最先端の医療技術の恩恵を受け、体の負傷自体は数日で治癒し、昼斗の退院する日が訪れた。ほとんど荷物は無い。基地内の病院の前に立ち、遠目に見える山の紅葉ももう終わりだなと考えながら、昼斗は冷たくなった風に髪を揺らされていた。そこへ車を回してきた灯莉が、正面に停車する。灯莉は毎日、面会に来てくれた。
後部座席に荷物を積んでから、助手席に昼斗が乗り込むと、音もなく車が走り出した。
「退院おめでとう」
「ああ」
「パエリア、用意してあるわよ」
そういえば出撃する日に、そんな話をしたなと、昼斗は幾ばくか懐かしくなった。車内での灯莉は〝いつも〟の通りで、昼斗にあれやこれやと雑談を振る。最初はあんなに戸惑っていたはずで、扱いが分からなかったというのに、今となっては、灯莉が隣にいる方が自然に思える事が、昼斗には不思議だった。
軍規定のマンションへと帰宅し、リビングのソファの上に荷物を置く。
そしてマフラーを外していた昼斗に、後ろから灯莉が抱きついた。
「もう本当に体はいいの?」
「心配性だな。俺よりも瀬是はどうなんだ?」
「義兄さんよりも軽傷で、とっくに退院したと聞いているけど。昼斗はお人好しね」
「無事ならよかった」
回されている灯莉の腕に、そっと昼斗が両手の指先で触れる。すると灯莉が、顔で覗き込むようにし、横から昼斗の唇にキスをした。
柔らかなその感触も久しぶりだ。昼斗が反射的に目を閉じる。するとキスが深くなった。
「本当に大丈夫なのか、確かめさせて」
灯莉の瞳を惹きつけられるように見ていた昼斗は、唾液を嚥下してから、視線を揺らした後、小さく頷いた。
そして二人は体を重ねた。
「義兄さん、もう朝よ。起きて」
「ん……」
翌朝、昼斗は揺り起こされた。最初は、自分が何処にいるのか混乱した。ぼんやりと目を開けていると、頬にキスをされる。そこで、昨夜の事を思い出し、昼斗は一気に覚醒した。
身支度を整えて食卓につけば、そこにはパエリアがある。既に朝というにも遅い時間に差し掛かっていた。本来は昨夜食べるはずだった品を囲んで、二人は対面する席に座る。
「いただきます」
手を合わせてから、昼斗は皿を見た。すると珈琲を飲んでいた灯莉がカップを置いた。
「ねぇ、義兄さん」
「なんだ?」
「何処か行きたいところはある?」
「え?」
「体が大丈夫なのは、昨日じっくり確認させてもらったし、これから三日間はお休みだから」
灯莉の言葉に、昼斗は目を丸くしてから、瞬きをした。
入院明けであるから、通常の任務に戻る前に、三日ほどの休暇を与えられていた。
それは昼斗の監視を担当している灯莉も、同じであるらしい。
だが過去の休暇は基本的に、家で寝て過ごしていた昼斗は、咄嗟には思いつかない。近年は休暇時の自由も増えたが、それ以前のパイロットになりたての頃などは、基地から出る事すら許されなかったというのもあり、いつHoopが出現するかも分からない現状において、外出するという発想も、普段からあまり持ち合わせてはいなかった。
「行きたいところ……」
「私としては、たまには外でデートをするのも悪くないと思うんだけど?」
「デ、デートって……」
「違うの?」
「……」
恋人であるかのように笑う灯莉を見て、頬が熱くなってきた昼斗は、顔を背けた。いちいち心臓に悪い、〝義妹〟である。しかしデートだというのであれば、果たしてどこが行き先としてふさわしいのかと、そう考えてみるが、昼斗はやはり何も思いつかなかった。
「適当に街へ出てみる?」
「あ、ああ……」
「じゃあ、そうしましょう」
こうして二人は出かける事になった。
