展示会から三日が過ぎても、ユンの胸は落ち着かなかった。
カロンが会場を訪れ、何も言わず去ったあの夜から、時間は妙にゆっくりと進んでいる気がした。
外は相変わらず冬の灰色の空。
ギャラリーは次の展示準備のために静まり返っていたが、ユンの耳にはまだ、あの時のシャッター音と観客のざわめきがこびりついていた。
「まだ出ないのか?」
ヴァロワがコーヒーを飲みながら訊ねる。
彼の机の上には美術専門誌や新聞が山積みになっている。
カロンの批評は多くの媒体に転載されるため、彼の文章が公になるまでは油断できなかった。
「……きっと明日か明後日」
ユンは曖昧に答える。
知りたいような、知りたくないような、相反する感情が胸の奥でぶつかっていた。
酷評されても、それは予想できる痛みだ。だが、沈黙の意味を知るのは、もっと怖かった。
そして四日目の朝、ヴァロワが新聞を手にして事務所へ入ってきた。
紙面の一面を飾るのは別のニュースだったが、芸術欄の見出しに小さく「カロン評:ユンとヴァロワの新作」とある。ユンは息を呑み、椅子の背に手をかけた。
「読むか?」
ヴァロワが問う。ユンはうなずくが、その声はかすかに震えていた。
カロンの記事は、いつもの簡潔で硬質な文体だった。
余分な形容はなく、感情を過剰に煽る言葉もない。だが、その中には重い意味が潜んでいた。
「初めて、この画家の祈りが“借り物”ではなく、自分の言葉を持った。」
「色彩と構図の選択は、もはや誰かの模倣ではない。筆致に宿るためらいすら、彼女自身の経験から滲み出ている。」
「彼女の以前の作品は、優れた技術にもかかわらず、どこか遠くの物語をなぞっていた。しかし今回は、灰の粒一つひとつが作家の血肉のように感じられた。」
ユンは息を詰めて読み進める。手の中の新聞がわずかに震えていた。
記事の後半には、ヴァロワについても触れられていた。
「ヴァロワの監修は、これまで時に過剰に作家を導きすぎるきらいがあった。しかし今回、その距離感に成熟が見えた。作家の声を押し殺すのではなく、響かせる方向へ調整している。」
ユンは記事から目を離し、向かいに座るヴァロワを見た。
彼は新聞をもう一度手に取り、淡々と読み返している。
その横顔には笑みも誇りも浮かんでいなかった。ただ、静かな満足があった。
「……悪くないな」
ヴァロワが短く言う。
ユンは胸の奥に、じわじわと温かいものが広がるのを感じた。
酷評を覚悟していた分、言葉の一つひとつが驚きと安堵をもたらす。
しかし同時に、褒められたからといって全てが解決したわけではないことも分かっていた。
カロンの文章は、褒め言葉の中に必ず次の課題を忍ばせる。
それはまるで「まだ道半ばだ」と告げられているようだった。
その日の午後、ギャラリーには何人もの記者から取材の依頼が届いた。
「カロンが認めた」という見出しで記事を書きたいらしい。
ユンは取材の予定を組むヴァロワの背を見つめながら、自分の心に芽生えた奇妙な感覚に気づく。
あの夜の沈黙は、拒絶ではなかった。むしろ、言葉を選ぶための沈黙だったのかもしれない。
カロンはあの場で何も言わず、数日間を置いてこの文章を世に出した。
その時間こそが、彼にとっての「祈り」の答えだったのではないか。
夕方、ユンは一人で外に出た。
街は夕暮れの色に包まれ、ビルの間を冷たい風が吹き抜ける。
新聞を折りたたんでコートのポケットに入れると、ポケットの中で紙の感触が心地よく残った。
カロンの言葉は、確かに届いた。
けれど、その先の道がどれほど険しいかも同時に突きつけられた気がする。
ユンは小さく笑い、夜の街に足を踏み出した。
その笑みは、敗北を知る者のものではなく、次の勝負を予感する者のものだった。