――破棄の拒否、それは当然だろうなと昼斗も感じた。
この日帰宅し、リビングのチェストの上の写真立てを一瞥しながら、昼斗は唇を舌で舐めた。写真立ての中で笑っている若い頃の己と、光莉。人生で二度目の恋をしている現在、申し訳なくは有れど、胸の疼きが向く対象は、今しがたキッチンへと向かった灯莉だ。きっとそれを告げたら光莉には怒られるだろうと思いながら、昼斗はマフラーをほどいた。
クリスマスまでは、あと数日だ。
カウントダウンをするほどのロマンティストではなかったが、灯莉がケーキを注文するらしいというのを知ってからは、冷蔵庫の表面にマグネットで張り付けてあるチラシを何度か目にし、微笑している。
「できたよ」
本日の夕食は、中華らしい。チンジャオロースーやエビチリの皿が、食卓に並べられていく。温かな湯気がのぼっている。卵ときくらげのスープを置いた灯莉は、椅子を引いた昼斗を一瞥した。
「明日は、新型兵器の実験なんだってね」
「ああ」
「しっかり食べて、よく眠って、ミスをしないようにね」
厳しい声音だったが、今ではそこから、灯莉が心配してくれているのだと、昼斗は感じ取れるようになった。明日は成層圏を抜けて、衛星軌道上で、前々より開発されていた新型超電磁砲〝カグツチ〟の実験がある。環が開発責任者を務めた、日本国独自の新型兵器だ。以前より実動テストの打診を受けていたのだが、Hoopやラムダの攻勢もあり、また昼斗の入院もあったから、遅れていた代物である。
「平気だ」
微笑し、昼斗はそう答えた。
と、同時に、ある決意を固めていた。実験は、人型戦略機で行う。十八のあの日、部屋に振ってきてから常に共にいる、エノシガイオスの第一世代機、A-001で行う。機体の声によれば、〝ラムダの秘宝〟そのものである、その機体で。
宇宙まで出られる機会は、今となってはそう多くはない。
だから――ラムダに、〝秘宝〟を返還できるタイミングとしては、決して逃す事が出来ない状況だ。それは、首脳部の決定とは異なる。司令の三月に知られたならば、目をむかれる事は間違いない。
昼斗は、計画を脳裏に再度思い浮かべる。
明日の〝カグツチ〟の実験時に、そのまま、計画軌道をはずれて、ラムダへと向かうという、個人の計画だ。本当にそれで、Hoopの侵略が止まるのかは分からないが、この計画を実行できるのは、己しかいないというのは理解していた。
「いただきます」
灯莉が手を合わせた時、昼斗は我に返った。慌てて自分も手を合わせる。
「いただきます」
「昼斗ってさ、野菜が嫌いよね」
「そんな事は無いぞ? 歳をとると、野菜の方がおいしく感じる」
「じゃあどうしてチンジャオロースのピーマンを避けるの?」
「そ、それは……」
「ピーマンの肉詰めは、肉しか食べないの?」
「え、ええと……」
「野菜じゃなくて、ピーマンが嫌いって理解でいい?」
呆れたような灯莉の声を聴きながら、昼斗は顔を背けた。だが、それから思いなおして、改めて灯莉の顔を見る。不機嫌そうな顔、声音。だが、いずれも愛おしい。昼斗から見れば、それは世界の全てだった。
「灯莉」
無表情に近い灯莉に向かい、昼斗は声をかける。
「なに?」
するとチラリと視線を上げた灯莉が、昼斗を見た。あゝ。
「好きだ」
「――ピーマンが?」
「……灯莉、一緒にいてくれて、有難う」
「なに、いきなり」
「このエビチリは、ちょっと不味い」
「雰囲気をぶち壊しに来たな? ちょっとってなに? 本当、昼斗、そう言うとこだから」
灯莉はそう告げたが、その耳が僅かに朱くなった。照れているらしいと判断し、昼斗は気を良くする。明日で全てが終わるのだけれど、最後にこうして気持ちを伝える事が出来た事も嬉しかった。だから、両頬を持ち上げる。
「俺は、今、すごく幸せだ」
呟くように昼斗はそう述べてから、中華料理を食したのだった。
月クレーターを昼斗は見据えた。日本国産新型兵器、〝カグツチ〟を構え試射をする。薙ぎはらわれるかのように、月表面にいたHoopの群れが一掃された。
『帰投しろ。テストは大成功だ』
明るい環の声を耳にしながら、スッと昼斗は双眸を鋭くした。左手でタッチパネルを操作して、自動操縦をOFFにする。そして右手で淡い緑色の光を放つ球体に触れて、そのままその場を離脱した。
「昼斗……?」
モニタリングしていた環の、呆気にとられたような声が響いてくる。しかしそれを無視し、昼斗は通信装置の電源もOFFにした。
宇宙は、暗い。けれど無数の銀色に似た光がある。まるで川のようだと思いながら、昼斗は右手の球体に、離陸の指示を〝イメージ〟で送る。すると人型戦略機は、一拍置いてから、超高速で月軌道から離れた。
「昼斗!」
最後に
――秘宝を返還する。
それが、昼斗の決めた事柄だった。即ちそれは、己の死と同じである。けれど、そこに後悔はない。星々の合間を、昼斗の搭乗した人型戦略機が飛んでいく。
「あとは、死ぬだけだな」
ポツリと呟いた昼斗は、巨大な木星の表面を見た。この衛星にも、ラムダ由来の文明が広がっていると教えてくれたのは、エノシガイオスだ。昼斗は愛機の壁に手で触れる。
《本当によかったのか?》
すると機体から声がした。その男性の声は、淡々としていたが、いつもよりも心配そうだと昼斗には判断できた。だから喉で笑ってから、昼斗は頷く。
