私、エリシア・フォン・ルーシェルは――一夜にして王太子妃候補の座と爵位を失い、王国から国外追放を言い渡された。
突然の婚約破棄、その裏に潜む平民出身の聖女リリアーナ・アーデルハイト。そして、国王陛下と王太子アレクシス殿下の一方的な決定。
私が築いてきた未来や誇りは、一瞬にして粉々に砕け散った。
しかし、だからといって立ち止まるわけにはいかない。どんなに理不尽な状況でも、私は生き抜かなければならない。父や母、そしてルーシェル侯爵家に仕えてきた人々のためにも――私は絶対にこのまま潰れるわけにはいかないのだ。
王都を出てまだ数日。ほとんど行き先の当てもないまま旅を続けていた私が、ようやく目指そうと決めたのは、隣国リヒトベルク公国であった。理由は単純。リヒトベルク公国は私の生まれ育った王国と比較的友好的な関係にあり、しかも大国の脅威から逃れるための“堅牢な防備”で知られているからだ。
「治安が良い」という噂は、今の私にとって何よりも重要だった。追放された私には護衛もいない。自分を守る術は少しの護身用の魔法と、最低限の身軽な動きくらい。――正直、自分の力だけで荒野や街道を旅するのは心細い。
そうして私は、リヒトベルク公国の国境近くを目指し、荒れた道を馬車や徒歩で移動していた。荷物も少なく、金銭も乏しい。少し前に街道沿いの村で雇われた荷馬車に同乗させてもらったものの、その契約もここまで。国境手前の峠を越えたら、もう私を乗せてくれる者はいないという。
それでも構わない。次の町で新たな足を探せばいい――私はそう自分に言い聞かせた。
やがて、どんよりとした灰色の雲が空を覆い始める。天候が崩れる前触れかもしれない。
私は馬車から降りる際、先に賃金を支払ってくれた御者に礼を述べた。彼は「このあたりは盗賊が出るって噂だ。気をつけなよ」と、さりげなく忠告してくれた。
――盗賊。そんな物騒な話は耳にしたくもない。だが、現実は厳しい。私は厄介ごとに巻き込まれないよう、できるだけ目立たないようにしなければ。
日はまだ高いが、雲が厚いため辺りは薄暗い。乾いた風が吹き抜ける峠道は、両側に鬱蒼と茂った木々が迫り、その間に険しい岩肌がのぞいている。もし盗賊が潜んでいるなら、絶好の待ち伏せ場所になりそうな地形だった。
私はなるべく周囲を警戒しながら歩みを進める。だが、心のどこかに不安が拭えない。薄手のマントを羽織っているとはいえ、このドレス姿では旅人というより貴族然とした印象を拭いきれない。追放されてからそれなりに質素な身なりにしたつもりだが、どこか染みついた雰囲気は簡単には消えないのだろう。
――あれから、私はいくつかの村や小さな町を転々とした。簡単な裁縫仕事や、文字の読み書きを手伝う代わりに食料や宿を確保したこともある。さすがに王太子妃になるために勉強してきた“学識”が役立つとは限らないが、それでも多少の読み書きや会計の知識を持つ女性は珍しいようで、村や町ではそこそこ重宝された。
けれど、長居すれば私の正体がばれる可能性がある。王太子妃候補だった私がいま放浪しているなど、誰かに知られて噂が広まったら、いつ何時どんな危険が待ち構えているか分からない。私自身も、できるだけ深く事情を聞かれないようにしていた。
――だからこそ、私はリヒトベルク公国へ行こうと決めた。公国の首都は城塞都市として名高く、商業や工業も盛んだという。もしそこで仕事を見つけられれば、なんとか生活の基盤を作ることができるかもしれない。少なくとも盗賊や野党に怯えるよりは、はるかにましだ。
私は、わずかな希望を抱きつつ、峠道をどんどんと奥へ進んでいった。
1.峠道での襲撃
不意に、後ろのほうから何かが動く気配を感じた。
足を止め、耳を澄ませる。風が木々のざわめきを運んでくるだけで、はっきりとした物音はしない。しかし、肌に粘りつくような不快感が、警鐘を鳴らしていた。
――まさか、本当に盗賊が?
