雨は一日中降り続いていた。
昼間は細い糸のようだったのが、夜になるにつれ太さを増し、アトリエの窓ガラスを容赦なく叩いている。
無数の水滴が筋を描いては合流し、重さに耐えきれず下へと滑り落ちていく。
照明は最低限に落とし、作業机だけがぼんやりと明るい。
筆立ての影が長く伸び、室内は薄暗く、静かすぎるほど静かだった。
ユンは机の上に肘をつき、額を押さえていた。
視線は目の前のキャンバスに向いているが、焦点は合っていない。
昼間からほとんど筆を取っていない。
ヴァロワはアトリエを出て行って、夜になっても自宅に戻ってこない。
その事実が、胸の奥で鉛のように重く沈んでいる。
雨音に混じって、背後でドアが軋む音がした。
ユンは顔を上げる。
振り向くと、濡れたコートを肩から半分ずり落としたナイルが立っていた。
髪の先から滴る水が床にぽたりと落ちる。
彼は入り口で靴の水を軽く払うと、何も言わずに中へ入り、棚からマグカップを二つ取り出した。
「……こんな時間に?」
ユンの声は掠れていた。
「お前が一日中アトリエに籠ってるって聞いた。で、あいつはまだ戻ってないんだろ」
ナイルは電気ポットのスイッチを押し、湯が沸くまでの間、彼女の斜め向かいに腰を下ろした。
濡れたコートから立ち上る雨の匂いが、少しだけ土の香りを混ぜた空気を運んでくる。
やがて、ポットのスイッチが小さくカチリと音を立てた。
湯気の立つカモミールティーを二人分淹れると、ナイルはようやく口を開いた。
「なあ、ユン。ヴァロワの言ったこと、全部真に受けるなよ」
ユンは視線を逸らし、唇を噛む。
「でも……彼は正しいのかもしれない」
「正しいかどうかなんて、大した問題じゃない」
ナイルは少し身を乗り出し、テーブル越しに彼女の目をまっすぐ見た。
「批評家は観客じゃない。あいつらの仕事は、舞台の端から声を飛ばすことだ。お前らの一番の観客は、ここにいる俺だろ」
思いがけない言葉に、ユンは瞬きした。
ナイルは笑みも見せず、真剣な顔で続けた。
「俺はお前ら二人が描くものを、何百枚も見てきた。上手くいった時も、失敗した時も。批評家の紙切れより、俺がこの目で見た時間の方がよっぽど価値がある」
ユンの胸に、何か温かいものがじわりと広がった。
だが同時に、ためらいも残る。
「……でも、ヴァロワは怒ってる」
「そりゃ怒るさ。あいつはお前のことになると真剣すぎる。真剣すぎて、言葉が刃物みたいになる」
ナイルは肩をすくめ、マグを両手で包み込むようにして啜った。
「けどな、刃物だって研ぎ方を間違えりゃ使い物にならない。今はあいつが研ぎすぎて、自分の手も切ってる状態だ」
ユンは思わず小さく笑った。
ナイルの喩えはいつも荒っぽいのに、妙に核心を突いている。
「なあ、ユン。お前が怖がってるのは分かる。けど、それは悪いことじゃない。怖さがあるから、慎重に線を引ける。逆にヴァロワみたいに怖さを押し殺して突っ走る奴も必要だ。二人が違うからこそ、組んだ時に面白いもんができるんだ」
湯気が二人の間を漂い、窓の外ではさらに雨脚が強まった。
遠くで雷が低く鳴り、アトリエの空気が一瞬だけ重く揺れた。
「俺から見りゃ、お前らはまだ『仲間割れ』なんて呼べるほど離れちゃいない。ただの口喧嘩だ。放っときゃ、またくだらないことで笑い合ってる」
「……そうかな」
「そうだ。俺は賭けてもいい」
ナイルはそう言って、ユンのマグに残っていた茶を飲み干した。
強引な仕草に、ユンは小さく吹き出す。
笑うなんて、何日ぶりだろう。
外の雨音は依然として途切れない。
それでも、室内の空気は昼間よりも少しだけ柔らかくなっていた。
ナイルは帰り際、ドアの前で振り返った。
「明日、あいつのところに行ってやれ。絵の話じゃなくていい。ただ、飯でも一緒に食えばいい」
ユンは頷き、まだ温もりの残るマグを握りしめた。
――批評家は観客じゃない。私の観客は、ここにいる人たちだ。
その言葉は、雨音に包まれた夜の静けさの中で、灯火のように彼女の胸にとどまり続けた。