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第4話 幸の物

そして噤が口元に妖艶な笑みを浮かべ、舌なめずりしている。

見ているだけで蕩けてしまいそうな噤のその仕草に汐里がぽうっと見入ってしまう。


舌先で唇を湿らせるその仕草が、どうしようもなく目を引いた。

理性が『見ちゃダメ』と叫ぶのに、視線が噤の顔から剥がせない。

見ているだけで、喉の奥がひくりと疼き、体の中心が熱くなる。


出逢ったばかりの男の熱い吐息を間近に感じ、その色香に酔う等――はしたないことだと頭では理解しているのに、噤から目を逸らせなかった。


(――ダメだって。わかってるのに、動けない……)


唇が触れる、その寸前。緊張が、爆ぜた。

目を閉じるべきかどうかで迷っていた汐里は、額にビシッとデコピンを喰らって正気に戻ったのだ。


「ムぐ!」

乾いた痛みに悲鳴を上げると、噤が立ち上がって高笑いした。


「あ~ら? ドキドキさせちゃったかしら~? お生憎様! 逢って早々、カラダの関係にもつれこむワケないでしょ! アタシこー見えて身持ちが固いんだから!!」

「ひ、ひどいれす……」


デコピンされた額を撫でながら苦情を訴える。噤は笑った後、ビシリと指さしてくる。


「とにかく! アンタみたいなトーヘンボクが祭に参加して御神子様になろうだなんて、カンチガイも甚だしいのよ! とっとと家に帰って夏の特番でも観ながらソーメンすすってなさい!」


そう言い捨てて、ぷいと出て行こうとする出ていこうとする噤の背中に、咄嗟に手が伸びた。

指先が袴の布を掴む。まるで溺れる者が藁を掴むような気持ちだった。


危うく転びかけた噤が振り返る。彼が口を開く前に、言葉が喉をついて出た。


言うつもりなんてなかった。

ただ、噤の『帰れ』があまりにも当たり前のようで、胸の奥がずくりと疼いたのだ。


気づけば、口が勝手に動いていた。


「……もう、無いんです……。家も、家族も……」


それから汐里は誰にも教えたことのない過去を噤に話していた。


小さい頃、実家は裕福であったこと――。

家族も円満で兄弟も仲が良かったこと――。

しかし、物置で見つけた『とあるモノ』を汐里が捨ててしまったことで、家族がバラバラになってしまったこと――。


「……私の家、『幸の物』があったみたいなんです。でも、それ……でも、それ……人形の髪が本物みたいにぬめってて…… 。しかも、その胸元に、何枚もウロコみたいな赤黒く乾いたモノが、ぶら下げられていて……。凄く怖くて、気持ち悪くて、私……それをゴミ袋に詰めて、捨ててしまったんです……」


後から家族が血相を変えて人形を探し回っている姿に、汐里は自分の罪を知ることとなったのだ。

その後は父は不倫をして妻子を捨て、母も失踪、兄は目が合うたびに「どうしてあんなことをしたんだ」と汐里を睨むようになり、絶縁状態となってしまった。


「私が……私が幸の物を捨てなければ……今も皆で幸せでいられたのに……」


泣くつもりなど無かったのに、涙が溢れて頬を伝う。

そんな汐里の涙を噤の長い指が拭った。

その手つきは、泡沫にでも触れるように、優しく儚げだった。


「……アンタ、馬鹿ね」


噤の静かな声が降ってくる。けれどその声は、どこか震えていた。

顔を上げると、困惑したような、申し訳なさそうな表情の噤が居る。


それから、不意に抱きしめられた。

逃げ場も言葉もなく、汐里はその胸に預けられるまま、そっと目を閉じる。


驚く汐里の耳元で噤が続けた。


「アンタは悪くないわ」

「あ、はい……。慰めてくださって、ありがとうございま……」

「慰めなんかじゃないわよ!」


噤が体を離すと、真っ直ぐに見つめてきた。

その真摯な眼差しに胸が疼く中、彼は告げる。


「幸の物ってのはね、効果が強すぎるの! だから、ある程度の幸福を得られたら、捨てなきゃいけないものなの! なのに……ッ、アンタの父親は欲に憑かれて、鬼になっちゃったのね……」


噤が言うには、あのまま幸の物を持っていれば、遅かれ早かれ財産が災いや争いを呼んでいたという。むしろ捨てるのが遅すぎたくらいだ、とも……。


それが本当かどうかはわからない。

ただ、重荷が、ほんの少しだけ――。

それでも確かに、心の奥でほどけていくのを感じた。


「だから、アンタの所為じゃない。むしろ、アンタがやったことは『正しい』のよ!」


幼子をあやすように、何度も繰り返す優しい声。

汐里の瞳からは、さっきとは違う種類の涙がこぼれた。


「――ありがとう、ございます……!」


何とか笑顔を作って見せると、噤は頬を朱に染めながら頭を掻いた。

その仕草は驚くほどに男性的で、先刻までの流麗な振る舞いとのギャップを感じて胸が高鳴る。


間近で見る、噤の姿は昼間見た時よりも更に美しさを増しているようで……。

魔性とも言える美しさに、汐里は吸い寄せられるように見入っていた――そのとき、ふと視線を感じて、はっと我に返る。


じっ……と、こちらを見ている寧々の姿が縁側にあったのだ。

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