私は咄嗟にマントの端を握りしめ、なるべくドレスが目立たぬようにして岩陰へ身を寄せる。木漏れ日の中で、周囲を見回してみるが、人影らしきものは見当たらない。
けれど、嫌な予感は一向に消えない。むしろ、何者かの殺気じみた視線をうっすらと感じるような……。
そう思った矢先、後方の崖際からバサッと音がして、複数の人影が姿を現した。男ばかり四、五人ほど。その全員が、手には錆びた剣や棍棒、短剣などを握りしめ、いかにも荒くれ者の雰囲気を漂わせている。
――これ以上ないほど分かりやすい盗賊の姿だった。
「よう、お嬢ちゃん。こんなところを一人で歩くとは、物好きだな」
先頭に立つ男が、にやりと口元を歪める。伸びきった髪と汚れた服からは、汗と血の混じったような生臭い臭いが漂ってきそうだ。
私は一歩、二歩と後ずさる。心臓が早鐘のように鳴っている。
「やめて……近づかないでください……」
たった一言声を振り絞るのが精一杯。こんな状況で彼らが引き下がるはずもない。それは百も承知だが、どうにも恐怖で動けない。
他の男たちも口々に下品な笑い声を上げ始めた。
「なあ、この娘、なかなか上等なドレス着てるぜ? 高級そうだ」
「きっと貴族様だな。追いはぎしたら、いい値打ちが付きそうだ」
「それだけじゃねえ。女に飢えてる奴もいるだろ?」
――ゾッとする。彼らの下卑た視線が、私の身体を舐め回すように感じられた。
私は奥歯を噛みしめ、なんとか意識を失わないように耐える。下手に逃げようとして背を向ければ、一瞬で追いつかれ斬り捨てられるだろう。かといって、戦うのはあまりにも無謀。私には身を守る程度の“簡単な魔法”しか扱えない。複数の盗賊を相手にできるほどの戦闘力はないのだ。
絶体絶命の状況。ああ、ここで私の人生は終わってしまうのか……。せめて父と母に、もう一度会いたかった。
そんな弱気な思いが頭をかすめた瞬間――。
「――そこまでだ。その娘に指一本でも触れてみろ。容赦はしない」
澄んだ低い声が、峠に響いた。
視線を上げると、少し離れた木立の奥から、馬に乗った男が悠然と姿を現す。黒い外套を身にまとい、背には長い剣を背負っている。浅黒い肌と鋭い眼差しが、ただ者ではない雰囲気を放っていた。
「なんだ、お前……?」
盗賊のリーダー格の男が、目を細めて警戒を示す。
馬上の男はゆっくりとこちらに近づき、そのまま馬を降りた。荒れた地面を踏みしめる足取りには迷いがなく、まるで戦場を渡り歩いてきた歴戦の戦士のようだ。
その男が、私にちらりと視線を向ける。黒い瞳に宿る冷静な光は、どこか安心感を与えてくれるような――しかし、同時に底知れぬ力を感じさせる。
「行きなさい、そこの娘。少し下がっていてくれ」
彼は短くそう言うと、腰から短剣のようなものを取り出して構えた。すかさず盗賊の男たちがそれを見て嘲笑する。
「ふん、一人で俺たち相手に勝てるとでも? そっちも女を連れてるようだしな、こいつはいい獲物だ」
だが、馬上の男――その毅然とした態度からすると、相当な実力者だろう。私には分からないほど小さな気配の操作で、相手の攻撃を先読みしているような雰囲気がある。
私は、その場から少し後方へ下がると、岩陰に身を隠す。冷たい汗が額をつたう。
「お前も、ただじゃ済まないぜ!」
そう叫んだ盗賊の男が、棍棒を振り上げて男に襲いかかった――その瞬間。
シュッ。
音もなく、男の短剣が閃く。あっという間に盗賊の棍棒は柄の部分ごと真っ二つになり、盗賊は悲鳴を上げて尻餅をついた。ほかの連中が目を丸くして言葉を失う。
「ひっ……!? こいつ、やべえ!」
それを皮切りに、他の盗賊たちも武器を構えて襲いかかる。だが、馬上の男はまるで舞うように動き、彼らの攻撃をかわし、あるいは受け流しながら容赦なく反撃していく。
