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第21話 新しい朝


「……斗。昼斗」

「……」

「昼斗!」

「あ……朝か……」


 鳴り響いているアラームの音。上半身を起こそうとした昼斗は、それが叶わない事に気が付いた。目の前には、覗き込んでいる灯莉の顔がある。大きなソファと厚手の毛布が昨夜からの自分のベッドに変わったのだったなと思いだしながら、昼斗は緩慢に瞬きをした。全身が重い。


「そうだ、朝食を……」


 今日から作るのだったなと思い出しながら昼斗が呟くと、灯莉が目を眇めた。


「起き上がれそうなの?」

「え?」

「体温計がずっと鳴ってるけど」


 その言葉に、目覚まし時計の音ではないのかと考えながら、昼斗は上半身を起こした。するとチェストに歩み寄った灯莉が、室温管理システムのモニターを見た。気温や湿度、外気なども管理するが、その最先端の端末は、マンション内部の人間の体温や脈拍の測定もしている。灯莉が操作すると、音が停止した。


「三十九度と出ているけど」

「……?」

「だから、熱。この暖かい室内で、ソファに移動したからと言って、風邪をひくとは思わなかったんだけど。軟弱ね」

「風邪?」

「――粕谷大尉は高熱なの。他の症状は?」

「別に。確かに少し怠いけどな、風邪という感じはしない」

「ふぅん? 着替えられそう?」

「ああ。それよりも朝食を……」

「そんな場合じゃないわよね?」


 片目だけを細くした灯莉の表情は、非常に険しい。おずおずと上半身を起こしながら、昼斗は戸惑った。その前に、灯莉が洋服を持ってきて、押し付けた。片手で受け取りながら、昼斗は細く長く吐息する。もう何年も、風邪など引いた事が無いし、熱を出した記憶もなかったから、熱があると言われても実感がわかない。


「行くよ」


 その後不機嫌そうな顔の灯莉に促されて、着替えた昼斗は家を出た。




「ストレス性の発熱ですね」


 車内も無言で、無表情の灯莉の隣にいた昼斗は、基地の病院でそう告げられた。

 最初、何を言われたのか、上手く理解出来なかった。


「体には異常がありません。何か、最近ありましたか?」


 医師の、相良早織さがらさおりの言葉に、昼斗は首を振る。黒縁の眼鏡をかけた青年医師は、腕を組み、チラリと背後に立っていた灯莉を一瞥した。灯莉は相変わらずの無表情だ。


「まぁ、俗にいう知恵熱です。ただ、高熱ですから相応に体は疲弊します。なるべくストレスを貯めないように、安静にする事が大切ですね」


 相良の診断に、昼斗が頷いた。しかし本人の意識上には、本当に心当たりは特になかった。診察後、今日はそのまま帰宅する事になり、二人は車に乗り込んだ。するとハンドルに右手を置き、灯莉が前を見たままで述べた。


「そんなに昨日の事は、ショックだったの?」

「昨日の事? いいや?」

「じゃあ何か他にストレスが?」

「灯莉、お前のせいじゃないぞ。お前は、正しい事しか言っていない」

「……そうだね。私はそう思ってる」

「知恵熱だっていうし、明日には落ち着いているだろう。明日の朝こそ、俺が作る」


 昼斗はそう言うと――唇の端を持ち上げた。めったにこれまで笑わなかった昼斗だったが、自然と笑う事が出来たのは、灯莉を安心させたいという気持ちがあったからだ。チラリとそれを見た灯莉は、無表情のままで、ただ不機嫌そうな顔をしているだけだった。


 その言葉の通り、翌朝には昼斗の熱は下がっていた。




 熱がおさまったその朝、昼斗は今度こそアラームの音で目を覚ました。毛布から這い出て窓の外を見れば、まだ暗い。時刻は午前四時半。つい先日までであれば、灯莉の腕の中で眠っていた時間帯である。


 嫌な夢を見て、飛び起きた。そのまま寝付けず、無理に目を閉じ横になっていたのだが、しっかりと覚醒したのは、アラームのおかげだった。目覚まし時計を停止させ、キッチンへと向かう。そして冷蔵庫を開けて、ぼんやりと贖罪の確認をした。


 もう何年も一人暮らしをしているが、基地で食べるか、購入して帰っていたから、実を言えばそれほど料理経験があるわけではない。何を作ろうかと考えて、卵を一つ手に取ってみる。白い外殻は、思ったよりもざらついていた。


「なに、これは……?」


 午前六時を過ぎた頃、灯莉が起きてきた。昼斗は、焦げた卵焼きを見る。


「卵焼きだ」

「私の料理の見た目を称賛していたのは、粕谷大尉は見た目すらも完成させられないからという理解でいい?」

「味は悪くないと思う」


 昼斗がそう言ってフライパンから皿に卵焼きを移すと、灯莉が腕を組んだ。

 その後、これまでよりも早い時間に、朝食が始まった。


 理由は一つで、灯莉の起床が早いからだ。灯莉は料理をしなくても、朝は六時に起きるらしいと、昼斗は一つ学んだ。


「ねぇ、あのね?」

「なんだ?」

「味は……悪くない……? 本当に? 粕谷大尉は、私の厚焼き玉子とこの卵を焦がした品を比較して、本気でそう思ってる?」


 灯莉が久しぶりに笑顔を見せた。完全にその表情は引きつっていたが、昼斗は、灯莉の笑顔は貴重だと思うから、見ていて胸が温かくなった。


「……作り直すか?」

「作り直すと向上するの? 即ちこれは、私に対する嫌がらせ?」

「いいや。俺は料理を粗末にしたりしない」

「つまり、全力?」

「そうだ」

「……もういいよ。洗濯と掃除は、出来る? 出来るか否かから聞かせてもらうけど」

「一人暮らしが長いからな」

「信用できない回答ねぇ……」


 灯莉が辟易したような顔をしてから、目を閉じた。そしてじっくりと腕を組む。


「私にとって家事は、家族との共同生活の場か己のために行うのでなければ、それは雇われた誰か、あるいは下僕の仕事だったんだけど……粕谷大尉には、当然この中で、〝下僕〟の役割を果たしてもらおうと思っていたんだけどね……生活に支障が出るな、これじゃあ。現実的な問題だ。あのさ、生活能力は何処に欠如してきたの? パイロット技能以外の取り柄は?」


 冷静な声で灯莉に問われ、昼斗は小首を傾げた。


「俺が一人で生きてきた分には、困らなかった」

「結婚が回避できて、姉さんは幸運だったと私には思える」


 何気なく灯莉が放ったその一言に、昼斗が息を飲んだ。無性に胸が苦しい。一泊の間、凍り付いたように変わった昼斗の表情を見て、灯莉が焦ったように顔を背けた。


「……家事は、出来る範囲で構わないよ。もういい。私としては、粕谷大尉と言葉を交わす事すら実を言えば億劫だから、今後は必要最低限以外は、話しかけないでもらえる?」

「ああ」

「うん。それでいいよ」


 灯莉はそう言いながら焦げた卵焼き――卵の焦げた品を一瞥し、その後完食した。




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