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第22話 クラムチャウダー

 こうして灯莉は、昼斗に話しかけなくなったし、昼斗もまた、言われた通りに灯莉に対して話しかけなくなった。それまでは、〝義兄さん〟と呼び、終始笑顔で昼斗の隣に立っていた灯莉の態度の変化には、基地の人々もすぐに気が付いた。


 昼斗は時折何か言いたそうに灯莉を見て、そしてたまに声をかける。しかし返ってくるのは露骨な無視だ。子供でも分かる態度の変化。いいや、寧ろ子供の方が馴染みがあるかもしれない、稚拙な対応――しかし、基地の人々の多くはそれを歓迎した。


 灯莉が着任してから、そばにいる際、昼斗への嫌がらせは収まっていた。

 理由はほかでもなく、階級の高い灯莉が、怖い顔をするからだ。


 だが今回、その灯莉が公認して、嫌がらせを認めているかのような、そんな空気が溢れた。


 灯莉と昼斗は、いつも二人で食堂に訪れる。その時、昼斗が頼んだざるそばの上に、〝トッピング〟だとして生ごみが載せられていても、今の灯莉は何も言わず、無表情だ。昼斗自身は以前から何も言わない。このようにして、嫌がらせは元に戻り、いいや悪化した。

 昼斗の前に足を出し、昼斗が躓き、そこへ誰かがコップの水をかけても、灯莉は何も言わなくなった。その変化に喜んだ者は、多数いる。閉塞的な基地という環境下にあって、周囲は常に鬱憤の捌け口を探している。それには最適なスケープゴート、それが昼斗だった。


 元々、パイロット適性があった昼斗には、〝適性が無かった人々〟からのやっかみもあった。妬み、嫉妬。人類の危機に際しても、それらは根絶されない。いいや、限界状況下にあるからこそ、人間のありのままの醜さも表出しがちだ。


 この日は、薬味の代わりに、蟻の死骸が出てきた。それを目にした瞬間、並大抵の嫌がらせでは表情を変えなかった昼斗が、珍しく泣きそうな目をした。Hoopを彷彿とさせる蟻は、昼斗にとって、恐怖を喚起する。両者の類似を知る者は多かったし、だからこそ嫌がらせのために、厨房の誰かもニヤニヤ笑いながら用意をしたのだが、箸を持って凍り付いた昼斗は、何か言いたそうに唇を震わせ、直後気絶した。


 ――それだけの事を、自分はしてきたのだから。


 昼斗は悔恨に苛まれながら目を開けた。もう見慣れた天井は、灯莉と暮らすマンションのリビングのものだった。ソファに横になっていると気づきつつ、上半身を起こせば、毛布が床に落ちた。キッチンからは、良い匂いがしたが、食欲なんてない。


 現在、昼斗の体の内側にある感情は、名前を付けるならば、〝諦観〟だった。周囲は誰も悪くない。悪いのは、己だ。


「目が覚めたの?」


 そこへ灯莉が顔を出した。黒いエプロンを解きながら、灯莉があからさまに溜息をついた。


「急に倒れたから、驚いた」

「……悪かったな」


 二人の間に生まれた、久しぶりの会話だった。昼斗は、話を出来たのが嬉しくて、小さく口元を綻ばせた。すると灯莉が奇怪なものを見るような目をする。


「なんで笑ってるの?」

「ん?」

「……別に私は、粕谷大尉の心配なんて微塵もしてないからね?」

「ああ、分かってる」

「……そう」


 灯莉は顎で頷いてから、踵を返した。この日の夜は、煮込みうどんだった。

 現在、料理は灯莉の仕事に戻っている。


 結局のところ、変化はと言えば、灯莉の態度と会話の頻度を除けば、就寝場所がソファになった事くらいだった。だから昼斗は、灯莉を見る度に考える。〝優しいな〟と。昼斗から見れば、灯莉は優しいままだった。


 翌朝は、七時半に目を覚ます。結局料理をしないから、昼斗の起床時刻は元に戻った。ただ、灯莉は起こしてくれなくなったから、アラームの音で瞼を開けている。


 この朝、食卓へと向かうと、美味しそうな見た目の和食があって、その隣に、昨日までは無かったトートバッグがあった。なんだろうかと視線を向けた昼斗の前で、灯莉がその隣に、水筒型の保温器を置く。


