月島悠亜は部屋に戻ると、急いでシャワーを浴びた。
悔しい思いがした。避妊をしなかった。
けれど、結局は自分から仕掛けたこと。誰のせいでもなかった。
そう思うと、あの二人の「縁」が深すぎたせいかもしれない、とも感じた。
午後、月島はクライアントと共にホテルにチェックインした。仕事のアポがまだなかったため、安曇野ルーブル美術館を見学に出かけた。
ホテルを出てすぐ、海沿いの大通りに、大胆なデザインのレクサスLFAスーパーカーが停まっているのを見つけた。そのナンバープレートには「アポロ」――太陽神の名が。あまりに目立って、むしろ眩しかった。
月島はスマホで写真を撮りながら、車の持ち主はどんな男だろうと想像した。きっと横暴で独りよがり、自信過剰で天狗なタイプに違いない。
そう思った瞬間、彼は現れた。
身長は190センチ近くあろうか。鍛え上げられた古銅色の筋肉は、男性ホルモンが漲っているのに、締まって見えた。まるで歩く彫刻のよう……サングラスをかけていたが、端整な顔立ちの日本人だとわかった。
ヨーロッパのルネサンス期の裸像を見慣れていた月島にとって、彼の肌の色と体つきは、月島の好みにドンピシャだった。
描きたくなった。
「車、かっこいいですね」月島は気さくに褒めた。
「手口がうまいな」
その声は低く、響きが良く、英語の発音も素晴らしかった。しかし、その言葉の意味は――
なんと、彼は月島を嘲笑っていたのだ。わざと近づいてきた女とでも思っているのか。
月島は言葉に詰まった。言い返す間もなく、彼は運転席に乗り込み、はさみ式のドアが音を立てて閉じた。
エンジンの轟音が夜の静けさを引き裂き、そのナルシストはスーパーカーを疾走させて去っていった。
月島はその時、指先が震えるほど腹が立った。
こんな不快な出会いなら、普通は二度と関わることはないはずだった。しかし、運命は皮肉なものだ。その夜、月島が泳ぎに階下へ降りた時、誤って一階のプライベートプールに入り込んでしまったのだ。
「private pool」のサインに気づかなかったのである。
ただ、こじんまりとしたプールだが、誰もいないのが良いと思っただけだった。
泳ぎ始めてしばらくして、また彼に出くわしてしまった。その時初めて、このプールが一階のヴィラスイート専用で、彼のプライベートスペースだと知った。
水中で、御堂征司は月島の細い足首を掴んで離さず、声を潜めて詰め寄った。
「Say your purpose and who you are?」(目的と、お前の名前を言え)
「It’s none of your business! Let me go!」(余計なお世話よ! 離しなさい!)
月島が掌の中で抵抗するのをものともせず、御堂は突然、韓国語で尋ねた。
「韓国人か?」
月島は彼が日系で、しかも韓国語を話せるとは思ってもみなかった。
唇を固く結び、睨み返した。
「韓国人か?」今度は日本語で詰め寄った。
月島はむっとした口調で言い返した。
「そっちこそ韓国人じゃないの!」
彼の目に一瞬、理解したような光が走った。
「誰が俺に近づけと?」
「それ、自己愛性パーソナリティ障害による被害妄想か? 昼間はただ車がかっこ良くて写真を何枚か撮っただけ。今のは確かにプライベートプールだと気づかなかった。私が悪かった。離して、すぐに出て行くから」
ようやく彼は手を離した。月島が岸に上がると、ちょうど小野美咲からのLINEが届いていた。
ビーチチェアの横でメッセージに返信し終えた月島は、その場でしばらく呆然とした。足がふらつき、力が抜けていくようだった。
過去の光景が頭の中に渦巻き、まるで彼女の哀れさを嘲笑っているようだった――高橋悠真は、我慢できる、彼女のためならどれだけでも待つと言っていたのに。
なんて滑稽なんだ。
俯いたまま、一筋の涙が鼻筋を伝い、口元に落ちた。塩辛く、じんと刺すようだった。
「どうした?」プールを背にして呆然とする月島の様子に気づいた御堂征司が、後を追うように岸に上がってきた。
「すみません、すぐに失礼します」月島は振り向かず、手早く涙を拭い、外へ向かって歩き出した。