次々と盗賊たちは剣を弾かれ、棍棒を砕かれ、「う、うわああ!」と悲鳴を上げながら退散を余儀なくされる。
やがて、リーダー格の男が最後に残り、激しい息を吐きながら馬上の男を睨んだ。
「ま、待て……貴様、一体何者だ……!? そんな強さ、聞いたことがねえ!」
馬上の男――いや、今はすでに馬を下りているが、その戦闘スタイルは剣術と体術を独自に組み合わせたような洗練されたものだった。盗賊ごときが太刀打ちできるわけもない。
「……名乗る必要はない。二度とこんな真似をするな」
そう言い放った男の目が、一瞬鋭く光る。その瞬間、リーダー格の盗賊はびくりと体を震わせ、足早に仲間のもとへ駆け寄る。
「くそっ……覚えてやがれ!」
散々な目に遭った盗賊たちは罵声を投げて逃げ去っていった。
私は岩陰からそっと顔を出し、辺りの様子を伺う。すでに盗賊たちは全員いなくなり、跡には荒れた空気だけが残っていた。馬上の男は――その場に立ったまま、無造作に短剣を鞘へ収めている。
助かった。信じがたいほどあっさりと。私は安堵のあまり膝が笑い、地面にへたり込んだ。心臓が鼓動を打ちすぎて、息が苦しい。
男は私のほうを振り向き、一歩ずつ近づいてくる。その姿に恐怖は感じない。むしろ、どこか神々しささえある。
そう――まるで、絶体絶命の私を救うために、天から遣わされた騎士のよう。
2.ジークフリート・フォン・リヒトベルク
男は私のそばまで来ると、そっと片膝をついて視線を合わせてくれた。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
低く落ち着いた声。荒くれ者だった盗賊たちとのやり取りからは想像もつかないほど、優しい口調だった。
私は息を整えながら、かろうじて言葉を返す。
「は、はい……助けてくださって、ありがとうございます……」
「ふむ。こんな場所を一人で歩くとは、余程の事情があるのだろうな」
その言葉に、私は思わず身をすくめる。事情を問われるのは都合が悪い。追放された身であることが知られれば、相手がどう出るか分からないからだ。
だが、相手は私の表情の変化を見逃さなかったのか、軽く眉をひそめ、すぐに言葉を継いだ。
「……すまない。無理に言わせようとする気はない。ここの峠は盗賊の巣窟だから、通行には危険が伴う。よければ、少し先の町まで俺が案内しよう」
「そ、それは……そんな、申し訳ないです。助けてもらったばかりなのに、さらに迷惑をかけるわけには……」
だが、彼は静かに首を横に振る。
「俺にも用事があって、この辺りを巡回しているだけだ。ついでだと思ってくれ。これ以上盗賊に襲われたら大変だろう?」
言葉だけでなく、その眼差しからも誠実さが伝わってくる。私は一瞬迷ったが、結局うなずいた。
ここで無理に断って、また新たな盗賊に襲われたら、本当に命がいくつあっても足りないだろう。それに、目の前の男は圧倒的な強さで私を救ってくれた――その力がある人と行動を共にできるなら、私としてはありがたい話だ。
「ありがとうございます。本当に……助けていただいたうえに、ここまでしていただいて」
私が感謝を伝えると、彼は静かに微笑んだ。
「礼はいらない。……ところで、まだ名乗っていなかったな」
そう言って、男は少し躊躇するように口を開く。
「俺はジークフリート・フォン・リヒトベルク。本来ならば“公爵”という立場だが、こうして近辺の治安を確認するために動いている」
――リヒトベルク公爵? それは、私が目指そうとしていたリヒトベルク公国の最高貴族、つまりは国主そのものではないか?
