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第67話 決戦の展示会


 冬の空気は澄み切り、吐く息が白く溶けていく。

 展示会のオープニング当日、ユンは控え室の片隅で立ったまま、両手をぎゅっと組んでいた。

 外ではメディアのカメラマンが三脚を立て、開場を待つ観客たちのざわめきが廊下越しに伝わってくる。

 ガラス越しに見えるギャラリーの前には長蛇の列ができ、その中には記者や美術評論家の顔も混ざっていた。


 だが、もっとも彼女の胸をざわつかせていたのは、ひとつの情報だった。

 ——カロンが来る。


 それは今朝、ナイルが控えめに耳打ちしてくれたニュースだった。

 冷静を装ったが、心の奥では波が立ち、指先にまで熱がこもる。あの冷徹な筆を持つ評論家、カロン。

 彼の批評は市場を揺らし、作家の評価を一夜で変えてしまうほどの影響力を持つ人物。

 ユンにとっては、かつて心を抉るほどの酷評を浴びせてきた宿敵でもあった。


 「ユン、落ち着いて」

 背後から声をかけたのはヴァロワだ。

 彼はジャケットの襟を整えながら、穏やかな目でユンを見つめる。

 「今日の主役は作品そのものだ。カロンでも、誰でもない」

 「……分かってる」

 ユンは小さく息を吐き、額の汗をぬぐったが、胸の高鳴りは収まらない。


 開場の合図が鳴ると、ギャラリーの中は一気に人で満たされた。

 スポットライトが温かい光を放ち、壁に掛けられた『灰の祈り』が静かに観客を迎える。

 鉛色と淡い金が交錯するその画面は、近くで見ると細かい灰の粒子が塗料に混ぜ込まれ、まるで燃え尽きた跡地から立ち上る祈りそのもののようだった。

 作品の前にはすぐに人だかりができ、記者たちがシャッターを切る音が重なった。


 やがて、その空気を裂くように低いざわめきが広がる。

 入り口から背の高い男が現れた。

 黒のロングコートに身を包み、無駄のない動きで会場を歩く。

 カロンだ。その姿に、記者たちは一斉にカメラを向けた。

 観客も視線を追い、緊張の空気がさらに濃くなる。


 カロンは一言も発さず、壁際に沿って展示を眺めていく。

 表情は石のように動かず、足取りは一定のまま。

 やがて『灰の祈り』の前に立つと、ふっと立ち止まり、数歩後ろへ下がって全体を見渡した。

 その仕草に、周囲の人々は息を呑む。


 ユンは少し離れた場所から、その様子を凝視していた。

 心臓の鼓動が耳に響き、視界がわずかに狭まる。

 カロンは作品に顔を近づけ、筆致の流れや色の重なりをじっと追っている。

 彼の眼差しは冷たい鋭さを保ちながらも、何かを探るような深さがあった。

 その間、観客は誰一人として声を発さなかった。


 数分が過ぎた。カロンは一度も笑わず、うなずきもせず、視線を絵から離す。

 そして、誰にも何も言わずに次の展示へ移動した。

 残されたのは、彼の背中を追う記者たちの足音と、見えない圧力のような張り詰めた空気だった。


 「……何も言わなかった」

 ユンの口から、かすかな声が漏れる。喉が乾き、言葉はそこで途切れた。


 その沈黙は、批評以上に重かった。

 言葉で斬るよりも、何も残さず去っていく方が、時に残酷であることをユンは知っていた。

 観客や記者の間にも、彼がコメントを出さなかった事実へのざわめきが広がる。

 「どういう意味なんだ?」という小声があちこちで交錯した。


 一方で、作品の前にはまだ多くの人が立ち止まり、静かに見入っていた。

 若い女性が目頭を押さえ、年配の男性が深く頷く。

 小さな子どもが母親の手に引かれながら「なんで灰が光ってるの?」と尋ねる声も聞こえた。

 カロンが何を思ったのかは分からない。

 だが、少なくとも今、目の前でこの絵は誰かの心を確かに動かしている。それだけは確かだった。


 閉場間際、ヴァロワがユンの肩に手を置いた。

 「沈黙もまた、ひとつの反応だ。今夜はそれでいい」

 ユンは頷き、窓の外に滲む街灯を見つめた。

 ビルの谷間で雪が舞い、遠くの光に消えていく。

 この夜の沈黙が、次の嵐の前触れであることを、彼女はまだ知らなかった。

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