アトリエの窓から柔らかな午後の日差しが差し込む中、ユンは再びキャンバスの前に座っていた。
しかし、その筆先は鈍く、まるで空を泳いでいるかのように動かない。
彼女の心は、数日前に届いたカロンの冷徹な批評の手紙で重く沈んでいた。
「旅情に依存しすぎている」「表層的で深みがない」——
羊皮紙に刻まれたその鋭い言葉の一つひとつが脳裏で繰り返され、創作の炎が徐々にしぼんでいくのを感じていた。
一方、隣の部屋ではナイルが古びた帳簿や書簡を机いっぱいに広げ、黙々と羽根ペンを走らせていた。
やがて彼は顔を上げ、ユンに声をかける。
「ユン、ちょっと来てくれ。見せたいものがある」
彼女は重い足取りでナイルの元へ歩み寄った。
机の上には、近隣の画廊や市の展示会の記録帳が何冊も積まれ、各地から届いた報せが束ねられている。
「これは最近の市井の動きだ。特にカロンの批評が町の広場で読まれた直後から、俺たちの作品を求める依頼が急に減り、展示の申し出も激減している」
ナイルの指が示したのは、各地の画廊から届いた出品依頼の記録だった。
かつてはびっしりと書き込まれていた出品予定日が、今では空欄ばかりになっている。
「やはり、カロンの言葉には市場を動かす力がある。彼は芸術評議会の重鎮だから、彼の評が一つ出れば作品の価値も行く先も左右されるんだ」
ユンは帳簿の白い欄を見つめながら、胸の奥に静かな恐怖が広がっていくのを感じた。
「でも…価値は依頼の数だけで決まるものじゃないはず。絵の意味は、他人の評価だけじゃない」
小さく呟いたものの、その言葉は自分自身にすら響いていない気がした。
ナイルは頷き、別の束を広げた。そこには各地の旅商や文筆家から届いた短い手紙が並んでいた。
「確かに数字や依頼は絶対じゃない。ただ、依頼が減れば作品が展示される場も減り、旅の画商や貴族の屋敷にも届かなくなる。最も怖いのは、“誰にも見られなくなる”ってことだ」
その言葉がユンの胸を強く打った。
彼女が最も恐れていたのは、金銭的な損失ではなく、作品が誰の目にも触れなくなることだった。
「私は…絵を描く意味は、まず誰かに見てもらうことにあると思っていた。厳しい評価を受けても、存在を知ってもらうこと。それが始まりなんだと」
目を伏せて呟く。
「売れなくても、称賛されなくても、見られることがあれば未来につながる。それがなければ、何も始まらない」
ナイルは優しく彼女の肩に手を置き、穏やかな眼差しを向けた。
「その気持ち、俺はよくわかる。もちろん生活の糧も必要だ。でも一番大事なのは“絵が生きる場”を守ることだ。それは表現者にとっての命綱だ」
ユンは深呼吸をして、もう一度キャンバスの前に戻った。
広がる白い空間は、彼女に新たな可能性を囁いているようだった。
「私はこれからも描き続ける。どんな批評があろうと、誰かに見てもらえる場を失いたくない」
ナイルは静かに笑い、言った。
「お前の絵を必要としている人は必ずいる。だから諦めるな」
その言葉が二人の間に温かく満ちる。外では木々が揺れ、季節の移ろいを告げていた。
その夜、ユンは改めて自分の絵の意味を考えた。
数字や依頼の数に惑わされるのではなく、“見る者との繋がり”を大切にすること。
どんな逆風にも負けず、その繋がりを絶やさないこと。
そんな思いがじんわりと心の奥で燃え始めていた。
依頼帳の白紙に潜む恐怖。
それを乗り越えた先に、新たな道が開けていることを、ユンは確信し始めていた。
翌朝、彼女は再び筆を握り締め、静かに描き始めた。
ゆっくりと、しかし確かな一歩を踏み出すように。
描く手が震えなくなるまでにはまだ時間がかかるかもしれないが、ユンの心には確かな光が差していた。
それは、自分の絵を見てくれる誰かの存在を信じる、強い信念の光だった。