公国という名ではあるが、リヒトベルク公国は一つの独立国家として立ち位置を確立している。国主は“公爵”の称号を持つが、その実態は小国の“王”とも言える。
「じ、公爵……様……?」
あまりにも予想外の肩書きに、私は混乱を隠せず言葉が途切れる。
しかし、ジークフリートは苦笑して手を振った。
「そう堅苦しく考えなくていい。公国は小さいし、俺自身もこうして自ら外に出るくらいだからな。形式ばった敬称は必要ない」
それどころか、彼はまるで武人のように質実剛健な装いだ。先ほどの戦いぶりからしても、“貴族”というより歴戦の傭兵や騎士のような印象が強い。
私はこの思わぬ偶然に、ただ驚くばかりだった。――まさか、この公国の公爵本人が、こんな峠道を巡回しているとは。
「私は……その……エリシア、と申します。姓は……」
そこで言葉を詰まらせた。ルーシェルの名は、追放された身。ここで“フォン・ルーシェル”と名乗ってよいものか。
すると、ジークフリートはそれ以上追及せず、静かに微笑んだだけだった。
「エリシア。分かった。それでは、エリシア……少し先の町まで馬に乗っていくか? 足はあるのか?」
「いえ、私は徒歩で……」
「では、俺の馬に同乗するのが手っ取り早いな。この峠を抜ければ、そこそこの規模の町がある。宿や商店も揃っているから、旅の支度を整えるにはちょうどいいだろう」
ジークフリートはそう言って、自分の馬のそばへ歩み寄る。しなやかな漆黒の馬で、盗賊から襲われそうな人影を遠目に見つけても一切動じなかったのだろう。馬自体も相当な訓練を受けているに違いない。
私はしばし迷ったが、彼の好意を拒む理由もない。むしろ、この状況で仲間外れにされても、私はまた孤独に峠を越えなければならない。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます」
そう答えると、ジークフリートはひょいと馬に跨り、私の腕を取って引き上げた。男の腕の中に抱き留められる形になるが、嫌な感じは不思議と受けない。かえって、彼の身体から伝わる確かな力強さに、安堵が芽生える。
私は耳まで赤くなってしまったが、彼は特に気にした様子もなく、「しっかりつかまれ」とだけ言って、手綱を握る。
こうして私は、リヒトベルク公国の公爵――ジークフリートと名乗る男の馬に同乗して、峠を越えることになった。まさか、これが私の運命を大きく変える出会いになるなど、そのときの私は想像もしなかったけれど。
3.小さな町での束の間の休息
馬に揺られて峠を抜けると、やがて視界が開け、下のほうに小さな町が見えてきた。茶色い瓦屋根が連なる光景に、ほっとした気持ちになる。あのまま徒歩で進んでいたら、盗賊に襲われるか、あるいは日没までに到着できたかどうかも怪しいところだ。
町の入り口には、簡素な木製の柵と門があり、数名の衛兵らしき者が通行人を確認している。ジークフリートが先頭に立って馬を進めると、衛兵たちは彼の顔を見た瞬間、驚いたように目を見開き、慌ててひざまずいた。
「こ、これは……ジークフリート公爵閣下! まさか、こんなところまでお越しとは……」
「巡回の途中だ。特に問題はないか?」
「はっ! 特に大きな問題は起きておりません、閣下」
衛兵たちのやり取りを見ていると、ジークフリートが本当にこの国の支配者であることを実感させられる。彼自身は謙虚な態度を崩さないが、周囲の人々は畏敬の念を抱いているようだ。
私は馬上で固まったまま、小さく会釈をするしかない。衛兵たちは一瞬こちらに目を向けたが、公爵と共にいる女性ということで、深く詮索はしてこないらしい。
「エリシア、少し降りよう。ここからは歩いても大丈夫だ」
ジークフリートの声にうなずき、私は彼の腕を借りながら馬から降りた。町の中は道幅もそこそこ広く、馬で移動する人々の姿がちらほら見受けられるが、歩行者も多い。市場らしき通りからは賑やかな声が聞こえてくる。
私はその活気に、少しだけ胸が弾んだ。自分が追放されて放浪している身であることも忘れそうになるほど、ここには平和で温かな空気が流れていた。
「この町で宿を探したいのなら、中央通りを抜けた先に大きめの宿屋がある。まずはそこに落ち着くといい」
ジークフリートは慣れた調子でそう案内してくれる。
「公国の北側に位置する町だから、旅人が比較的多い場所なんだ。だから宿屋や商店も揃っている。ただ、夜は早めに寝るのが習慣になっているらしいから、食事をとるなら早めに行動したほうがいい」
