届いたばかりの大きな箱を開ける手が、期待と少しの緊張で小刻みに震えていた。
真新しい純白のパッケージには、金色に輝く文字で《IDEA ARCS ONLINE》と刻まれている。
最新型フルダイブVRMMO本体一体型――完全予約制、初回出荷わずか数千台という、まさにプレミア品だ。十万円以上もの大金だったが、深夜の予約戦争を勝ち抜いて手に入れたあの瞬間から、秋月悠真の胸は高鳴りっぱなしだった。
「ついに……俺も、あの世界へ……!」
布団の上で深呼吸し、ヘッドギアをそっと頭に被る。視界いっぱいに金色の光がまばゆく広がり、やがて現実の身体感覚が、どこか遠い場所に置き去りにされていく。
夢にまで見たフルダイブ。
剣を振るい、火球を放ち、戦場で名を馳せる英雄になる。
そんな「別の自分」に生まれ変わるためだけに、悠真は現実の金も時間も、そのすべてを惜しみなく注ぎ込んだのだ。
深い没入感の中、耳の奥で透き通るような女性の声が響き渡る。
――ようこそ、イデア・アークス・オンラインの世界へ。最高の没入体験を、お楽しみください。
心臓がドクンと激しく脈打つ。これから始まる壮大な冒険の予感に、自然と口元が緩んだ。
次の瞬間、視界がパッとまばゆく開ける。
目の前に広がったのは、どこまでも続くまばゆい青空と、一面の緑が輝く広大な草原だった。
頬を撫でる涼やかな風、木々の間を抜ける葉擦れの音が耳に心地よく響く。遠くからは小川のせせらぎが聞こえ、鼻孔をくすぐるのは、いかにも「異世界」といった青草の瑞々しい匂い。
――すごい……これが……本当に……!
思わず漏れた呟きは、風に溶けて、どこかへ消えていった。
だが、その至福の時間は、あっけなく終わりを告げる。
「……あれ? キャラクリは……?」
指を動かし、メニューを呼び出そうと試みる。けれど、目の前の空間に光のパネルが浮かび上がる気配はない。
何度も何度も、無意識に指を動かす。声に出して呼びかけてみる。だが、システムは沈黙したままだった。
そして、ついに視界の隅に、まるで嫌がらせのように一つのウィンドウが勝手に現れ、ステータスが表示される。
そこに映し出されたのは、見慣れた、冴えない顔――黒髪に、平凡な顔立ち、くたびれた灰色のパーカー姿。
毎朝、鏡で見慣れた現実の「秋月悠真」そのものだった。
そして、名前の欄には。
《プレイヤー名:秋月悠真》
全身から、さっと血の気が引いた。
……本名、だと……!?
あれだけ時間をかけて考えた、カッコいいプレイヤー名が……全部、無意味に……?
さらに、次に目に飛び込んできた職業欄の文字が、悠真にとどめを刺した。
《職業:薬草採集人》
思わず、ごくりと息を呑む。
薬草採集人……?
戦士でも、魔法使いでも、弓使いでもなく……地味で、誰からも必要とされない生産職。
……なんだよ、これ……ふざけんな!
◇ ◇ ◇
気付けば、悠真は村の広場の片隅に立ち尽くしていた。
周囲では、目にも鮮やかな鎧やローブに身を包んだプレイヤーたちが、楽しげに会話し、パーティを組んで次々と出発していく。
みな、キャラクタークリエイトで整えられた、非現実的なほど美しいアバターばかりだ。冴えない現実の顔のままで、ここにいるのは、どうやら自分だけのようだった。
「うわ、マジで本名じゃん、こいつ」
「しかも薬草採集人ww NPCかよww」
すれ違うプレイヤーたちの嘲笑が、刃のように耳に突き刺さる。
悠真は俯き、悔しさに唇を噛み締めるしかなかった。
……どうしよう。ログアウト……。
視界に浮かぶウィンドウを開こうとするが、やはり何の反応もない。その時、氷水を浴びせられたような、無情なメッセージが悠真の目に飛び込んできた。
《本体システムエラーにより、ログアウト機能は停止中です。運営の復旧をお待ちください》
運営の復旧……? いったい、いつになるんだ、そんなもの……?
