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第2話 真実の調査


前田愛子はゆっくりと目を開けた。まつげに付いた冷たい水滴が、雨の中でもがく蝶のように、しぶとく羽を震わせていた。彼女の瞳には、今や曇りなき冷たい決意が宿っている。


バスタオルをまとってドレッシングルームへ向かい服を探すと、そこには最新シーズンの服、バッグ、アクセサリーが所狭しと並んでいた。全て前田健太が届けさせたものだ。かつては甘い思い出だったそれらの品々が、今ではただ深い屈辱として胸に刺さる。


五年もの間、彼女は健太の紡いだ嘘の中にゆっくりと溺れていった。まさに溺れる者は藁をも掴むとはこのこと。なんて愚かなんだろう!


愛子は自分で買ったパジャマを選び着替えると、ベッドに横になりながら過去を回想した。疑念が芽生えた今、健太の行動に数多くの不自然な点があったことに気づく。


毎年決まった時期に出張し、それがさやかの誕生日と重なること。実家に帰る度に「家族がまだ君を受け入れてないから」と一人で向かうこと。接待帰りに、さやかの愛用香水に似た香りがすること……。


それまで全く疑わなかった自分が、今思えば滑稽で仕方ない。


さやかは健太の妹だ。たとえ越えた関係になくとも、彼の行為は裏切りではなく、純粋な利用だった。そして彼女はまるで阿呆のように、偽りの愛情に五年も騙され続けたのだ。


愛子は考えるほどに心が冷め、離婚の決意を固める。ふと、先ほど健太が電話で「五年前のオリジナル写真をまだ持っている」と言ったことを思い出す。これこそが真実を解き明かす鍵かもしれない。


愛子はスマートフォンを手に取り、8時間も離れた親友の渡辺結衣にメッセージを送った。「パソコンに詳しい人知ってる? 信頼できる人を紹介して」


AI研究をしている結衣は、時代の最先端を行き、人脈も広い。愛子がトラブルに見舞われた当時、他の友人は皆距離を置くなか、いつも反論してきた結衣だけが彼女をかばった。それ以来、二人は親友として何でも話せる間柄になった。


ほどなくして結衣からビデオ通話がかかってきた。応答すると、早速からかうような声が飛んだ。「こんな時間に旦那さんじゃなくてパソコン詳しい人? まさかアレの話? 良質なの持ってるんだけどシェアしようか?」


愛子が呆れたように額に手を当てると、結衣は彼女の表情の変化に気づき、真剣な口調に変えた。「旦那さんは?」


「ちょっとトラブってて。詳しくは出張から帰ってから話すわ」健太の話題を避ける愛子の目がわずかに潤む。「とにかく急いでパソコン詳しい人を探して」


結衣は胸騒ぎを覚えつつ尋ねた。「どんな分野のプロが必要なの?」


「痕跡を残さずにパソコンに侵入し、隠された古いファイルを見つけてコピー。元の写真は一定期間後に自動消滅する仕組みにしてほしいの」


結衣はその言葉にまつげを微かに震わせたが、表情を変えずにOKサインを送った。「了解」


通話を切ってから二分も経たず、結衣がアカウントを紹介してきた。プロフィール画像は真っ黒、名前は単なる黒点、SNSには何も投稿されていない。無機質で神秘的な印象だ。


友達申請を送ると、夜が明けかける頃ようやく承認された。


相手は即座に二文字を送ってきた:「住所」


愛子は首をかしげて「?」と返すと、


瞬時に返信が届いた:「USBメモリに仕掛け済み。対象PCに差せば隠しファイルをコピー可能」


「注:原本は3ヶ月後自動消滅」


「期間変更可」


愛子は納得した。既にプログラムが完成しており、USBメモリを送るつもりらしい。自分で操作すれば、コピーした内容も自分だけが知ることになる。彼女の想像以上に周到だ。


原本が3ヶ月で消えるなら、その間に真実を解明し離婚を成立させればいい。たとえ健太に気付かれても構わない。それに、真実究明以外にも、健太の力を借りて成し遂げたい大事な用事がある。3ヶ月はちょうど良い期間だ。


