ユンの個展初日。朝の静けさの中、アトリエでヴァロワがそっと声をかけた。
「……ユン、昨日は悪かった。俺も言い過ぎた。お前の怖さも、苦しみも分かってやれなかった」
ユンは驚きと安堵の入り混じった表情で彼を見つめた。
しばらくの沈黙の後、ゆっくりと頷く。
「わたしも……ごめんなさい。自分を守ろうとして、あなたの言葉から逃げていたのかもしれない」
二人の間に、ぎこちなさとともに柔らかな和解の空気が流れた。
互いの視線が重なり合い、冷え切った氷が解け始める音が聞こえたようだった。
それから数時間後。
会場は明るく活気に満ち、白い壁にはユンの新作が静かに並んでいた。
訪れた観客たちは一つひとつの作品に目を凝らし、カラフルな光と影、細やかな筆致が織りなす世界は、彼女の試行錯誤の結晶を雄弁に語っていた。
ヴァロワは控えめながらも誇らしげに隣に立ち、ナイルは売り上げの管理に追われていた。
ユン自身は緊張と期待が入り混じる中、来場者に笑顔で応対しつつも、どこか心の片隅で不安を抱えていた。あの批評家、カロンがもし訪れたら……という予感は消えなかった。
展示開始から数時間が過ぎ、夕暮れのオレンジ色が会場を包み始めたころ、不意に入口の扉が静かに開いた。
誰も気づかないまま、静かな足音が廊下の石畳を歩いてくる。
ユンは遠くからその影を見つけた瞬間、胸の鼓動が跳ねた。
そこにいたのは予想通り、カロンだった。
彼は挨拶もなく、ただ黙って会場内を見渡すと、ゆっくりと一歩ずつ作品の前に進んでいった。
カロンの視線は鋭く、しかしどこか冷たくもあり、温かみとは縁遠いものだった。
壁に掛けられたキャンバスの隅々をまるで検分するかのように、丁寧に目を走らせていく。
ユンは自分の胸の中で何かが引き締まるのを感じた。
言葉を交わすことなく、ただ彼が作品を見ている様子に、彼女の心は揺れ動く。
かつての批判的な言葉が何度も頭をよぎり、それが現実のものとなった瞬間だった。
ヴァロワが小声で近づき囁く。
「静かにしておけ。あいつは何か言うために来たんじゃない。見て、感じるためだけに。」
カロンの歩みはゆっくりだが確実で、どの作品の前でも足を止め、細部をじっと見つめた。
彼の表情は微動だにせず、感情を読み取ることは難しかった。
時間がゆるやかに流れ、会場の空気が重く沈んでいく。
訪問者の一人がそっと呟いた。
「カロンが来るなんて……まさか、何か言うのかと思ったけど、ただ見ているだけだね」
ユンは答えず、ただ心の中で自問した。
——彼は何を探しているのだろうか。私の作品のどこに注目しているのか。
カロンは最後の一枚を見終えると、作品群から少し離れたところで立ち止まり、長く深いため息をついたように見えた。
だが、口は閉ざされたままだ。
やがて彼は振り返ることもなく、無言で会場の出口へと向かった。
その足取りは重く、まるで心の中に何か重いものを抱えているかのようだった。
扉の外に出た瞬間、冷たい夜風が彼のコートの裾を揺らした。
振り返ることなく、そのまま闇の中へ歩み去っていった。
会場には静寂が訪れ、ざわめきは途絶えた。
ユンは深く息を吸い込み、震える手で額の汗を拭った。
「カロンは……何も言わなかったね」
ヴァロワが静かに言った。
「言葉なんていらないのかもしれない。あいつはお前の絵を見て、何かを感じ取ったのだろう。」
ナイルも頷いた。
「批評は必ずしも言葉で伝わるものじゃない。無言の時間が、一番重いこともあるんだ。」
ユンはしばらくその場に立ち尽くし、胸の内でさまざまな思いが交錯した。
カロンの沈黙は、厳しい批評の一言以上に、自分にとって大きな意味を持っていた。
彼の過去や心の闇、そしていまの姿。
そのすべてが、静かにしかし確かにユンの心の中で共鳴し始めていた。
これからの道は決して平坦ではない。
しかし、彼の無言の訪問が何か新しい可能性の扉をそっと開けたように感じたのだった。
会場の灯りが一つまた一つと落とされ、夜は静かに深まっていった。