無事封魔を完了させ、清浄な気の波動で満ちた部屋のどこにも、誘の姿はなかった。
気配を探ってみたところでもはやこの近辺にいないのは分かりきっている。
「せっかく自らを犠牲にして庇ったのに、助けようともせず置き去りにするとは、また薄情なご主人さまだなあ」
魅魎を内に抱えこんだせいで浅黒く染まった竜心珠に向かって男が話しかける。
しょせん相手は我欲むき出しの独りよがりな魅魎だ。何より大切なのは我身で、他のことなど念頭にも置かない。そんな高慢な輩が弱った己の体を鞭打ってまで下の者を助けようなどと思うだろうか?
魘魅など、作ろうと思えばいくらでも作れるのに。
そうと知っている男は、そんな者にわが身を犠牲にするほどかいがいしく仕えた巳麻の忠誠心を思い、皮肉気にロ元を歪める。
そのすぐ側で、壮絶な闘いのせいですっかり穴だらけとなった床の、数少ない平地にぺったり尻をつけた凍稀が、ようやく乱れた息を整えることができて重く息を吐いた。
町から魅妖を追い出し、さらに魘魅を封じた。これは上出来の退魔だというのに凍稀の顔は冴えない。胸には、ひたすら誘を取り逃してしまったロ惜しさだけがこみあげていた。
シャナの仇が討てると思ったのに。
退魔どころか、もう追うすべすら見つからない。
身を引き裂くような痛みにとらわれて動くこともままならない。そんな自分のいたらなさがたまらなかった。
魅妖になぶり殺されたシャナ。自分が無力すぎたせいでその
あげく、これだ。彼女の無念さを晴らしてやるどころか瞳までも凌辱され、逃してしまった。
誘自身からは何一つ奪えずに。
そうしてあの魅妖は回復次第、してやられた胸の憤りを晴らすべく、また悪行を重ねるに違いない。人を襲い、その生気を
「……私など、最初から、いなければよかったんだ……!」
己への呪咀の言葉は、あふれた涙で歪んだ。
こんな愚かな自分など。はじめから存在していなければ、シャナは自分と感応することもなかっただろう。もっと長い年月を生きて経験も積んだ、力ある魔断と感応し、今も死なずにすんでいただろうに……!
顔をおおい、ただただ憎しみをたぎらせる。彼女を守れなかった己の無力さを呪い、仇を討つこともできない不甲斐なさを憎み、己の存在すら疎み続ける彼の耳に、あの衝撃のさなか自分を庇うように包みこんで聞こえたものと同じ響きが聞こえた。
およそこの世の何物にも属さず、束縛という干渉を受けない、異質な……しかし安らげる、穏やかさに満ちた無垢なる声。
あのとき以上にはっきりと、明確に。それはこうささやいていた。
『凍稀』
と。
「……シャナ?」
急いでおおっていた手をどけ、面を上げる。彼の視界いっぱいには、砂漠に現れる璽気楼のように儚い、シャナの幻が広がっていた。
はじめのうち、それを竜心珠内に封じたはずの巳麻と思い、封印が甘かったかと目を
正真正銘、シャナだ。
『凍稀』
「シ、シャナ、私は――」
『ずっと、あなたを呼んでいたのよ』
凍稀の言葉の先を奪い、時を惜しむように語りかけてくる。
シャナは、悲しげな響きで彼を呼び、見つめていた。
『凍稀、ずっと、呼んでいたの。でもあなたの心は冷たい暗闇に閉ざされて、憎しみばかり渦巻いていて、あたしの声は嵐の中のささやきほどにもならなかったわ。
何度も呼んだのよ? 自分を責めるのはやめてほしくて。あなたの嘆きはあたしの心も傷つけるわ。それ以上自分を憎んでは駄目よ。あれはしかたなかったの』
そっと差し伸べられた手が頬へと触れ、そこに走る傷に触れる。徐々に滑ってゆき、右の目に空いた穴の縁をなぞり、失われた目を惜しんで涙をこぼすと、シャナはいたわるように唇を寄せた。
触れられた感触は一切ない。だがシャナの唇が触れたと思われた瞬間、痛みがほんの少し、やわらいだ気がした。
『終わってしまった時間のための憎しみは、痛いわ。だれを救うこともできない力はいつだってむなしいだけ。そんなことをあなたにしてほしくないの。
本当は、分かっているんでしょう? 凍稀。あたしは何ひとつ後悔してないわ。退魔師になったことも、あなたと出会ったことも。あなたを愛したこと、あなたに愛されたこと。
あなたは、あたしを愛したことをいつか悔やむのかしら?
