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第10話 「溶けていく境界」


 午後の光がやわらかく部屋に差し込んでいた。

 一ノ瀬の部屋。静かで、二人きり。


 しおりはベッドの端に座って、手のひらをぎゅっと握りしめていた。

 緊張と、とろけるような期待と。

 彼の隣にいるだけで、心臓が跳ねる。


「……来てくれて、ありがとう」


 一ノ瀬の低い声が耳元で落ちた。

 それだけで、熱が耳に昇る。


「……ううん、わたしのほうこそ……」


 唇が震える。

 その瞬間、彼の手がそっと頬に添えられた。


「……ずっと、こうしたかった」


 指先が髪を撫で、そしてゆっくりと顔が近づいて——

 唇が、触れた。


 一度目は、そっと。

 二度目は、深く。

 三度目には、息すら忘れるほど長く。


唇が重なるたび、身体の奥が震えた。

 彼の舌が、しおりの唇の内側をなぞるように触れ、ためらいがちに絡めてくる。


「……しおり、いい?」


 問いかけられる声に、ただ静かに頷いた。


 抱き寄せられた背中が熱い。

 そのまま、ベッドにそっと押し倒される。


(……わたし、いま……彼と……)


 カッターシャツのボタンが、ひとつ、またひとつと外されていく。

 冷たい空気が肌に触れ、ぞくりと震えた。


「……きれい……」


 彼が、見ている。

 胸元に、指がそっと触れる。


 触れるか触れないかの距離。

 それだけで、全身がざわめいた。


シャツの隙間から滑り込む手が、背中を撫でた。

 その指先は優しく、でもどこか、熱を帯びていた。


「怖くない?」


「……ちょっとだけ。でも……大丈夫」


 しおりは目を閉じて、彼の温もりを受け入れた。

 鼓動が、身体の奥から響いてくる。


 でも——


 そのとき、不意に記憶の底から声が蘇る。


(……触られたくなかった……)


 小学生の頃、男子に胸のことでからかわれた。

 中学では、ロッカーにラブレターを入れられたのを笑われた。

 誰にも触れてほしくない、でも——今は、違う。


「……しおり?」


 一ノ瀬の声が、不安をはらんで響く。


 彼の手が、動きを止めていた。

 しおりはゆっくりと目を開け、微笑んだ。


「……やっぱり、まだこわい。でもね、……あなたとなら……」


「……無理はしないよ。俺はしおりの“全部”を、大事にしたいから」


二人はそのまま、抱き合ったまま静かに時間を重ねた。

 キスだけで、こんなにも心が繋がるなんて知らなかった。


 額を重ね、指を絡めて。

 その先を選ぶのは、今日じゃなくてもいい。


(この人となら、きっと……)


 しおりの心のなかで、小さな確信が芽生え始めていた。


夜の帳が降り、しおりは一ノ瀬の部屋のドアをそっと押し開けた。

 静まり返った室内には、柔らかい電球の光だけが揺れている。

 胸の奥がぎゅっと締めつけられるような緊張感の中、彼女はゆっくりと笑った。


「……来ちゃった」


 その一言で、彼の顔がぱっと明るくなる。

 「よく来てくれたね」と言いながら、そっと引き寄せられる。


 隣に座ると、しおりの指先が一ノ瀬の手を探し、そっと握る。

 鼓動が、身体の芯から震えているのを感じた。


「ねぇ……今日は、私から言ってみたかったの」


 その突発的な言葉に一ノ瀬が少し驚き、目を見開く。

 彼女は勇気を振り絞るように呼吸を整え、続けた。


「あなたのこと、もっと知りたい。どんなことでも、知りたい」


 しおりの言葉は真剣そのものだった。

 その眼差しに、一ノ瀬の胸がぎゅっと熱くなる。


「……しおり、ありがとう」


 彼はそっと手を引いて、そのまましおりを見下ろす。

 次の瞬間、彼の指がカッターシャツの第一ボタンにかかった。


 「……触れても、いい?」


 問いかけるように、彼の指がゆっくりとボタンを外す。

 その音が、二人の緊張を一層強く引き立てた。


 「……うん」


 しおりは息を切らしながら、小さくうなずいた。

 胸元に覗く白い肌は、彼の吐息で揺れている。


 一ノ瀬の指先が、そっとその肌を撫でた。

 わずかな触れ合いなのに、しおりの身体は熱く反応し、鼓動が高鳴る。


 「……ドキドキしてるね」


 彼の声は甘く、そして心許すようなあたたかさがあった。

 その囁きに、しおりは頬が熱くなり、視線をそらす。


 だが、それでも胸はざわめき続けた。


 「しおり……君のこと、もっと感じたい」


 言葉と同時に、彼の手がさらに胸元へ──その直前、しおりはふっと手を止めた。


 「……ねぇ、教えて。あなたのこと。好きな映画とか、好きな匂いとか……」


 彼女の唐突な問いに、一ノ瀬は小さく笑いながら答えた。


 「好きな映画は、『君の名は』かな。匂いは……雨上がりのアスファルトの匂いが好き。落ち着くから」


 その答えが胸に響く。

 しおりは安心し、そっと微笑んだ。


 彼はその笑顔を見つめながら、再び胸元へと視線を落とす。

 ボタンの手をそっと動かしながら、彼女に問うように囁く。


 「……触れていい?」


 しおりは静かに頷いた。

 その瞬間、彼の手がシャツの裾をそっと撫で、お互いの温度が溶け合うように焦がれていく。


 熱い気配が胸を満たし、息が重なる。

 けれど彼は、寸前でそっと指を止めた。


 「今日はここまでにしよう。……しおりが望むなら、いつでも受け止めるよ」


 しおりの胸は、期待と安堵で震えた。

 彼の優しさと欲望が、細い糸で絡み合い、自分を繋ぎ止めているようだった。


 彼女はそっと腕を伸ばし、彼の胸に顔を埋めた。


 「……ありがとう、あなたのその声も、リズムも、全部が好き」


 彼はしおりの髪を撫で、深いキスをそっと額に落とす。


 そして、そのまま二人はしばらく静かに寄り添った。

 お互いの鼓動を胸で感じながら、言葉にできない感情を共有していた。


 ドキドキは消えない。それでも、その余韻に甘く酔いながら、二人は夜を包み込むように抱きしめ合った。



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