こうして灯莉は、昼斗に話しかけなくなったし、昼斗もまた、言われた通りに灯莉に対して話しかけなくなった。それまでは、〝義兄さん〟と呼び、終始笑顔で昼斗の隣に立っていた灯莉の態度の変化には、基地の人々もすぐに気が付いた。
昼斗は時折何か言いたそうに灯莉を見て、そしてたまに声をかける。しかし返ってくるのは露骨な無視だ。子供でも分かる態度の変化。いいや、寧ろ子供の方が馴染みがあるかもしれない、稚拙な対応――しかし、基地の人々の多くはそれを歓迎した。
灯莉が着任してから、そばにいる際、昼斗への嫌がらせは収まっていた。
理由はほかでもなく、階級の高い灯莉が、怖い顔をするからだ。
だが今回、その灯莉が公認して、嫌がらせを認めているかのような、そんな空気が溢れた。
灯莉と昼斗は、いつも二人で食堂に訪れる。その時、昼斗が頼んだざるそばの上に、〝トッピング〟だとして生ごみが載せられていても、今の灯莉は何も言わず、無表情だ。昼斗自身は以前から何も言わない。このようにして、嫌がらせは元に戻り、いいや悪化した。
昼斗の前に足を出し、昼斗が躓き、そこへ誰かがコップの水をかけても、灯莉は何も言わなくなった。その変化に喜んだ者は、多数いる。閉塞的な基地という環境下にあって、周囲は常に鬱憤の捌け口を探している。それには最適なスケープゴート、それが昼斗だった。
元々、パイロット適性があった昼斗には、〝適性が無かった人々〟からのやっかみもあった。妬み、嫉妬。人類の危機に際しても、それらは根絶されない。いいや、限界状況下にあるからこそ、人間のありのままの醜さも表出しがちだ。
この日は、薬味の代わりに、蟻の死骸が出てきた。それを目にした瞬間、並大抵の嫌がらせでは表情を変えなかった昼斗が、珍しく泣きそうな目をした。Hoopを彷彿とさせる蟻は、昼斗にとって、恐怖を喚起する。両者の類似を知る者は多かったし、だからこそ嫌がらせのために、厨房の誰かもニヤニヤ笑いながら用意をしたのだが、箸を持って凍り付いた昼斗は、何か言いたそうに唇を震わせ、直後気絶した。
――それだけの事を、自分はしてきたのだから。
昼斗は悔恨に苛まれながら目を開けた。もう見慣れた天井は、灯莉と暮らすマンションのリビングのものだった。ソファに横になっていると気づきつつ、上半身を起こせば、毛布が床に落ちた。キッチンからは、良い匂いがしたが、食欲なんてない。
現在、昼斗の体の内側にある感情は、名前を付けるならば、〝諦観〟だった。周囲は誰も悪くない。悪いのは、己だ。
「目が覚めたの?」
そこへ灯莉が顔を出した。黒いエプロンを解きながら、灯莉があからさまに溜息をついた。
「急に倒れたから、驚いた」
「……悪かったな」
二人の間に生まれた、久しぶりの会話だった。昼斗は、話を出来たのが嬉しくて、小さく口元を綻ばせた。すると灯莉が奇怪なものを見るような目をする。
「なんで笑ってるの?」
「ん?」
「……別に私は、粕谷大尉の心配なんて微塵もしてないからね?」
「ああ、分かってる」
「……そう」
灯莉は顎で頷いてから、踵を返した。この日の夜は、煮込みうどんだった。
現在、料理は灯莉の仕事に戻っている。
結局のところ、変化はと言えば、灯莉の態度と会話の頻度を除けば、就寝場所がソファになった事くらいだった。だから昼斗は、灯莉を見る度に考える。〝優しいな〟と。昼斗から見れば、灯莉は優しいままだった。
翌朝は、七時半に目を覚ます。結局料理をしないから、昼斗の起床時刻は元に戻った。ただ、灯莉は起こしてくれなくなったから、アラームの音で瞼を開けている。
この朝、食卓へと向かうと、美味しそうな見た目の和食があって、その隣に、昨日までは無かったトートバッグがあった。なんだろうかと視線を向けた昼斗の前で、灯莉がその隣に、水筒型の保温器を置く。