「こっちはクラムチャウダーだから、飲み物は、自動販売機で自分で買って」

「クラムチャウダー?」

「――お弁当よ」


 灯莉はそう述べると、対面する席に座り、ほうれん草の胡麻和えに箸を伸ばしたのだった。




「なぁ、昼斗。喧嘩でもしたの? お姉さんに話してごらんなさい」


 訓練フロアに昼斗が入ると、周囲を見渡してから、蛍が声をかけてきた。本日は、久方ぶりに灯莉が三月の司令官室へと向かった。


「喧嘩? 誰と?」

「瑳灘大佐以外に誰がいるって言うのよ? ん?」

「別に俺と灯莉は、喧嘩なんかしてない」

「その言い訳は、ちょっと苦しいなぁ」

「言い訳じゃない。その……自然な関係になっただけだ」

「自然な関係……? それは何? 常に付き従ってるのに無視する対応? それが、自然だと?」

「仕事だからな。必要な会話以外は必要がないだろう」

「……監視の目が厳しくなった、と、そういう理解でいいの?」


 蛍は片手で前髪を書き上げると、納得がいかないという眼差しで昼斗を見る。


「私としては、そうだなぁ。昼斗が幸せなら、それでいいよ?」

「うん?」

「でも――最近の昼斗の目は暗い。辛そう」

「そうか? 俺はいつも通りだけどな」

「……昼斗は、自分の感情に鈍い部分があるとは、私も思う。だから私が教えてあげる。はっきり言って、今の昼斗は、辛そう。私はな、人の心は他人には分からないなんて言うのは、妄言だと思ってる。外から見ていた方がよく分かる事だってあるんだよ」

「どういう意味だ?」

「今の昼斗は泣きそうに見える。私でいいなら抱きしめて、思いっきり甘やかして、撫で撫でしてあげたい!」

「いい歳の大の男を撫でる……?」


 腕を組んだ蛍は、それからじっと昼斗を見据えた。


「真面目な話、大丈夫なの?」

「だから、何が?」

「辛くないのか?」

「……」


 昼斗は押し黙った。それから、視線を床に下げ、唇でだけ、笑みを形作る。


「俺が悪いんだ」

「昼斗が悪い?」

「そうだ。そうなんだよ。他の誰が悪いわけでもない。灯莉も悪くない。悪いのは、俺だ」

「昼斗が何をしたって言うの?」

「――色々したさ。この前だって、一千万人も殺したのは、俺だ」


 自嘲気味な笑みを浮かべてから、昼斗は顔を上げた。すると、保が険しい顔をする。


「それは、昼斗のせいではないし、昼斗が責任を感じるべき事じゃない」

「だが、実行したのは、俺だ。悪いのは、俺だ。俺なんだよ」

「本当にそう思ってるらしいから言わせてもらうが――それは、誤った信念だよ」


 蛍の声が低くなる。両手で保が、昼斗の肩に触れた。それから、指に力を込めた。


「あの人工島には、ね。私の両親が住んでた」

「っ」

「死んだよ」

「……そうか」

「でもね? 昼斗が、実行していなかったならば、私達は今頃生きてはいない。呼吸して酸素を得るという自由すら無かったはず。私は、昼斗を恨んでなんかいない。昼斗は、私達を助けてくれたんだ」

「蛍……」

「紛れもなく、昼斗は〝英雄〟だし〝希望〟だよ。〝希望そのもの〟だから。昼斗がいるから、今、この国はここにある」


 いつもは穏やかな瞳をしている蛍が、冷静ながらもまくしたてるような剣幕で告げた。


「昼斗は仕事で仕方なくやって悔やんでいるのかもしれない。でもな、結果はどう? それで、どれだけの人間が、救われたと思う?」

「……俺は――」

「昼斗は何も間違った事はしていない。そんなお前がいわれのない誹りを受ける事を、私は望まない。それを許容するようなら、瑳灘大佐の事も認める気にはならない。私は、昼斗の事が好き。昼斗の事を、信じているし、昼斗がどんな人間か知るくらいの期間は、一緒にいたと思ってる。だから、泣きたくなったら、私の胸で泣けばいい」


