カロンの記事が新聞に掲載されてから、わずか一週間。
市場はまるで雪解けの川のように一気に流れ出した。
まず最初に動いたのは、ギャラリーのオンラインショップだった。
普段は一日に数件の問い合わせがあれば十分な方だが、その日は朝から電話が鳴り止まなかった。
「『灰の祈り』はまだ購入可能ですか」「過去作の在庫はありますか」という内容が、立て続けに来る。
昼を過ぎる頃には、既に展示中の新作数点が「商談中」の札に変わっていた。
「これは……すごいな」
ヴァロワが、電話を片手に複数のバイヤーと同時進行でやりとりしている。
いつも落ち着いた彼の声が、少しだけ高ぶっていた。
机の端には、海外送金に関する資料や輸送スケジュールのメモが積み上がっている。
カロンの記事は、ただの評価以上の効果をもたらしていた。
過去にユンが受けた酷評までもが掘り返され、対比として語られ始めたのだ。
数年前の美術誌のコピーがネットオークションで取引され、「あの時の酷評を覆した画家」というキャッチフレーズが拡散される。人々は逆転の物語に弱い。
批判からの復活は、それだけで価値を帯びる。
地方紙やニュースも後追いで記事を出し、テレビのワイド番組では「アート界のシンデレラストーリー」として取り上げられた。
投資目的のアートファンドも興味を示し、問い合わせリストには聞いたことのない商社や富裕層の名前が並び始める。
ギャラリーに足を運ぶ客層も変わった。
美術関係者や常連のコレクターだけでなく、普段はギャラリーに縁のない若いカップルや、海外からの観光客まで現れた。
彼らは作品をカメラで撮影し、「この絵が例の……」と呟き合う。そこには美術用語ではない、もっと日常的な言葉の熱があった。
ユンはその光景を、少し距離を置いて見ていた。
嬉しい気持ちがなかったわけではない。
だが、あまりに急激な変化は、喜びよりもむしろ戸惑いを先に呼び起こす。
ある午後、ギャラリーの奥でヴァロワと話す機会があった。
「カロンの記事が出る前と後で、同じ作品の値段が倍になってる」
ヴァロワは苦笑しながら帳簿を見せた。
「作品そのものは変わってないのに、だよ」
「……変わったのは、周りの目」
ユンは呟く。
自分の手が描いた線も、塗り重ねた色も、あの日のままだ。けれど、それらの意味は世間の空気によっていとも簡単に塗り替えられる。
過去の酷評が、今では「試練」と呼ばれ、克服の証として持ち上げられている。
その扱いに、どこかむず痒さを感じた。あの時の傷は、まだ完全には癒えていない。
「ユン、こういう波は長くは続かない」
ヴァロワが静かに言う。
「だからこそ、この熱の中で次の一手を考えるんだ」
「……分かってる」
ユンは答えながら、心の奥にうっすらとした不安を覚えた。
人々が求めているのは、本当に自分の絵なのか。それとも、批評家カロンとの“物語”なのか。
その夜、帰宅すると、ポストに何通もの手紙が届いていた。
海外のコレクターからのオファー、地方の美術館からの企画展依頼、さらには若い美大生からの感謝のメッセージまであった。「あなたの逆転劇に勇気をもらいました」という一文が、不思議と胸に残った。
市場は確かに爆発している。
数字も、人の流れも、作品への視線も。
だが、その渦の中心にいるはずの自分が、少しだけ取り残されているような感覚があった。
まるで、自分ではない誰かが、自分の名前を借りて走っているような――そんな違和感。
数日後、ヴァロワから呼び出しがあった。
「次の展示の話だ」
彼の声は、久しぶりにあの鋭さを帯びていた。
机の上には、海外都市の地図と、複数の赤い付箋が貼られた企画書が広がっている。
そこから立ちのぼる熱は、ただの商談ではない。
ユンは、その言葉がこれから訪れる新しい嵐の予兆であることを、直感的に理解していた。