「こっちはクラムチャウダーだから、飲み物は、自動販売機で自分で買って」
「クラムチャウダー?」
「――お弁当よ」
灯莉はそう述べると、対面する席に座り、ほうれん草の胡麻和えに箸を伸ばしたのだった。
「なぁ、昼斗。喧嘩でもしたの? お姉さんに話してごらんなさい」
訓練フロアに昼斗が入ると、周囲を見渡してから、蛍が声をかけてきた。本日は、久方ぶりに灯莉が三月の司令官室へと向かった。
「喧嘩? 誰と?」
「瑳灘大佐以外に誰がいるって言うのよ? ん?」
「別に俺と灯莉は、喧嘩なんかしてない」
「その言い訳は、ちょっと苦しいなぁ」
「言い訳じゃない。その……自然な関係になっただけだ」
「自然な関係……? それは何? 常に付き従ってるのに無視する対応? それが、自然だと?」
「仕事だからな。必要な会話以外は必要がないだろう」
「……監視の目が厳しくなった、と、そういう理解でいいの?」
蛍は片手で前髪を書き上げると、納得がいかないという眼差しで昼斗を見る。
「私としては、そうだなぁ。昼斗が幸せなら、それでいいよ?」
「うん?」
「でも――最近の昼斗の目は暗い。辛そう」
「そうか? 俺はいつも通りだけどな」
「……昼斗は、自分の感情に鈍い部分があるとは、私も思う。だから私が教えてあげる。はっきり言って、今の昼斗は、辛そう。私はな、人の心は他人には分からないなんて言うのは、妄言だと思ってる。外から見ていた方がよく分かる事だってあるんだよ」
「どういう意味だ?」
「今の昼斗は泣きそうに見える。私でいいなら抱きしめて、思いっきり甘やかして、撫で撫でしてあげたい!」
「いい歳の大の男を撫でる……?」
腕を組んだ蛍は、それからじっと昼斗を見据えた。
「真面目な話、大丈夫なの?」
「だから、何が?」
「辛くないのか?」
「……」
昼斗は押し黙った。それから、視線を床に下げ、唇でだけ、笑みを形作る。
「俺が悪いんだ」
「昼斗が悪い?」
「そうだ。そうなんだよ。他の誰が悪いわけでもない。灯莉も悪くない。悪いのは、俺だ」
「昼斗が何をしたって言うの?」
「――色々したさ。この前だって、一千万人も殺したのは、俺だ」
自嘲気味な笑みを浮かべてから、昼斗は顔を上げた。すると、保が険しい顔をする。
「それは、昼斗のせいではないし、昼斗が責任を感じるべき事じゃない」
「だが、実行したのは、俺だ。悪いのは、俺だ。俺なんだよ」
「本当にそう思ってるらしいから言わせてもらうが――それは、誤った信念だよ」
蛍の声が低くなる。両手で保が、昼斗の肩に触れた。それから、指に力を込めた。
「あの人工島には、ね。私の両親が住んでた」
「っ」
「死んだよ」
「……そうか」
「でもね? 昼斗が、実行していなかったならば、私達は今頃生きてはいない。呼吸して酸素を得るという自由すら無かったはず。私は、昼斗を恨んでなんかいない。昼斗は、私達を助けてくれたんだ」
「蛍……」
「紛れもなく、昼斗は〝英雄〟だし〝希望〟だよ。〝希望そのもの〟だから。昼斗がいるから、今、この国はここにある」
いつもは穏やかな瞳をしている蛍が、冷静ながらもまくしたてるような剣幕で告げた。
「昼斗は仕事で仕方なくやって悔やんでいるのかもしれない。でもな、結果はどう? それで、どれだけの人間が、救われたと思う?」
「……俺は――」
「昼斗は何も間違った事はしていない。そんなお前がいわれのない誹りを受ける事を、私は望まない。それを許容するようなら、瑳灘大佐の事も認める気にはならない。私は、昼斗の事が好き。昼斗の事を、信じているし、昼斗がどんな人間か知るくらいの期間は、一緒にいたと思ってる。だから、泣きたくなったら、私の胸で泣けばいい」
そう言うと、蛍は昼斗に抱きついた。
