冬の空気は澄み切り、吐く息が白く溶けていく。
展示会のオープニング当日、ユンは控え室の片隅で立ったまま、両手をぎゅっと組んでいた。
外ではメディアのカメラマンが三脚を立て、開場を待つ観客たちのざわめきが廊下越しに伝わってくる。
ガラス越しに見えるギャラリーの前には長蛇の列ができ、その中には記者や美術評論家の顔も混ざっていた。
だが、もっとも彼女の胸をざわつかせていたのは、ひとつの情報だった。
——カロンが来る。
それは今朝、ナイルが控えめに耳打ちしてくれたニュースだった。
冷静を装ったが、心の奥では波が立ち、指先にまで熱がこもる。あの冷徹な筆を持つ評論家、カロン。
彼の批評は市場を揺らし、作家の評価を一夜で変えてしまうほどの影響力を持つ人物。
ユンにとっては、かつて心を抉るほどの酷評を浴びせてきた宿敵でもあった。
「ユン、落ち着いて」
背後から声をかけたのはヴァロワだ。
彼はジャケットの襟を整えながら、穏やかな目でユンを見つめる。
「今日の主役は作品そのものだ。カロンでも、誰でもない」
「……分かってる」
ユンは小さく息を吐き、額の汗をぬぐったが、胸の高鳴りは収まらない。
開場の合図が鳴ると、ギャラリーの中は一気に人で満たされた。
スポットライトが温かい光を放ち、壁に掛けられた『灰の祈り』が静かに観客を迎える。
鉛色と淡い金が交錯するその画面は、近くで見ると細かい灰の粒子が塗料に混ぜ込まれ、まるで燃え尽きた跡地から立ち上る祈りそのもののようだった。
作品の前にはすぐに人だかりができ、記者たちがシャッターを切る音が重なった。
やがて、その空気を裂くように低いざわめきが広がる。
入り口から背の高い男が現れた。
黒のロングコートに身を包み、無駄のない動きで会場を歩く。
カロンだ。その姿に、記者たちは一斉にカメラを向けた。
観客も視線を追い、緊張の空気がさらに濃くなる。
カロンは一言も発さず、壁際に沿って展示を眺めていく。
表情は石のように動かず、足取りは一定のまま。
やがて『灰の祈り』の前に立つと、ふっと立ち止まり、数歩後ろへ下がって全体を見渡した。
その仕草に、周囲の人々は息を呑む。
ユンは少し離れた場所から、その様子を凝視していた。
心臓の鼓動が耳に響き、視界がわずかに狭まる。
カロンは作品に顔を近づけ、筆致の流れや色の重なりをじっと追っている。
彼の眼差しは冷たい鋭さを保ちながらも、何かを探るような深さがあった。
その間、観客は誰一人として声を発さなかった。
数分が過ぎた。カロンは一度も笑わず、うなずきもせず、視線を絵から離す。
そして、誰にも何も言わずに次の展示へ移動した。
残されたのは、彼の背中を追う記者たちの足音と、見えない圧力のような張り詰めた空気だった。
「……何も言わなかった」
ユンの口から、かすかな声が漏れる。喉が乾き、言葉はそこで途切れた。
その沈黙は、批評以上に重かった。
言葉で斬るよりも、何も残さず去っていく方が、時に残酷であることをユンは知っていた。
観客や記者の間にも、彼がコメントを出さなかった事実へのざわめきが広がる。
「どういう意味なんだ?」という小声があちこちで交錯した。
一方で、作品の前にはまだ多くの人が立ち止まり、静かに見入っていた。
若い女性が目頭を押さえ、年配の男性が深く頷く。
小さな子どもが母親の手に引かれながら「なんで灰が光ってるの?」と尋ねる声も聞こえた。
カロンが何を思ったのかは分からない。
だが、少なくとも今、目の前でこの絵は誰かの心を確かに動かしている。それだけは確かだった。
閉場間際、ヴァロワがユンの肩に手を置いた。
「沈黙もまた、ひとつの反応だ。今夜はそれでいい」
ユンは頷き、窓の外に滲む街灯を見つめた。
ビルの谷間で雪が舞い、遠くの光に消えていく。
この夜の沈黙が、次の嵐の前触れであることを、彼女はまだ知らなかった。