だ、スティング! 平気で嘘をつき、それを皇子、皇女の名を騙るとは、どういう躾をされてきたんだ!」

「殿下、私は嘘などついておりません」

「まだ言うのか!?」

「殿下、ここまでスティング様が否定されるということは、公爵様より何か吹き込まれているのです。皇子皇女の名を語り、自分の立場を有利にさせ、自分に注目を集め、学園内の学生を牛耳る魂胆です。学生の後ろには家があります。より権力を握ろうとしているのです」

「卑劣な!!」

「ですが、残念でしたね。殿下はそのような浅はかな考えにハマる方ではない」

お父様までをも、こんなふうに酷く言われて、許せなかった。けれど、何を言っても、彼らは逆手に取り、こちらの不利にしかならないように返してくるのだろう。

悔しい。

「今度は黙りか。認めたのだな。ふん。私の婚約者なら、私に逆らわず、大人しくすればいいんだ。昔は逆らうことをしなかったくせに、そんなにレインが邪魔か? そんなに私の気を引こうとしたいのか?」

違う。

私は、殿下の気を引こうとしているわけではありません。

「レインが来てから、お前はおかしくなった。私のためだと言いながら、自分の思い通りにしたいだけだろう。上手く私を丸め込むよう、公爵殿から言われているんだろ!」

違います。

変わったのは、私ではない。殿下です。

どうして、どうして、こんなに変わってしまったのだろう。

「スティング、聞いているのか!? つまらない嘘が、こうやって事を大きくし、お前の価値が問われる。そんな奴が王妃になるのだ」

いつまでも続く責めの言葉に、私は俯き、ただひたすら我慢するしかなかった。

地面の土の色が、やけに濃く感じられた。

握りしめた拳が、震えないように、爪が刺さるほど強く握っていた。

「それで民のことを知れるのか!?」

もうすぐ終わるわ。授業が始まるもの。

我慢よ。

その時だった。

鋭く、空気を切り裂くような声が響いた。

「これは一体、何事かしら?」

その声には、怒りと威圧がはっきりと込められていた。静寂を断ち切る、まるで雷鳴のような鋭さがあった。

その声を聞いた瞬間、辺りの空気が一変した。冷たく硬質な威圧感が空間を満たし、そこにいた誰もが、瞬時に緊張した。

彼女が来たのだ。


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