 そう言うと、蛍は昼斗に抱きついた。

 久しぶりに感じる他者の体温に、昼斗は息を詰める。


「私がいる。だからそんな風に、悲しい顔、しないで」

「蛍……」

「――ま、悲しい事に私より昼斗の方がずっと強いから、守ると言っても信ぴょう性はないだろうけど。私は、いつでも昼斗のそばにいるよ。だから、辛い時は、お姉さんに話しなさい」

「俺の方が年上だ」

「精神的には、私の方が成熟してると思うのよ」

「言ってろ」


 昼斗はそう言って、久しぶりに心からの微笑を浮かべた。


 その場に――Hoopの飛来を告げる緊急警報が鳴り響いた。


 腕を離した蛍が強張った顔をする前で、昼斗は神妙な表情で頷く。


「行ってくる」

「……気をつけてね」


 昼斗の名を呼び、招集するアナウンスを耳にしながら、バシンと蛍が昼斗の肩を叩いた。頷き返してから、昼斗は背後を見る。そして踵を返して走り始めた。


 向かった先は格納庫で、そこには環が待機していた。

 環は昼斗を見ると、心なしか不安そうな瞳をした。


「最近、体調不良で病院にかかったって、相良から聞いたぞ。大丈夫か?」

「ああ、問題ない」

「そうか。まぁ心苦しいのは、問題があっても、パイロットに代えがいない事だな」

「機体にはもっと代えがきかないだろ?」


 昼斗がそう言って笑うと、環が目を瞠った。それから首を振る。


「俺はそうは思わない。生み出してる機体だから愛着はある。でも、人の命には代えられない。危なくなったら、A-001は破棄して、お前だけでも脱出ポッドで戻れよ」

「環……」


 それは、昼斗が端緒に出会った研究者の見解とは、百八十度逆の考えだ。

 だが――A-001には、脱出ポッドは存在しない。

 昼斗が〝イメージ〟した事がないからだ。


「生きて帰れ。待ってるから」


 環の表情には、嘘は見えない。だから昼斗は、微笑して頷いた。


 梯子を上ってハッチを抜け、コクピットへと至る。そして球体に触れて、機体を起動しながら、モニターに表示されているHoopの情報を見る。このまま行くと、旧東北圏にHoopが飛来するらしい。パイロットスーツの感触を、掌を握ったり開いたりして確かめながら、昼斗は精神を集中させた。


「A-001出撃します」


 その後指示を待って、そう述べてから、昼斗は操縦桿を引いた。


《浮気者が》


 昼斗は機体の声に、吹き出しそうになった。先日テストした時の事を思い出す。


「お前は、俺が他の機体に乗るのが嫌なのか?」


 軽口を返しながら、AI言語プログラムは機微にとんでいるなと考える。


《嫌に決まっているだろ。お前は、俺のパイロットなんだろ? 俺だって、お前だから力を貸すんだ。お前以外には、興味が今のところないぞ》


 昼斗は喉で笑って頷いてから、出撃した。


 格納庫のシャッターを抜けて高く飛行し、まず視界に入ったのは海だった。大嫌いになってしまった海だが、今は目にしても辛くはない。多分、観覧車に乗った時に、〝赦された〟からだ。昼斗にとっては、紛れもなく灯莉が救世主だった。水平線の向こうには、沈もうとしている太陽が見える。蒼い海には、陽の筋が伸びている。


 自動操縦に切り替わり、目的地の旧栃木以降――旧福島全域上空に入ったところで、昼斗は操作方法を切り替える。空から落下してくる、〝黒〟が見える。それが飛来してきたHoopだというのは、すぐに理解出来た。


 モニターに視線を戻せば、その数が表示される。数百、その数は、決して少なくはない。クレーターを蠢くように見せるほどの巨体をしたHoopは、ダム湖に巣を作っていた幼生と比較するならば、本来一つ一つが巨大だ。


 昼斗の眼差しが、鋭く変わる。


《俺には、分からんな。自分を害する周囲のために戦うなどという、人間の良心が》


 その時、機体の声がした。昼斗は吹き出すように笑った。


「自己満足だ、ただのな」


 こうして、交戦が始まった。



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