しんとした空き教室で、深瀬はまっすぐに寺石の目を見る。
「これは仕事だ。俺たちはここにある虚構記憶をそれぞれ、本来の形に戻さないといけない。胸糞悪いのは分かるけど、仕事を優先しよう」
「……でも」
「でもじゃない。こんなことで時間を取らせるな」
わずかばかり深瀬が苛立つと、寺石はぎゅっと唇を噛んでから強い調子で返した。
「それで麦嶋さんの言うように、いじめられっ子をいじめるんすか?」
と、深瀬越しに彼女をにらむ。
「にらむな。彼女の意見は合理的だ」
「でもいじめられた方は傷つく」
「傷つくけど虚構だ。彼らに本当の意味での心はないし、いじめっ子だってそうだ。設定された通りに動いているだけで、俺たち人間とは違うんだ」
「……分かりました。じゃあ、自分は足手まといにしかならないんで、廊下に出てます」
寺石はそう言うと本当に廊下へ出ていき、深瀬はため息をついた。
「まったく、ガキだな」
「ガキですよ。だって彼、まだ十八歳でしょう?」
麦嶋が優しい声で言い、深瀬は微妙な顔で笑う。
「そうだったね」
まだ人間として未成熟な彼を相手にするのは難しい。今回は麦嶋を傷つけるおそれがあったために深瀬が間に入ったが、今後のことを考えると気が重くなる。
「それより、大丈夫だったかい? 傷ついてない?」
「あたしは大丈夫です。深瀬さんが守ってくれたから」
にこりと麦嶋が微笑み、深瀬の胸がドキッと高鳴る。こんなことをしている場合ではないと即時に意識を切り替えて、深瀬は虚構の住人たちへ顔を向けた。
「それならいいんだ。早く正しい組み合わせを見つけよう」
「さっきの方法で、ですか?」
「そう思ったんだけど、なんとなく分かった気がする。女子の組み合わせはそのままでいいと思う」
「えっと、ブレザーのいじめっ子と、ワンピースのいじめられっ子で?」
「ああ。それで残りのいじめっ子を取り替えればいい」
麦嶋は彼らに声をかけて立つ位置を変えさせた。ワイシャツの男子生徒とセーラー服の女子生徒、学ランの男子生徒とブレザーの男子生徒の組み合わせだ。
「ほら、そわそわして落ち着かなくなった」
いじめられっ子たちが先ほどの寺石のように、相手を恐れるような様子を見せる。与えられた設定を思い出せなくても、体は覚えているのだ。
「すごい、何で分かったんですか?」
麦嶋の問いかけに深瀬は首をひねりつつ答えた。
「彼女が舌打ちをした時、一人だけ反応が大きいように見えたんだ。それと寺石くんの、あのいかにもいじめられっ子の様子を見て、自分を傷つけてくる相手には、それ相応の反応をするものだと気づいた」
いじめっ子にならず、いじめられっ子にもならなかった深瀬だからこそ、冷静に人を観察することができた。ある意味では職業病とも言える。
「なるほど。さすが深瀬さん!」
麦嶋は明るい声で褒めてから、あらためて虚構の住人たちを見た。
「あとは春と秋がどちらなのか、考えるだけですね」
正しいと思われる組み合わせをどうにか見つけて、深瀬と麦嶋は住人たちを連れて廊下へ出た。
壁に背中をもたれてしゃがんでいた寺石が、はっと気づいて立ち上がる。そして麦嶋へ頭を下げた。
「さっきはすみませんでした」
「え、っと……大丈夫だよ、そんなに気にしなくて」
戸惑い半分に麦嶋が返すと、寺石はおもむろに頭を上げた。
「でも、やっぱり自分、生意気だったんで」
正直に反省して謝罪できる寺石を見て、深瀬は感心する。ただ純粋なだけかもしれないが、自分から謝れるのはいいことだ。
「それは否定できないけど、でも本当に大丈夫だから。あたしこそごめんね」
と、ごまかすように麦嶋が笑い、寺石の気もひとまず済んだようだ。
「そうっすね。次からは気をつけます」
「うん、あたしもそうするね」
二人が和解したところで深瀬は言う。
「組み合わせが見つかったから分離作業を始めるよ」
二人が「はい」と返事をする。さっそく深瀬が移動しようとすると、どこからか声が聞こえてきた。
「この声……っ」
と、麦嶋が悲鳴まじりの声を上げた。赤ん坊がきゃっきゃと笑っているような、無邪気で愛らしい声だ。しかし、薄暗い学校で聞くと不気味に思える。
かと思うと、数メートル前方の廊下を何かが横切った。赤ん坊のような小さな人影だ。
「出たー!?」
と、寺石が動揺して叫び、深瀬はとっさに走り出す。
人影を追って階段へ向かうが、見上げた時には踊り場の鏡に飲み込まれていくところだった。
「何だ、あれ……」
笑い声を残して消えた姿を呆然と見送る。
笑う赤ん坊……どこか胸に引っかかるものがある。何か思い出せそうな……首をひねったところで後ろから声がかけられた。
「幽霊、どこ行きました?」
「ああ、鏡の中に消えていった」
「鏡!? 学校の七不思議みたいじゃないすか!」
寺石も多少は怖がっているのか、いつもより声が大きい。
言われてみれば夜の学校に幽霊なんて、ありがちな設定だ。残念ながら、先ほどの幽霊がこの学校の設定なのか、それとも現実世界で情報を求めている幽霊なのかは、自分たちには判断がつかない。
深瀬は落ち着いて返した。
「幽霊のことは置いておいて、仕事に戻ろう。あとは分離するだけなんだから」
「そ、そうっすね」
寺石の背中を押すようにして来た道を戻っていく。しかし頭の中は、先ほどの幽霊のことでいっぱいになっていた。
あの姿を自分はどこかで見たことがある気がする。はっきりとはしないが……まさか、エモフュージョン?
はっとした後で首を横へ振った。
「そんなわけがないな」
「何か言いました?」
寺石が深瀬を見てたずね、とっさに返した。
「ああ、何でもない。独り言だよ」
思わず口に出してしまったことを後悔し、ますますありえないなと思った。
オフィスに戻るとC班が退屈していた。昼休みまでまだ時間があるが、次の分離目標を片付けられるほどの時間はない。
「お疲れさまです」
と、声をかければC班の三人がそれぞれに返してくる。
深瀬は自分のデスクへ着くと、パソコンを起動させてさっさと報告書の作成に取り掛かった。
麦嶋や寺石も黙って作業を始めており、しばらく室内は静かだった。
「あの……さっき、幽霊に会ったんすよ」
早くも書き終えた寺石が誰にともなく言い、隣席の千葉が反応した。
「そっちにも出たのか」
「はい、すぐ消えちゃいましたけど」
深瀬はファイルを保存して席を立つ。
「千葉くんたちも見たのかい?」
と、彼らのそばへ歩み寄った。
「ええ、僕は見てないんですが、舞原さんと楓が目撃しました」
ちらりと視線をやると、舞原がこちらに顔を向けていた。
「
「俺は鏡の中へ入っていくのを見ました。本当に幽霊みたいで、ちょっと
「しかもこっちは夜の学校ですよ。もうあたし、怖くて立ちすくんでました」
と、麦嶋も口を挟み、田村も口を開いた。
「こっちは湖っすよ? しかも素っ裸で、気味悪ぃっつーか」
「ああ、たしかに服は着ていなかったな」
深瀬がうなずくと千葉は
「管理部の知り合いから聞いたんですが、虚構世界のあちこちに出現しているそうです。赤ん坊とのことですし、迷子になってさまよっているのでは?」