久しぶりに感じる他者の体温に、昼斗は息を詰める。
「私がいる。だからそんな風に、悲しい顔、しないで」
「蛍……」
「――ま、悲しい事に私より昼斗の方がずっと強いから、守ると言っても信ぴょう性はないだろうけど。私は、いつでも昼斗のそばにいるよ。だから、辛い時は、お姉さんに話しなさい」
「俺の方が年上だ」
「精神的には、私の方が成熟してると思うのよ」
「言ってろ」
昼斗はそう言って、久しぶりに心からの微笑を浮かべた。
その場に――Hoopの飛来を告げる緊急警報が鳴り響いた。
腕を離した蛍が強張った顔をする前で、昼斗は神妙な表情で頷く。
「行ってくる」
「……気をつけてね」
昼斗の名を呼び、招集するアナウンスを耳にしながら、バシンと蛍が昼斗の肩を叩いた。頷き返してから、昼斗は背後を見る。そして踵を返して走り始めた。
向かった先は格納庫で、そこには環が待機していた。
環は昼斗を見ると、心なしか不安そうな瞳をした。
「最近、体調不良で病院にかかったって、相良から聞いたぞ。大丈夫か?」
「ああ、問題ない」
「そうか。まぁ心苦しいのは、問題があっても、パイロットに代えがいない事だな」
「機体にはもっと代えがきかないだろ?」
昼斗がそう言って笑うと、環が目を瞠った。それから首を振る。
「俺はそうは思わない。生み出してる機体だから愛着はある。でも、人の命には代えられない。危なくなったら、A-001は破棄して、お前だけでも脱出ポッドで戻れよ」
「環……」
それは、昼斗が端緒に出会った研究者の見解とは、百八十度逆の考えだ。
だが――A-001には、脱出ポッドは存在しない。
昼斗が〝イメージ〟した事がないからだ。
「生きて帰れ。待ってるから」
環の表情には、嘘は見えない。だから昼斗は、微笑して頷いた。
梯子を上ってハッチを抜け、コクピットへと至る。そして球体に触れて、機体を起動しながら、モニターに表示されているHoopの情報を見る。このまま行くと、旧東北圏にHoopが飛来するらしい。パイロットスーツの感触を、掌を握ったり開いたりして確かめながら、昼斗は精神を集中させた。
「A-001出撃します」
その後指示を待って、そう述べてから、昼斗は操縦桿を引いた。
《浮気者が》
昼斗は機体の声に、吹き出しそうになった。先日テストした時の事を思い出す。
「お前は、俺が他の機体に乗るのが嫌なのか?」
軽口を返しながら、AI言語プログラムは機微にとんでいるなと考える。
《嫌に決まっているだろ。お前は、俺のパイロットなんだろ? 俺だって、お前だから力を貸すんだ。お前以外には、興味が今のところないぞ》
昼斗は喉で笑って頷いてから、出撃した。
格納庫のシャッターを抜けて高く飛行し、まず視界に入ったのは海だった。大嫌いになってしまった海だが、今は目にしても辛くはない。多分、観覧車に乗った時に、〝赦された〟からだ。昼斗にとっては、紛れもなく灯莉が救世主だった。水平線の向こうには、沈もうとしている太陽が見える。蒼い海には、陽の筋が伸びている。
自動操縦に切り替わり、目的地の旧栃木以降――旧福島全域上空に入ったところで、昼斗は操作方法を切り替える。空から落下してくる、〝黒〟が見える。それが飛来してきたHoopだというのは、すぐに理解出来た。
モニターに視線を戻せば、その数が表示される。数百、その数は、決して少なくはない。クレーターを蠢くように見せるほどの巨体をしたHoopは、ダム湖に巣を作っていた幼生と比較するならば、本来一つ一つが巨大だ。
昼斗の眼差しが、鋭く変わる。
《俺には、分からんな。自分を害する周囲のために戦うなどという、人間の良心が》
その時、機体の声がした。昼斗は吹き出すように笑った。
「自己満足だ、ただのな」
こうして、交戦が始まった。