「ありがとうございます。助かります……」
とはいえ、私にはあまりお金がない。宿屋もそう高級な場所には泊まれないだろう。こんな身なりで公爵と並んでいるだけでも、なんだか恐縮してしまう。
その気持ちを悟ったのか、ジークフリートが小さく首をかしげた。
「エリシア、もしかして金銭的に苦しいのか?」
「え……」
私は目を伏せ、正直に答えようか迷う。が、やはり嘘をつくのは性に合わない。
「……はい。追放されてきたのでは、とまでは言いませんが……長旅をしているうちに手持ちが心許なくなってしまって」
ジークフリートはそれ以上詮索せず、「そうか」と短く答えた。
「公爵である俺が言うのも何だが……この国では、人の出入りはさほど厳しく取り締まっていない。だが、滞在する以上は仕事がなければ生活はできないだろう。何かあれば、俺に相談するといい」
「でも、その……私はジークフリート様のような方に助けられるほどの価値がある人間では……」
内気に呟くと、ジークフリートは真顔で私を見つめる。
「価値? お前は人命だ。俺が強い者として弱い者を守るのは、当然の責務だと思っている。――それに、エリシア、お前には何か“力”があるのかもしれない。少なくとも、ただの流れ者には見えない」
私ははっと息を呑む。
――もしかして、私が“貴族の出”だと気づかれているのだろうか。名乗ったわけではないが、言葉遣いや立ち居振る舞いで、ある程度察しているのかもしれない。
だが、ジークフリートはそれ以上言及せず、私から目を逸らし、馬を引きながら町の通りを歩き始めた。
「とりあえず、今日はこの町でゆっくり休むといい。俺は一度、駐在している兵の報告を聞きに行く。もし何か困ったことがあれば、この通りの尽きた先にある小さな駐在所を訪ねてくれ。俺の名を出せば通してくれるはずだ」
「……分かりました。ありがとうございます。お世話になります」
そう言って深く頭を下げる私に、彼はひとつ頷き、再び落ち着いた笑みを浮かべた。
「何、礼には及ばない。――また後でな、エリシア」
そう言うと、ジークフリートは馬にまたがり、衛兵らしき男性と連れ立って通りの奥へと進んでいった。
取り残された私の胸には、まだジークフリートの余韻が残っている。まるで嵐のように現れて、さっと去って行った不思議な人。今まで私が出会ってきた“貴公子”や“王太子”とは、まったく異なる雰囲気を持っている。
(……公爵。ジークフリート・フォン・リヒトベルク。いったい、どんな人なんだろう。)
そんな疑問を抱きながらも、私はまず宿を探すことにした。この町で一夜をしのぎ、今後について考えなくてはならない。
4.宿屋の夜
大通りを歩いていくと、すぐに“銀の羽根亭”という看板の宿屋が見つかった。扉を押し開けると、割と広い玄関ホールがあり、木製のカウンターの奥には少しふくよかな女将らしき女性が立っている。
私が入っていくと、彼女はにこりと笑いかけてきた。
「あら、いらっしゃい。泊まりかしら?」
「はい。一晩か二晩、部屋をお借りしたいのですが……」
「空いている部屋はあるわよ。ご予算はどれくらい?」
女将がにこやかに尋ねる。私は無駄遣いできるほど裕福ではないのだが、最低限安全が確保できる部屋は欲しい。
「そちらの部屋を……」
料金表を見ながら、あまりに安すぎる部屋は避け、中程度の料金の部屋を選ぶ。金貨から差し引かれる額を考えると、そう長くは滞在できない。まずは今晩ゆっくり休んでから、明日以降の方策を考えよう。
「はい、確かに。では二階の左手の一番奥の部屋を使ってちょうだい。こちらが鍵ね。夕食はどうする? 追加料金になるけれど、うちでとってくれれば暖かいスープとパン、あとお肉料理があるわよ」
「お願いします。夕食も……」
宿の女将は料金を受け取ると、手際よく領収書のような紙片を渡してきた。私は荷物を持って二階へ上がり、部屋に入る。
部屋自体は質素ながら小綺麗で、ベッドと机、椅子が一つずつ。それに洗面用の水差しも置かれている。村の簡素な宿屋とは比べ物にならないほど快適そうだ。
ベッドに腰掛けると、体の疲れがどっと押し寄せてきた。朝から峠を越えるために歩き詰めで、さらに盗賊に襲われるという恐怖も味わったのだ。心身ともに限界が近いのかもしれない。