「ああ。これで地球が救われるんなら易いものだ」
《よかったのか?》
「何も悪い事なんてないだろ? きちんと返還して、それで、そうすれば、また平和が戻ってくるんだろ?」
昼斗が両頬を持ち上げる。エノシガイオスは、何も言わない。沈黙している。
目を伏せた昼斗は、先日街で見かけた親子連れを思い出した。玩具店では、果たして何を購入したのだろうか。今も、地表には、幸せそうに街を歩く人々がいるはずだ。それを、守りたい。それが出来たならば、きっと幸せだ。
《本当に、満足か?》
「ああ、満足だよ」
《俺はお前を手放したくないから、それが本心ならば、このまま連れていく》
「本心だ」
《もう一度訊く。本当にいいのか?》
機体の声が、僅かに低くなった。だが目を開けずに、昼斗は微笑したままで頷いた。
「勿論だ」
すると機体が、呆れたように吐息するような気配がした。
《――周囲はそうは思っていないようだが?》
エノシガイオスの声が響くと、それまで暗くなっていたコクピットに光りが灯った。地球から離れたせいで、計器が暗くなっていたのに、一斉に明かりが点く。瞼の向こうの光に驚いて、昼斗もまた目を開けた。するとモニターには、第三世代機が映っていた。瀬是のものとは違うが、特徴からそう判断する。しかし、見覚えはない。
「あれは……」
既に地球側からの電波は入らない距離にあるはずなのに、モニターに鮮明に映っている機影。それを見て、昼斗は首を傾げる。
《お前を探しているようだぞ》
「一体、誰が?」
《さぁな。嫉妬する、が、きっと昼斗が求めている相手なんじゃないのか? |適性《・・》は十分あったのだしな》
「え?」
《灯莉というのだろう? お前の好きな相手の名は》
「っ」
《もう何時間も、こちらの方角を探している機体のパイロットの名と同じだと、俺には分かる》
「な」
《昼斗。本当にいいのか?》
「何がだ?」
《まだここからならば、間に合う》
「え?」
《脱出ポッドというのだろう? 人類が作った乗り物は。集合知を経由して、記憶しておいた。俺の幸せは、お前の幸せだ。もう一度言う。まだ間に合う》
「何を言って――」
《行け。きちんと俺が、返却しておいてやる。お前は、幸せになるべきだ。何故いつも、自分の幸せを諦める? 俺にはそれが理解出来ない。昼斗、幸せになれ》
コクピットの周囲を覆うように、避難ポッドが形成された。それは、昼斗の〝イメージ〟ではなく、エノシガイオスの〝意思〟だった。
《俺はきちんと自分の大切なものは愛でるんだ。だから、幸せに》
直後、昼斗の体は浮遊した。
多分、人型戦略機に脱出ポットは、抱きしめられた。ただ中にいた昼斗は、その光景を目にした直後に意識を失ったから、本人の自覚はない。
自覚があるのは、次に瞼を開けた――今。
何度も見ている基地の病院の天井に関してだった。
バサリと、そんな音がしたから、上半身を起こすと、そこには白い花束を取り落とした灯莉の姿があった。何度か瞬きをしながら、そちらを見ていると、泣きそうな顔をした灯莉が走り寄ってきた。そしてベッドサイドに立つと、嘆息した。
「私の心臓の強度テスト、どのくらいしたら満足なの?」
昼斗は理解しかねて、首を傾げる。
「何かあったのか?」
「あのさ、昼斗。自分が何をしようとしてたか分かってる?」
「クラムチャウダーをお前に所望した」
「その後」
「……お前が、俺を探しに来てくれたんだったな」
そう言って昼斗が笑って見せると、歪めた唇を噛んでから、灯莉が昼斗に抱きついた。
「ちゃんとコールを押すようにって、前も言ったよね?」
「灯莉が押してくれ」
「横着しない!」
灯莉が額で、昼斗の額を叩く。それに吹き出してから、昼斗は両頬を持ち上げた。
「まだ俺は生きてるんだな」
「ええ、そうね、朗報だ。地球上に、既に〝ラムダの秘宝〟は存在しないから、Hoopと呼ばれていたラムダの生体兵器も全て飛び去り、消えてしまったよ」
「本当か?」
「うん。今、人類は、船で自由に航行する権利も取り戻しているの。義兄さんのおかげよ。地球には、平和が戻った」
「そ、そうか……」
「でもね、この今という瞬間まで、私の胸中は不穏だったよ。分かる?」
「え?」
「昼斗がいない世界なんて、私には無価値だ。その自己犠牲精神、もう止めて」
「灯莉……?」
昼斗が顔を上げると、唇の端だけを持ち上げていた灯莉が、不意に顔を背けた。その眦には、光る涙が見える。
「よかった。意識が戻って、というより、無事に帰ってきてくれて。まぁ、帰ってこないなんて許さないけど。だから迎えに行ったんだしね」
「灯莉……」
「義兄さんはさ、多分自分で思ってるより、自分勝手だよ。もっと周囲の気持ち、考えて」
「俺が自分勝手……?」
「そうよ。私をどれだけ心配させれば気が済むの?」
灯莉はそう述べると、両腕に力を込めて、昼斗の肩に顎を載せた。
「勝手にいなくなるなんて、それこそ許さないからね」
「灯莉……」
「何?」
「……俺はここにいる」
「それは私が迎えに行ったからでしょう?」
「……今はそうだけど、そうかもしれないけどな……俺は――」
――灯莉が好きだから、そばにいたいのだ、と。
昼斗がそう告げようとした時、医療スタッフが病室へと入ってきた。だから会話はそこで打ち切りになった。