流すように車を走らせている灯莉の隣の助手席で、行きたいところ、行きたいところと念じながら、昼斗は街並みを見ていた。考えてみれば、基地から外出した経験もほとんどない。基地はある種の一個の完成された街でもあるから、外出せずとも事足りるというのも大きい。
既に紅葉は終わっていて、遠目に見える山は緑か茶の色彩を纏っている。この北関東都には雪が降るから、もう少しすれば白銀の衣を纏う事だろう。遠目には、海が見える。しかし若かりし嘗ての頃とは違い、昼斗は海は嫌いだ。
「ん」
その時、海の方角に、観覧車が見えた。
「どうかした?」
「あれは……? 観覧車……?」
「ああ、北関東テーマパークの? 半年前に完成したらしいね。世情が世情だから、少しでも楽しめる場所をという計画で、軍も援助したと聞いているよ」
正面を見たままで、灯莉が答える。
「行ってみる?」
「え? お、俺達二人で、か?」
「何か問題があるの?」
「……いや」
遊園地のイメージは、子連れや恋人同士が遊ぶ場所、というのが昼斗の頭の中にはあったけれど、やっとこちらに視線を向けた灯莉は微笑しているだけだったから、昼斗は軽く首を振って誤魔化した。
そのまま車が左折し、北関東テーマパークの駐車場へと向かう。近づいてくる大観覧車を見上げながら、本日の曇天の空もまた昼斗は視界に捉えていた。平日の昼下がりという事もあり、駐車場は空きが多く、難なく停車した後、二人は入場ゲートまで向かった。当日券を二枚、灯莉が手際よく購入して、微笑しながら片方を昼斗に差し出す。
「行きましょうか」
受け取り、昼斗は灯莉の言葉に頷いた。ゲートを抜けると、正面には風船を配っている着ぐるみのウサギがいて、ポップコーンの出店が見えた。突き当りには、メリーゴーランドがある。Hoopによる災禍のせいで、校舎のある学校が閉鎖されて久しく、児童・生徒は主にリモートで義務教育を受けるこの時代にあっても、平日は真面目に勉強をする子供が多く、園内の客は家族連れよりも恋人同士が多い。やはり場違いな気がしつつも、昼斗は歩く。全てが、物珍しい。昼だというのに、点った電飾が煌びやかに輝いている。
「どのアトラクションに乗る?」
メリーゴーランドの柵の前で立ち止まると、灯莉に訊かれ、昼斗は顔を上げた。薄手のコートのポケットに、左手を入れ、暫しの間考える。ゲートで受け取ったパンフレットを右手で持ち眺めてみるが、初めて来たものだから、名称を見ても、それがどんな遊具なのか皆目見当もつかない。唯一分るのは、それこそ観覧車くらいのものだ。そう考えて、昼斗はチラリとゴンドラの方へと視線を向ける。
「大観覧車が気になるの?」
「あ、その……乗った事が無くてな」
「ふぅん。じゃ、それを乗りに行こきましょう」
唇の端を持ち上げて、灯莉が歩き始める。慌てて昼斗は、その後に従った。
観覧車のスタッフに、当日券を見せてから、灯莉が先にゴンドラに乗り込んだ。緊張しながら昼斗は、床を踏む。そして慌てて腰を下ろしたのだが、その姿を面白そうに灯莉が見ていた。向かい合って座ってから、昼斗は窓の外を見る。ゴンドラが、地上をゆっくりと離れ始める。
「ちょっと意外だった」
「え?」
子供っぽい選択をしたと思われたのかと考え、昼斗が灯莉に視線を向ける。するとそこでは、灯莉が両頬を持ち上げていた。
「義兄さんは、高い所には慣れていると思ってたから、珍しさもないだろうと思って。観覧車かぁ。まぁ同じ理由で絶叫系にも興味は示さないかとは思っていたんだけど」
人型戦略機の話だと理解し、昼斗は瞳を揺らす。確かに空中戦に慣れているから、今となっては空の上から街や海を見下ろす事を、珍しいとは思わない。