なぜか、途中で足が止まった。
振り返る前に深く息を吸い込み、覚悟を決めたような表情で彼を見つめ、尋ねた。
「お酒、ある?」
事実、彼は持っていた。
あるいは、彼女の赤くなった目尻が効いたのかもしれない。月島は彼の部屋に通された。豪華なスイートのリビングにはバーカウンターがあり、彼は酒の肴も用意してくれた。しかし、彼自身は付き合わず、ただ自分の用事をこなしているだけで、近づこうとする素振りすら見せなかった。話しかけることもなかった。
さっきまで自分をわざと近づいてきた女と疑っていたのに、月島は逆に、妙な「安心感」を覚えた。
自分から何もしようとしない男だったからこそ、彼女の中で芽生え始めていた衝動を、ますます助長したのだ。
そして、それは本当に起こってしまった。
後悔していないと言えば嘘になる。それ以上に、悔しかった――自分を守るべきだった。
少なくとも、避妊をしてほしいと、彼に言うべきだった。
しかし、その時は酒に酔って朦朧としており、ただ、突き刺さるような痛みに思わず涙が溢れ、反射的に彼を平手打ちして、離れろと押しのけたことだけが…かすかに記憶に残っている。
その時、彼は確かに離れた。しかし、その後は驚くほど忍耐強く、月島は痛みをあまり感じなくなったように思えた。
そのことを思い出し、月島は全身が震えた。
もう考えたくなかった。一夜の関係。ここで終わりにしよう。
ベッドに横たわると、高橋悠真の影がまた浮かんできた。
しかし、小野美咲が普段、気さくを装って高橋悠真と「兄弟のように」振る舞っている姿を思い浮かべると、吐き気がするほど嫌悪感がこみ上げた。
偽善というものが、これほどまでだと、嫌というほど思い知らされた。
スマホを取り出すと、プロフィールのカップルアイコンを外し、高橋悠真に関する過去のSNSへの投稿を、一つ一つ消していった。
そう遠くないうちに、彼女と高橋悠真が別れたという知らせは広まるだろう。
彼ら三人は皆、東京藝大の出身で、共通の友人も多く、社交界も重なっていた。月島には、小野美咲がどこにそんな自信があって、彼女に直接言いに来たのか、どうしても理解できなかった。
本当に体面を気にしないのか、それとも高橋悠真が欲しくて、プライドさえも捨てられるのか。
最低な男と女。それもまた似合いのカップルだ。
変だ。全然泣きたくなかったのに。
…
夜が明け、月島悠亜は通訳としての仕事に没頭した。
クライアントと彼女を含め、一行は五人。佐藤専務、田中部長、それに上級アシスタント二人。月島は、最年長で最高位の佐藤専務を主に担当した。
ビジネスミーティングの場所は、「蒼海幻想号」という名の豪華客船の上だった。昼過ぎ、一行はラポー港のクルーズターミナルから乗船した。
午後いっぱい、ある「クロスボーダー業務コンサルタント」のアレンが案内役となり、彼らを連れて潜在的な投資家を次々に訪問し、人脈を広げて回った。
月島は理解していた。クライアントがこの旅に持ってきたエネルギー関連プロジェクトの協力者を探しに来ているのだ、と。
その頃、客船の最上階にある豪華スイートでは、背筋の伸びた御堂征司がバルコニーの手すりに両手をかけ、長い間海風に吹かれながら、何を考えているのかわからない様子だった。
親友でありアシスタントでもある瀧川航誠がリビングのソファでメッセージを確認し、口を開いた。
「あの娘はホテルにはいない。でも一週間部屋を取っているから、遅かれ早かれ姿を見せるだろう。彼女、何かしたのか?」
瀧川は好奇心でいっぱいだった。御堂征司は生まれて二十八年間、女性には一切近づかず、節を貫いてきた。そんな男が突然、名前しか知らない女を探すなんて、尋常ではない。
だからこそ、御堂征司が何気なく言った言葉――
「俺のベッドに潜り込んできた」を聞いた時、瀧川の綺麗な青い瞳は大きく見開かれた。
その驚きも冷めやらぬうちに、御堂はさらりと付け加えた。
「避妊はしてない」
瞬間、瀧川の整った顔には様々な感情が走り、最後には同情の色が浮かんだ。
「征司…まさか、彼女に薬でも盛られたのか?」