そうでないのなら、嘆くことはないのよ。だって、あたしは幸せだもの。今だってこうしてあなたの側にいられて。決して不幸なんかじゃないもの。
幸せな者のために涙を流す必要はないわ。だれかを憎む必要も。
ねえ凍稀、そうでしょう?
ねえ、分かる? あなたがあたしを愛した気持ちを忘れないでいてくれる限り、あたしがこうしてあなたを愛する限り、あたしは幸せなの。
分かるでしょう? あたし、不幸そうに見える?』
「シャナ……!」
まるで当たり前のことを口にするように、輝くばかりの笑顔をしてにこやかに告げてきたシャナに、愛しさがあふれた。両手を伸ばし、幻を抱きしめようとする。
もう二度と触れあうことはないと思っていた心が、今確かに溶けあって、熱いひとつのものになっているのが凍稀にははっきりと感じ取れた。
シャナの自分への想いが流入してくる。互いを慈しみ、愛する心さえ変わらなければ不幸ではない、二人の心が同じ、一つのものであるということを知ること。それは本当に、とても幸せなことなのだと、そう思って。
シャナの気持ちを理解できた瞬間、凍積の目から止めようのない涙がしたたった。
『愛してるわ、凍稀。なによりも、誰よりも。今までも、これからも。ずっと、永遠にあなたを愛してる。
忘れないで。あなたと出会え、ずっと側にいてくれたことをこんなに感謝してる者がいたこと。あたしに、こんなすてきな気持ちをくれて、ありがとう』
愛してる。
腕の中から徐々に薄れ、空気に解けるように散ってゆく意識は、最後のひとかけらが失われるまでその言葉を凍稀の心に向かってささやき続けた。
想いは、大気に溶けるのかもしれない。
そんな考えがぼんやり浮かんだ。
肉体を奪われ、穢されて、生気を喰われても、心だけは何物にもとらわれることなく。そうしてあらゆる束縛から解放された想いは、
『愛してる、凍稀』
今も耳に残る、シャナのささやき。閉じたまぶたに浮かぶのは、自らの血の海に沈んだシャナでなく、となりで愛を口にした、柔らかなそのほほ笑みだ。
心を広げさえすれば、いつだうて彼女を近くに感じ取れる。
「死相が消えたぞ。よかったな」
背後、苦笑まじりだが、これ以上ないほど優しい響きでそう告げてくる者がいた。
振り返り、見る。
自分を見下ろす男の眼差しは今まで見たこともない温かさに満ちており、目にした者がはたしてだれであれ、たとえ神であろうと見惚れてしまうに違いないと確信するほど、その笑顔は厚意にあふれていた。
こんな光をしていたのだろうか?