けれど、私には今後のことを考える時間も必要だ。公国に滞在する以上、何らかの仕事を見つけなければ生活が成り立たない。裁縫仕事や読み書き、帳簿整理などの経験は多少あるが、果たしてここでそれらが通用するかどうか。
――それに、私は“王太子の元婚約者”という立場。迂闊に身分を明かせば面倒なことになるだろう。公爵であるジークフリートが、もし私の正体を知ったらどう思うだろう。彼はとても誠実そうだが、だからといって私を何の損得もなく受け入れてくれる保証などない。
考えれば考えるほど、不安ばかりが募っていく。だが、いま私にできるのは、一歩ずつ前へ進むことだけ。
そうして悶々としているうちに、すっかり日が暮れ始めた。空腹も感じる。せっかく宿の女将が夕食を準備してくれると言っていたのだから、食堂へ向かおう。
階下に降りると、宿屋の片隅が簡易的な食堂になっており、他にも何組かの旅人や商人風の客が食事をとっていた。私は空いた席に腰を下ろし、女将に声をかけて注文を伝える。
しばらくして運ばれてきたのは、香り豊かなスープと焼いたパン、野菜の煮込みと鶏肉のロースト。これだけあれば十分すぎるほど豪華に感じる。
「いただきます……」
一口スープを飲むと、疲れた体に染みわたるような優しさを感じた。王宮の宮廷料理とは違う素朴な味だが、私にとってはむしろありがたい。ここ数日は満足な食事をとる余裕もなかったのだから。
ほっとした気持ちで食事を進めていると、宿の扉が開いて、見覚えのある黒い外套の人物が入ってきた。――ジークフリートだ。
彼は宿の女将に何か話しかけ、こちらへ歩み寄ってくる。周囲の客たちは、ただ者ではない雰囲気の彼を見て、小声で何やら囁きあっていた。
ジークフリートは私のテーブルの前で足を止めると、軽く手を挙げて挨拶する。
「エリシア。食事はどうだ? 口に合うといいが」
「……はい。とても美味しいです。公国の料理は温かくて、心に沁みる感じがします」
「それはよかった。少し話したいことがあるのだが、構わないか?」
「……もちろんです」
そうして、ジークフリートは私の向かいに腰を下ろす。女将が気を利かせて、彼のためにもスープとパンを運んできた。
ジークフリートは礼を言って受け取り、パンをちぎりながら話し始める。
「今日は兵たちから山賊や盗賊の被害状況を報告してもらっていた。最近、この辺りで被害が増えているらしい。もしかすると、先ほど襲ってきた連中が一帯を拠点にしているのかもしれない」
「やはり、私が遭遇した盗賊たちは常習犯なんですね……」
「ああ。だからこそ、俺はあちこち巡回して奴らを追い払う必要がある。俺の兵士たちも各地で取り締まりを強化しているが、なかなか根絶できなくてな」
ジークフリートの表情からは、治安を守ることへの強い責任感がにじみ出ている。王太子や国王が直接領民の守りに動くなど、私がいた王国ではあまり聞かない話だ。
――もしアレクシス殿下がこんなふうに自ら国の治安を気にかけて動いていたなら、私が追放されることもなかったのだろうか。そんな馬鹿な考えが浮かぶが、すぐに打ち消す。もう過去に何を思っても仕方がない。
「それと、もう一つ。お前がこの国に来た理由は聞かないが、当面はこの町か、あるいは公国の首都に行って滞在するつもりか?」
ジークフリートは、私の意向を尊重するように穏やかに尋ねてくれる。私は少し考え込み、率直に答えた。
「公国の首都へ行こうと思っていたんです。仕事を探したくて……。でも、まだ明確に何をするかは決まっていないんですけど」
「なるほど。首都なら人も多いし、商業も盛んだから、いろいろと仕事はあるだろう。だが、治安はここより少し悪いかもしれない。大勢の人間が集まる分、悪党も集まりやすい。――少しだけ、俺が世話をしてやってもいい。俺の顔が利けば、危険な連中も手を出しにくいはずだ」
「そ、そこまで……していただけるんですか?」
私は思わず驚いた声を上げる。公爵という地位の人間が、私のような素性の知れない放浪者に手を差し伸べてくれるなんて、普通では考えにくい。
ジークフリートは苦笑して、パンをスープに浸した。
「別に不思議なことではない。俺には、この国を守る責任がある。同時に、この国を頼ってきた者を見捨てるつもりもない。――それに、正直に言おう。お前のような女性が、一人で路頭に迷うのは惜しいと感じるんだ」
惜しい――という言葉の意味を測りかねて、私は思わず視線を彷徨わせた。褒め言葉なのだろうが、それがどういった“惜しさ”なのか分からない。
