フェアから戻って数日、ユンはまだヴァロワとの間にできた溝を埋められずにいた。
アトリエでの筆は止まりがちで、作業も最低限に留めていた。
気持ちを整理しようと外へ出るたび、街の小さな画材店やギャラリーをふらついたが、心のどこかにはいつもカロンの冷酷な批評が重くのしかかっていた。
――「旅情に依存した表層的表現」――
あの鋭い言葉が何度も頭の中で反響し、無意識に自分の作品の欠点を探してしまう。
自分の中の弱さや不安があぶり出されるような気がして、胸の奥がざわついた。
そんなある日、偶然訪れた小さなカフェで、運命的な話を耳にした。
隣席に座る中年の男性二人が、芸術界の噂話に花を咲かせていた。
彼らの会話がユンの注意を引く。
「カロンか……あいつ、元々は画家志望だったらしいぜ」
「そうそう、十代から腕がかなり良かったらしいんだが、二十代前半で描くのをやめちまった。ある展覧会での酷評が決定打だったとか」
「それで筆を置いて、評論家に転向したってわけか」
「画家としては挫折したけど、文章を書く方で頭角を現したらしい。なんとも皮肉な話だな」
二人は笑いながら話題を変えたが、その言葉はユンの胸に深く響いた。
カロンがかつては自らの手でキャンバスに向かい、夢を追っていたとは思わなかった。
彼の厳しい批評の奥には、過去の挫折や痛みが隠れているのかもしれない。
ユンは席を立ち、胸の中でぐるぐると考え続けた。
もしカロンが画家としての夢を断念し、その痛みを抱えたまま評論家に転向したのなら、あの冷徹な言葉は単なる批評以上の何かを含んでいるのではないか。
自分自身への苛立ちや嫉妬、後悔、あるいは未練が隠れているのではないかと。
その日から、ユンの心の中でカロンの姿が少しずつ変わっていった。
かつては冷徹な評論家であり、遠くからただ批判する敵のように感じていた彼が、どこか脆さや複雑な感情を孕んだ一人の人間として浮かび上がってきたのだ。
――彼の言葉は本当に純粋な分析なのか?
あるいは、自身のかつての苦しみや失敗を誰かにぶつけているのかもしれない――
アトリエに戻った夜、ユンは描きかけのキャンバスを前にじっと考え込んだ。
もしカロンが画家としての夢を断念し、その痛みを胸に抱えているのだとしたら、自分の絵を見た彼は何を感じるのだろうか。
憎しみか、羨望か、それともただ戸惑いか。
筆を取ろうとした手は震えた。
彼の言葉がもはや単純な敵意ではなく、過去の彼自身の残像のように感じられたからだ。
冷たい批評の陰に隠れた人間らしい姿を想像すると、逆に自分の創作意欲が揺らいでしまう。
ユンは、過去の自分のことも思い出した。
画家として夢を追い、失敗し、恐れや不安と戦いながら筆を握っていたあの日々。
カロンもまた、同じような孤独な戦いを経験してきたのかもしれない。
夜が更けると、外の雨は上がり、月明かりが雲の切れ間から柔らかく差し込んだ。
キャンバスの白地が静かに輝く中、ユンは静かに呟いた。
――もしあなたの過去が真実なら、私の描く意味を少しは理解してくれるのだろうか――
翌朝、新聞を手にしたユンは、カロンの連載コラムを探し出した。
そこには相変わらず冷静で厳しい言葉が並び、感情の揺らぎは微塵も見えなかった。
しかし、その冷たさを覆い隠すように、彼女の胸の中には昨日聞いた噂が薄い膜のように広がっていた。
批評家カロン、そしてかつての画家カロン。
二つの異なる姿が静かにユンの心の中で重なり合い、今後の自分の創作と向き合う上で、新たな意味を持ち始めていた。
それはまるで、凍てつく冬の空にわずかに差し込む朝日のようだった。
冷たく厳しい世界の中にも、ほんの少しだけ希望の光が宿ることを、ユンは知り始めていた。
それでも、まだ答えは見えない。
ただ、彼女の中で揺れる感情だけが確かに存在していた。
憎しみと共感、恐れと理解、批判と尊敬が複雑に入り混じり、彼女の心は揺れていた。
それが、ユンにとって新たな創作の道を切り開く一歩になるのかもしれない――そう、彼女はどこかで信じていた。