絶望的な言葉に、悠真は広場で呆然と立ち尽くすしかなかった。
◇ ◇ ◇
日が傾き、森の奥に薄闇が忍び寄り始めていた。
悠真は、村を離れ、腰にしょぼいカゴを提げて木々の合間を進んでいた。
「くそ……!」
苛立ちを吐き出しながら、足元の茂みを蹴る。
森の奥からは、他のプレイヤーたちが剣を振るい、スライムや野ネズミを次々と狩る、楽しげな声が時折聞こえてくる。そんな中、自分は地面にしゃがみ込み、ひたすら草むらを目で追う。
――スキルを発動していれば、見えるはず……。
目の端に、うっすらと緑色の光を放つ輪郭が浮かび上がる。
《薬草》
それは、「薬草採集人」のスキルのおかげだった。スキルを発動している限り、茂みの中に紛れる無数の雑草の中から、薬草だけがうっすらと輪郭線を帯びて見えるのだ。
「……これが、薬草……」
近づいてしゃがみ込み、そっと手を伸ばす。
茎が太く、葉が楕円形に広がり、薄く葉脈が光る。それがスキルの示す薬草の特徴だった。
ひと株、根元からゆっくりと抜き取る。指先に伝わるのは、少し湿った冷たい土の感触。鼻をかすかに甘い草の香りがくすぐった。
「ふう……一つ目、っと」
ため息混じりに呟き、次の茂みに視線を向ける。
スキルが示す薬草は、地面に点々と散らばっていた。決して多くはないが、見えないよりはずっとマシだ。
悠真は、無言で地面を這うようにして薬草を摘み続けた。
茎をつまみ、根本から抜き、カゴに入れる。しゃがんだり、身をかがめたりするうちに、腰が痛み、爪の奥に土が入り込む。
それでも、悠真は手を止めなかった。
宿代を稼がなければ、今夜は寝る場所さえないのだ。
カゴがいっぱいになった頃には、森の中はもうすっかり薄暗く、帰り道を急ぐ必要があった。
悠真は立ち上がり、カゴの中の草をじっと見下ろした。
――これが、俺の……仕事か……。
くしゃりと葉が重なる乾いた音が、ひどく寂しく、そして現実的に響いた。
カゴの中に山盛りになった薬草を抱えて、悠真はトボトボと村へと戻る。
広場の片隅、他のプレイヤーから見えにくい場所を選び、露店を広げる。
あり合わせの板と石で作った、あまりにもみすぼらしい台の上に、一本ずつ束ねた薬草を並べていく。
「あ、薬草屋さんだ!」
「NPCより安いのか? 試しに見てみよっかな」
周囲から、またしてもひそひそと笑い声が飛んでくる。
だが、その中にわずかな好奇の視線も混じっていた。
「……うーん、まぁ一束もらうか。安いし」
気付けば、何人かのプレイヤーが渋々といった様子で買っていった。手のひらには、十数枚の銅貨が積み重なる。
たったこれだけ。
でも、宿代は払える。食事もなんとかなる。
……なら、俺はまだ、生きていける。
小さく息を吐き、てのひらに乗せた銅貨をそっと握りしめる。そのひんやりとした感触が、不思議と悠真の心を落ち着かせた。
夜。宿屋の狭い一室。
悠真は硬いベッドに横になり、ぼんやりと天井を睨んでいた。
ベッド脇に置かれたカゴの中の薬草が、かすかに夜風に揺れた。
ほんの一瞬、その葉が淡く光ったような気がしたが……疲れているせいか、気のせいか。
目を閉じかけた、その時だった。
ひっそりと、しかし確かな存在感を持って、小さなシステムメッセージが視界の端に現れる。
《お知らせ:NPCによる回復アイテムの販売を終了しました》
……え?
悠真は、はっと目を見開いた。
広場の暗闇の向こうで、何かが静かに、しかし大きく、変わろうとしている気配がした。