午後の光がやわらかく部屋に差し込んでいた。
一ノ瀬の部屋。静かで、二人きり。
しおりはベッドの端に座って、手のひらをぎゅっと握りしめていた。
緊張と、とろけるような期待と。
彼の隣にいるだけで、心臓が跳ねる。
「……来てくれて、ありがとう」
一ノ瀬の低い声が耳元で落ちた。
それだけで、熱が耳に昇る。
「……ううん、わたしのほうこそ……」
唇が震える。
その瞬間、彼の手がそっと頬に添えられた。
「……ずっと、こうしたかった」
指先が髪を撫で、そしてゆっくりと顔が近づいて——
唇が、触れた。
一度目は、そっと。
二度目は、深く。
三度目には、息すら忘れるほど長く。
唇が重なるたび、身体の奥が震えた。
彼の舌が、しおりの唇の内側をなぞるように触れ、ためらいがちに絡めてくる。
「……しおり、いい?」
問いかけられる声に、ただ静かに頷いた。
抱き寄せられた背中が熱い。
そのまま、ベッドにそっと押し倒される。
(……わたし、いま……彼と……)
カッターシャツのボタンが、ひとつ、またひとつと外されていく。
冷たい空気が肌に触れ、ぞくりと震えた。
「……きれい……」
彼が、見ている。
胸元に、指がそっと触れる。
触れるか触れないかの距離。
それだけで、全身がざわめいた。
シャツの隙間から滑り込む手が、背中を撫でた。
その指先は優しく、でもどこか、熱を帯びていた。
「怖くない?」
「……ちょっとだけ。でも……大丈夫」
しおりは目を閉じて、彼の温もりを受け入れた。
鼓動が、身体の奥から響いてくる。
でも——
そのとき、不意に記憶の底から声が蘇る。
(……触られたくなかった……)
小学生の頃、男子に胸のことでからかわれた。
中学では、ロッカーにラブレターを入れられたのを笑われた。
誰にも触れてほしくない、でも——今は、違う。
「……しおり?」
一ノ瀬の声が、不安をはらんで響く。
彼の手が、動きを止めていた。
しおりはゆっくりと目を開け、微笑んだ。
「……やっぱり、まだこわい。でもね、……あなたとなら……」
「……無理はしないよ。俺はしおりの“全部”を、大事にしたいから」
二人はそのまま、抱き合ったまま静かに時間を重ねた。
キスだけで、こんなにも心が繋がるなんて知らなかった。
額を重ね、指を絡めて。
その先を選ぶのは、今日じゃなくてもいい。
(この人となら、きっと……)
しおりの心のなかで、小さな確信が芽生え始めていた。
夜の帳が降り、しおりは一ノ瀬の部屋のドアをそっと押し開けた。
静まり返った室内には、柔らかい電球の光だけが揺れている。
胸の奥がぎゅっと締めつけられるような緊張感の中、彼女はゆっくりと笑った。
「……来ちゃった」
その一言で、彼の顔がぱっと明るくなる。
「よく来てくれたね」と言いながら、そっと引き寄せられる。
隣に座ると、しおりの指先が一ノ瀬の手を探し、そっと握る。
鼓動が、身体の芯から震えているのを感じた。
「ねぇ……今日は、私から言ってみたかったの」
その突発的な言葉に一ノ瀬が少し驚き、目を見開く。
彼女は勇気を振り絞るように呼吸を整え、続けた。
「あなたのこと、もっと知りたい。どんなことでも、知りたい」
しおりの言葉は真剣そのものだった。
その眼差しに、一ノ瀬の胸がぎゅっと熱くなる。
「……しおり、ありがとう」
彼はそっと手を引いて、そのまましおりを見下ろす。
次の瞬間、彼の指がカッターシャツの第一ボタンにかかった。
「……触れても、いい?」
問いかけるように、彼の指がゆっくりとボタンを外す。
その音が、二人の緊張を一層強く引き立てた。
「……うん」
しおりは息を切らしながら、小さくうなずいた。
胸元に覗く白い肌は、彼の吐息で揺れている。
一ノ瀬の指先が、そっとその肌を撫でた。
わずかな触れ合いなのに、しおりの身体は熱く反応し、鼓動が高鳴る。
「……ドキドキしてるね」
彼の声は甘く、そして心許すようなあたたかさがあった。
その囁きに、しおりは頬が熱くなり、視線をそらす。
だが、それでも胸はざわめき続けた。
「しおり……君のこと、もっと感じたい」
言葉と同時に、彼の手がさらに胸元へ──その直前、しおりはふっと手を止めた。
「……ねぇ、教えて。あなたのこと。好きな映画とか、好きな匂いとか……」
彼女の唐突な問いに、一ノ瀬は小さく笑いながら答えた。
「好きな映画は、『君の名は』かな。匂いは……雨上がりのアスファルトの匂いが好き。落ち着くから」
その答えが胸に響く。
しおりは安心し、そっと微笑んだ。
彼はその笑顔を見つめながら、再び胸元へと視線を落とす。
ボタンの手をそっと動かしながら、彼女に問うように囁く。
「……触れていい?」
しおりは静かに頷いた。
その瞬間、彼の手がシャツの裾をそっと撫で、お互いの温度が溶け合うように焦がれていく。
熱い気配が胸を満たし、息が重なる。
けれど彼は、寸前でそっと指を止めた。
「今日はここまでにしよう。……しおりが望むなら、いつでも受け止めるよ」
しおりの胸は、期待と安堵で震えた。
彼の優しさと欲望が、細い糸で絡み合い、自分を繋ぎ止めているようだった。
彼女はそっと腕を伸ばし、彼の胸に顔を埋めた。
「……ありがとう、あなたのその声も、リズムも、全部が好き」
彼はしおりの髪を撫で、深いキスをそっと額に落とす。
そして、そのまま二人はしばらく静かに寄り添った。
お互いの鼓動を胸で感じながら、言葉にできない感情を共有していた。
ドキドキは消えない。それでも、その余韻に甘く酔いながら、二人は夜を包み込むように抱きしめ合った。