「こういう場所に来るのが初めてでな。何に乗ったらいいか、分からなかったんだ」
素直に昼斗は答える事にした。僅かに苦笑が混じった声音を放ってから、改めて窓の外を見る。次第に街並みが見えるように変化し、海もよく見えるようになってきた。行きかう車や、歩道を歩く人々が、どんどん小さくなっていく。
「テーマパーク自体に初めて来たの?」
「そうだ」
「そっか。まぁ私もそんなに来た事があるわけではないけどね。何度か姉さんに連れていってもらった事があるだけだよ。まだ一緒に暮らしていた頃に」
懐かしそうに灯莉が述べた。小さく昼斗は頷く。光莉とも、いつか遊園地に行きたいと、話した記憶があった。だが当時からそれは、〝叶わない夢〟のような話であったから、いざこうして観覧車に乗っても、現実味が薄い。
「こうしていると、世界の何処にもHoopなんていないように思えるな」
ポツリと昼斗が呟く。つかの間の平和を楽しむ権利は、誰にだってあるのだろうが、昼斗にとって、それは概念的なものでしかなくて、いざ己が休暇を楽しむとなると、本当に戸惑ってしまう。
「世界にHoopが存在するのは紛れもない事実だけれど、今、この北関東にはHoopはいない」
「そうだな」
人工島を昼斗が沈没させて以後、Hoopの反応は確認されていない。代わりに多くの人の命を奪った。そう思いだした昼斗の瞳が、僅かに暗さを増した。
「義兄さんが、守ったからよ」
「――え?」
「見て、すごく綺麗な街。これも全部、そこに暮らすみんなも全員、昼斗が守ったのよ。昼斗のおかげで、みんな今も生きていて、こうしてこのテーマパークも営業してる」
「……」
「昼斗が、救ったの」
つらつらと、なんでもない、実に当然の事実であるかのように、灯莉が述べた。
だがこれらの言葉を耳にした時、昼斗は初めて、〝赦された〟ように感じた。
軍法会議の処罰は、結局昼斗を赦してくれはしなかったし、気を楽にしてくれる事も無かったが、今、灯莉の言葉が昼斗の胸に染み入ってくる。改めて窓の外を見る。胸がトクンと疼いた。これまでほとんど意識した事の無かった北関東の街並みは、確かに灯莉の言う通り、とても綺麗だ。それから灯莉を見れば、義妹はじっと窓の外を見据えていた。その端正な面持ちに、昼斗の目が惹きつけられる。灯莉は、昼斗の欲しかった言葉をくれた。昼斗の中で、この時、〝灯莉〟という人間が、特別に変化した。それはきっと、少しだけ赦された気がして、でも、その、『少し』ですら、過去には誰からも与えられなかったからだ。昼斗自身は、常に己を糾弾している。本人が本人を赦せない現在、そして周囲の他の誰もが赦してくれない日々において、昼斗から見ると、灯莉の言葉は、『特別』だった。その言葉を口にした灯莉本人の事も、『特別』になった瞬間だった。
「義兄さん? どうかした?」
昼斗が沈黙した事に気づき、灯莉が視線を向ける。慌てて首を振り、昼斗は――両頬を持ち上げ、唇で弧を描いた。自然と笑みが浮かんできた。
「なんでもない」
「そう?」
「ああ。本当に綺麗な街だと思っていただけだ」
「私も本当にそう思う。だけど義兄さん、凄く嬉しそうね。観覧車、気に入った?」
「……そうだな」
実際には灯莉の言葉が嬉しかっただけなのだが、昼斗は否定しなかった。
その後は、ゴンドラが地上につくまでの間、穏やかに雑談をしながら、街と海を見ていた。嫌いなはずの海も、今日は穏やかに見ていられる。
朝食が遅かったから、閉園まではその後テーマパークを楽しみ、二人はこの日は、外食をして、帰宅した。