ジークフリートはそんな私の戸惑いに気づいたのか、淡々と続ける。
「俺の国にはまだ人手が足りない分野がたくさんある。文官や研究者、魔法士、様々だ。お前がもし何かの分野に精通しているのなら、公国としても歓迎するし、うちの役所や研究所で働いてもらうこともできるだろう。もちろん、これはお前が望むならの話だ」
「……私が望むなら、ですか」
私には王太子妃になるための教育の中で学んだ知識や経験がある。礼儀作法、社交、会計、簡単な政治や外交についての基礎知識……。それらが公国の役所で役立つかもしれない。
しかし、一方で私は“王国から追放された身”だ。いつ、どこでその事実が露見するか分からない。――それによって、ジークフリートや公国に迷惑をかける可能性もある。
「……少し、考えさせていただけませんか。私も、どうするのが一番いいのか、まだ決められなくて」
そう答えると、ジークフリートは穏やかに頷いた。
「もちろんだ。急がせるつもりはない。ただ、ここ数日でまた盗賊退治のために各地を回るから、もし俺が戻るまでに決心がつかなければ、そのとき改めて話してくれればいい」
「分かりました。ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。こんなに温かい言葉をかけられたのは、追放されて以来初めてだ。何より、ジークフリートが私を“ただの厄介者”と捉えていないところが救いだった。
――けれど、もし私の素性をすべて打ち明けたら、彼はどう思うのだろう。王太子の元婚約者で、しかも聖女を名乗るリリアーナに追い落とされた娘だと知ったら、彼の対応は変わってしまうのだろうか。
そんな不安を抱えつつ、私は宿屋の温かい食事を平らげた。とりあえず今夜はぐっすり眠り、体力を回復させよう。そして、少しでも明るい未来を切り開くために、自分の力でできることを模索してみよう。
5.思わぬ誘い
翌日。朝早くに目を覚まし、宿の窓を開けると、晴れ渡った青空が広がっていた。町の人々が行き交い、通りでは屋台の準備が始まっている。まだ朝の冷たい空気が残っているが、澄んだ風が心地よい。
私はさっそく簡単に身支度を整え、宿の下に降りる。女将に朝食を頼もうと思ったのだが、食堂に入った途端、すでにそこで待っていたのはジークフリート本人だった。
「おはよう、エリシア。ゆっくり眠れたか?」
「おはようございます。はい、おかげさまで……。あの、公爵様ご自身がこんなに早くいらっしゃるなんて、どうしたんですか?」
ジークフリートはテーブルについたまま、私の席を促す。どうやら朝食を共にするつもりらしい。
「実は、今日中にまた隣町へ巡回に向かわなければならない。その前に、お前に会っておこうと思ってな」
「私に……ですか?」
こんな短い間に二度も直接会いに来るとは、まさか何か急用があるのかもしれない。私は少し緊張しながら席に着いた。
「昨日の話の続きだが、エリシア。お前がもし本気でこの公国に留まる意思があるなら、俺のところで働いてみないか? もちろん、公爵家の使用人という意味ではない。お前には何か特別な素養があると見たが、どうだろう?」
「特別な……素養?」
ジークフリートは続ける。
「例えば、会計や文字の読み書き、あるいは書類整理でもいい。うちの公国はまだまだ人材が足りない。礼儀作法や貴族のしきたりに詳しければ、宮廷役としても活躍できるだろう」
私はその言葉を聞いて、一瞬息を呑んだ。――ジークフリートはやはり、私の立ち居振る舞いから“貴族の出”であることを察しているのだろう。そして、その技能が公国で役立つと見込んでいる。
想定外の申し出ではあったが、同時に魅力的な話でもある。追放されて行き場のない私にとっては、まさに渡りに船と言えるかもしれない。
しかし、その裏に何か下心があるのではないかという考えが頭をよぎる。――けれど、彼がそんな人物には思えない。それに、私の正体を黙認してくれているのかもしれない。
考え込む私を見て、ジークフリートは小さく笑った。
「もちろん、お前が嫌なら無理強いはしないさ。だが、俺としては、お前がこの国で安心して暮らせるようにしてやりたいと思っている。――どうだ? 前向きに検討してみる気はあるか?」
「……もし、ご迷惑でなければ、ぜひ……。でも、私には何の保証もありません。過去の経歴をうまく説明できるわけでもなく、いつか問題が起こるかもしれない。そんな私を、雇ってくださるんですか?」
