ルネーヴから帰国して数日、アトリエには妙な静けさが漂っていた。
作品の搬入や会計処理など、日常の雑事はいつも通り進んでいるのに、空気のどこかに重い湿り気がある。
それは外の春雨のせいではなかった。
原因は分かっていた――現地でのカロンの記事が、母国でも翻訳され、美術欄に転載されたのだ。
見出しは人目を引くように煽っている。
「異国で酷評を受けた若手画家」。
本文はほぼカロンの言葉をなぞり、ユンの作風を「旅情に依存した表層的表現」と断じていた。
彼女がフェアで得た肯定的な反応や、現地でいくつかの作品が売れた事実は、一行も触れられていない。
その記事を机に叩きつけるように置いたのは、ヴァロワだった。
「まただ。まるで見世物にされているみたいじゃないか」
低く押し殺した声。指先が小さく震えているのを、ユンは横目で見た。
「私は……別に構わない」
ユンは筆を動かしたまま答えた。
怒りや屈辱よりも、諦めに似た感覚が先に立つ。
たとえ悪意が混じっていようと、自分の絵が見られる機会は増える――そう思うことで、心を守ってきた。
だが、その言葉がヴァロワの苛立ちに油を注いだ。
「構わないだと? 本気でそう思ってるのか?」
彼は机を回り込み、ユンの背後に立つ。
キャンバスを覗き込み、眉をひそめた。
そこには淡い光に包まれた室内の情景。危うさのない構図、やわらかな色彩。
「これだってそうだ。安全な構図、安全な色彩……まるで批評にビビって、自分を守る殻の中で描いてる」
ユンの手が止まった。
「そんなつもりじゃない」
「つもりなんてどうでもいい。結果だ。昔はもっと、見る人をざわつかせる絵を描いてただろう。今はただ、傷つかない場所を探してる」
突き刺さる言葉。
ヴァロワは、最初に彼女を見いだし、共に活動してきた仲間だ。
その指摘は的を射ていると同時に、信頼を踏みにじられたような痛みもあった。
「……あなたに、私の怖さなんて分からない」
気づけば、声が震えていた。
「批評を受けても、笑って受け流せる人ばかりじゃない。私はまだ、自分の絵を信じきれてないの」
ヴァロワは口を開きかけたが、言葉を呑み込んだ。
背中に怒りと後悔が同居する硬さが走る。
「……分かった。じゃあ好きにしろ」
そう言い残し、足音荒くアトリエを出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
残された空間に、雨の音と静寂だけが満ちていく。
ユンはキャンバスの前に座り続けたが、筆はもう動かなかった。
夜。
街の灯りが窓から差し込む頃、ユンは棚の奥から古いスケッチブックを引っ張り出した。
学生の頃の、拙いが勢いある線。
まだ描くことの怖さを知らなかった時期の、無防備な色彩。ヴァロワの言葉がそこに重なって見えた。
――あの頃の私は、確かにもっと自由だった。
だが今の自分に、あの自由をそのまま取り戻すことはできない。
批評家の視線、観客の評価、売れるための計算。
それらを知ってしまった後で、かつての無鉄砲さを装うのは、演技にしかならない。
ヴァロワの言葉は、正しいのかもしれない。
だがその正しさは、胸の奥に深い裂け目を刻んだ。
信頼していた仲間からの一撃は、他人の酷評よりもずっと重かった。
翌日、ヴァロワのアトリエに彼はいなかった。
机の端に置かれた工具箱や、途中まで描かれた彼のキャンバスはそのまま。
まるで出て行ったのは一時的なことのようにも見える。
けれど、椅子の不在は、二人の間に走った亀裂をはっきりと示していた。
窓の外では、春の雨がしとしとと降り続いている。
ガラスを伝う水滴を眺めながら、ユンは心の奥で呟いた。
――描くことは、私にとって戦いだ。
でも、その戦い方を仲間に否定されたら、私はどうすればいい?
答えは出ない。雨音だけが、途切れなく響き続けていた。