冷たいとばかり思っていた瞳。その奥にある情の深さにすら気付けないほど、自分は憎しみにとらわれていたのか。
「やるよ」
ぽい、と凍稀の手の中に、先まで弄んでいた竜心珠が放りこまれる。
男の目的が実はこれだったということに途中から気付いていた凍稀はその言動に戸惑い、急ぎ腰を浮かせた。
「ですが――」
「せっかく見つけた竜心珠だけど、中にそんなものが入ってちゃな。商売にならない。
その分だとどうやら浄化には相当かかりそうだし。そうなると気付けなかった俺のミスだ。
譲ってやるから持って帰れ」
まるで、凍稀がこれからどうするのか分かりきっていると言わんばかりのロ調で言ってくる。
凍稀は、内側で魘魅を浄化消滅させているそれをもう一度見て、男を見て、おもむろに訊いてみた。
「あなたも、一緒に来ませんか?」
それは無理な願いだということは凍稀自身、理解できていたために、その声には言葉の持つ意味ほどの期待はこもっていない。
それでも、でき得るなら来てほしいという願いが熱くうずいて、止められなかった。
「あなたほどの魔断は、いまだかつて見たことがありません。あなたならきっと、すばらしい――」
「そうだ、おまえの知る場所にはいない。それがなぜだか分かるな?
そういうのはもう、ごめんだ」
どんな返答が返ってくるか、とうに分かりきったことを、それでもあえて訊いてくる凍稀の生真面目さに苦笑しつつ、答えて。
男はあの、洞穴で非難する際にちらと覚せた、憎しみとも悲しみともつかない複雑な色合いをまた瞳に浮かべた。
あのときは分からなかった男の気持ちが、今は素直に分かる気がして。凍稀もそれ以上口にするのをやめる。
分かっても。
理解できても。
凍稀には絶対に選べない選択であるがために。
それを選べた男を羨むような眠差しで、しばし男を見つめたあと。
「1つ教えてください」
「は?」
突然の切り出しに、背を向けかけていた男の目が再び凍稀へと戻る。
「名を、まだうかがっていませんでしたね」
完全に方から力の抜けた、ほがらかな笑顔を浮かべ言うと、「私は凍稀です」と名乗る。
ずっと死ぬことを前提としていた凍稀が初めて未来を望んだことに男も満足そうに目を細めつつ、腰に手をあてるともったいぶった口調で答えた。
「
と。
「さて。じゃあうっとうしいやつらがやって来る前に、俺はとっとと退散するか。時間も惜しいことだし」
背を向けがてら、独り言にしてはやけに大きめの声で言う。床に転がっていた荷袋を拾って肩に担ぎ上げた男に、凍稀は、私怨に巻きこみ、仕事の邪魔までしてしまった詫びとして、ある情報を提供したのだった。
◆◆◆
「ええいっ、何を考えているんだあいつわっ」
ざくざくざく。
一日雨だった昨日とは打って変わってさんさんと照りつける太陽に顔をしかめ、熱く焼けた砂を踏みしめて歩きながら、その場にはいない相手に憤って毒づく。
「よりにもよって、ミスティア国だって? ここからどれくらいあると思ってるんだ! ほとんど砂漢横断だぞ!? どんなに歩きつめても5日はかかる! 5日も――」
と、そこで立ち止まり、確認をとるように男は右の指を折り始めた。
折って開いて、考えこむ。
「くそっ。ぎりぎりじゃないか……。
ひとが、期日に追われてるって気付いての、わざとだなっ、絶対っ。よりによって、どうしてそんな遠い場所を挙げるんだよ! どうせならもっと近場で簡単に手に入る所を教えろよ!
ああ、あの生真面目魔断め! 最後まで気がきかないったらない!」
おかげで日中行軍だ、などなど。
ぐちぐち、ぶつぶつ、文句のタネはいつまで歩いても尽きないようである。
だがそうして憎まれ口を吐きながらも、目深にかぶったフードの下では新たな情報を得ることができて満更でもなさそうな目をして。
「なんて名の町だったかな……」
ざく、ざく、ざく。
まとわりつく砂などものともせず、ペースを保って歩いてゆく。
ルビアと呼ばれるその地に、己の信念をくつがえすほどの存在との出会いが待ち受けていることも知らず。
男は黙したまま、西を目指して歩いていた。
『魔断の剣3 きみとともにあるということ 了』