ジークフリートは目を伏せ、少しの間考え込むように沈黙した。
「エリシア。人は誰でも秘密の一つや二つはある。俺もお前に無理に聞き出す気はないし、過去を詮索するつもりもない。今ここにいる“エリシア”が、公国のために働きたいと思ってくれるなら、それだけで俺は構わないよ」
その言葉に、私は胸の奥がじんと熱くなった。こんなにも寛大な人がいるなんて、正直思いもしなかった。
私は思わず、こぼれそうな涙をこらえながら微笑む。
「……ありがとうございます。私、頑張ってみます。まだできるか分からないことばかりですが、全力で勉強して、公国に貢献できるようにします」
「よし、それでいい。じゃあ正式な手続きは、俺が戻ってきた後、首都で改めて行うとしよう。お前はまず、この町で必要な物を揃えてから、俺の兵士の護衛付きで首都へ移動するのがいいだろう。……ああ、宿の費用は俺が持とう」
「いえ、それは……っ!」
思わず遠慮するが、ジークフリートはごく自然に言い切る。
「安心しろ。公爵が旅人一人の宿代を出せないほど、この国は貧しくない。そもそも、これも投資のうちだ。――お前の力が必要だと言っただろう?」
そのまっすぐな瞳に、私は抗う言葉をなくしてしまう。アレクシス殿下の冷淡な表情しか知らない私にとって、こんなにも他者を包み込む眼差しがあるのかと驚くばかりだ。
結局、私は素直に首を縦に振った。
「……ありがとうございます。必ず、お返しができるように努めます」
「そんな堅苦しい言葉はいらない。――では、俺はこれから巡回に出る。また数日後に戻ってくる予定だ。そのときまでに、必要な物を買い揃えたり、町を見て回ったりしておくといい。首都までの移動は、俺か部下が必ず案内するから、安心して待っていろ」
そう言って立ち上がるジークフリートの姿は、朝の光に照らされ、頼もしさに満ちていた。私を救い、支えようとしてくれる存在がいる――その事実だけで、胸がいっぱいになる。
数日前まで、私は絶望の淵に立たされていたというのに。世の中、捨てたものではないと感じずにはいられない。
「エリシア。……またな」
別れ際、ジークフリートはいつものように少し不器用な笑みを浮かべる。それが、妙に温かく心に残った。
6.新たな人生の幕開け
こうして、私はリヒトベルク公国で“公爵付きの文官候補”のような形で働く可能性を得た。細かい官職名はまだ分からないが、少なくともここでなら生きていく道を探せる。
王太子アレクシスとの婚約が破棄されたあの日――すべてを失ったと思った。しかし、今こうしてジークフリートと出会い、新たな道を示されている。人生は分からないものだ。
もちろん、これで全てが解決したわけではない。私の中にはまだ不安もある。もし私が王国から追放された事実が公国で問題視されたら、どうなるのか。リリアーナやアレクシスが、私の存在をどう思うのか。
……しかし、それらを気に病んでいても仕方がない。私が今できるのは、このチャンスを大切にし、与えられた恩義を返せるよう努力することだけ。
それに、正直なところ――私はジークフリート自身に興味を惹かれ始めていた。これまで私が知る“貴族”や“王族”とは、一線を画す存在。
自ら公国の治安維持のために動き、民を守る責務を迷いなく全うする姿。私の過去を詮索せず、新たな人生を与えようとしてくれる寛大さ。……そして何より、あの強さと優しさを併せ持った立ち居振る舞い。
――こんなにも心を揺さぶられるのは、初めてかもしれない。
私はその思いを噛みしめながら、まずはこの町でしばらく過ごすことにした。着替えや生活用品を整え、できれば簡単な地図などを購入し、公国の地理を学んでおきたい。宿屋の女将に紹介してもらえば、いくつかの商店にも顔を出すことができるだろう。
そうやって少しずつ、私は“ルーシェル侯爵令嬢のエリシア”ではなく、“ただのエリシア”として、この地に馴染んでいくのだ。
――それが、新たな人生の幕開け。
この先に何が待っているかは分からない。けれど、私はもう、一人で孤独に震えていたあの日の私ではない。
自分の力と、ジークフリートの思いやりを糧に、必ずや私はもう一度、幸せを掴んでみせる。王太子や王宮の人間たちが私を追放したことを、必ず後悔させてやる。
エリシア・フォン・ルーシェル。――いいえ、いまはただのエリシア。
私の“ざまぁ”は、まだ始まったばかりだ。