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第55話 仲間割れ


 ルネーヴから帰国して数日、アトリエには妙な静けさが漂っていた。

 作品の搬入や会計処理など、日常の雑事はいつも通り進んでいるのに、空気のどこかに重い湿り気がある。

 それは外の春雨のせいではなかった。


 原因は分かっていた――現地でのカロンの記事が、母国でも翻訳され、美術欄に転載されたのだ。


 見出しは人目を引くように煽っている。

 「異国で酷評を受けた若手画家」。

 本文はほぼカロンの言葉をなぞり、ユンの作風を「旅情に依存した表層的表現」と断じていた。

 彼女がフェアで得た肯定的な反応や、現地でいくつかの作品が売れた事実は、一行も触れられていない。


 その記事を机に叩きつけるように置いたのは、ヴァロワだった。

「まただ。まるで見世物にされているみたいじゃないか」

 低く押し殺した声。指先が小さく震えているのを、ユンは横目で見た。


「私は……別に構わない」

 ユンは筆を動かしたまま答えた。

 怒りや屈辱よりも、諦めに似た感覚が先に立つ。

 たとえ悪意が混じっていようと、自分の絵が見られる機会は増える――そう思うことで、心を守ってきた。

 だが、その言葉がヴァロワの苛立ちに油を注いだ。


「構わないだと? 本気でそう思ってるのか?」

 彼は机を回り込み、ユンの背後に立つ。

 キャンバスを覗き込み、眉をひそめた。

 そこには淡い光に包まれた室内の情景。危うさのない構図、やわらかな色彩。

「これだってそうだ。安全な構図、安全な色彩……まるで批評にビビって、自分を守る殻の中で描いてる」


 ユンの手が止まった。

「そんなつもりじゃない」

「つもりなんてどうでもいい。結果だ。昔はもっと、見る人をざわつかせる絵を描いてただろう。今はただ、傷つかない場所を探してる」


 突き刺さる言葉。

 ヴァロワは、最初に彼女を見いだし、共に活動してきた仲間だ。

 その指摘は的を射ていると同時に、信頼を踏みにじられたような痛みもあった。


「……あなたに、私の怖さなんて分からない」

 気づけば、声が震えていた。

「批評を受けても、笑って受け流せる人ばかりじゃない。私はまだ、自分の絵を信じきれてないの」


 ヴァロワは口を開きかけたが、言葉を呑み込んだ。

 背中に怒りと後悔が同居する硬さが走る。

「……分かった。じゃあ好きにしろ」

 そう言い残し、足音荒くアトリエを出ていった。


 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 残された空間に、雨の音と静寂だけが満ちていく。

 ユンはキャンバスの前に座り続けたが、筆はもう動かなかった。


 夜。

 街の灯りが窓から差し込む頃、ユンは棚の奥から古いスケッチブックを引っ張り出した。

 学生の頃の、拙いが勢いある線。

 まだ描くことの怖さを知らなかった時期の、無防備な色彩。ヴァロワの言葉がそこに重なって見えた。


 ――あの頃の私は、確かにもっと自由だった。


 だが今の自分に、あの自由をそのまま取り戻すことはできない。

 批評家の視線、観客の評価、売れるための計算。

 それらを知ってしまった後で、かつての無鉄砲さを装うのは、演技にしかならない。


 ヴァロワの言葉は、正しいのかもしれない。

 だがその正しさは、胸の奥に深い裂け目を刻んだ。

 信頼していた仲間からの一撃は、他人の酷評よりもずっと重かった。


 翌日、ヴァロワのアトリエに彼はいなかった。

 机の端に置かれた工具箱や、途中まで描かれた彼のキャンバスはそのまま。

 まるで出て行ったのは一時的なことのようにも見える。

 けれど、椅子の不在は、二人の間に走った亀裂をはっきりと示していた。


 窓の外では、春の雨がしとしとと降り続いている。

 ガラスを伝う水滴を眺めながら、ユンは心の奥で呟いた。

 ――描くことは、私にとって戦いだ。

 でも、その戦い方を仲間に否定されたら、私はどうすればいい?


 答えは出ない。雨音だけが、途切れなく響き続けていた。


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