愛子は住所と連絡先を送り、「3ヶ月で結構」と追記した。


続けて「費用は?」と尋ねると、


相手は三文字で返した:「済」


結衣が既に支払い済みということか。愛子が「ありがとう!」と送るも、既読のまま返信はなかった。彼女は特に気にせずにいた。


東の空が白み始め、階下では使用人たちが働く気配が窓から聞こえてくる。愛子は窓辺に立ち、カーテンが自動で開くと、柔らかな朝日が巨大な窓から差し込み、彼女の白い頬を優しく照らした。新たな一日の始まりだ。いずれにせよ、聴力が回復したのは良いことだ。


階段を降りる途中、踊り場で健太と出くわした。


「随分と早いね」健太が心配そうに声をかける。「もう少し眠っていれば良かったのに」


「目が覚めちゃって。今日は外出する用事があるの」愛子は平静を装い、逆に尋ねた。「昨日は何時に帰ったの? どうして部屋に戻らなかったの?」


健太は申し訳なさそうな表情を浮かべた。「遅くなって君を起こすのが忍びなくて、客室で休んだんだ」


彼が抱擁しようと手を伸ばした刹那、愛子は素早く階段を駆け下り、食堂へ向かいながら甘えた口調で言った。「お腹空いたわ。すき焼きを一人前ペロリと食べられそう!」


健太は苦笑いしながら、ゆっくりと後を追った。


食堂の長い食卓で、向かい合って座る二人。健太は愛子の食事を見守りながら、ついに口を開いた。「今日はどこへ行くんだい? 僕もそれほど忙しくないから、一緒に行こうか」


愛子がサンドイッチを手にした指が微かに止まり、すぐにまた食べ始めた。結婚後、彼女が出かける度に健太が付き添っていたことを思い出す。あれは愛情表現だと思っていたが、今思えば富田航平に密会されないための監視だったのだ。


「買い物」愛子は軽く笑い、健太の端正な顔を見つめながら胸が締めつけられるのを感じつつ、好奇心そうに尋ねた。「昨日の会社の件、もう片付いたの?」


健太は一瞬たじろいだが、すぐに応えた。「心配いらないよ。無事解決した」


愛子は安堵したふりをした。「良かった。そうだ、今日は貸切はなしで」


健太は眉をひそめた。「外は危険だ。もし前みたいに誰かに見つかって、君が傷つくようなことがあっては」


彼は愛子が事件後に、闇に紛れて息抜きに出た時のことを指していた。新宿御苑前広場ですぐに気付かれ、面と向かって罵声を浴びせられたあの日だ。


その時健太は激怒し、愛子が止めるのも聞かず相手を半殺しにした。


以来、愛子は人前に出ることを避け、外出時は健太が必ず場所を貸切にしていた。


健太は説得を試みた。「何が欲しい? 家に届けさせよう」


愛子はうつむき、わざと落胆した様子で承諾した。健太が安堵の息をつくのを聞きながら、愛子の胸は無形の手で握りつぶされるような痛みを覚えた。彼女は指をぎゅっと握りしめ、さりげなく付け加えた。「そういえば、新しい漫画の構想を練ってるんだけど、主人公が投資の大物って設定で。資料調べにあなたの書斎を使ってもいい?」


愛子は外出せず、家で絵を描くことが多かった。三年前、匿名で描いた漫画がネットで大ヒットし、以降は止まるところを知らず、今や多くのファンを獲得している。


健太は彼女を応援するため、明るく居心地の良い書斎を用意していた。自身の書斎もあるが、使用人の清掃時以外は立ち入り禁止で、愛子もこれまで入ったことはなかった。


突然のこの要求は多少唐突だった。だが外出を断ったばかりで、続けて拒むのも気が引ける。何より愛子の潤んだ澄んだ瞳に見つめられては、健太も心を鬼にできなかった。


二秒ほど考えた後、健太はうなずいた。「使いたいなら、もちろん構わないよ」


愛子は目を細めて嬉しそうに笑った——計画成功! 人は連続して同じ人を断りづらいもの。心理学で段階的要請法と呼ばれる手法だ。最初から外出する気などなく、書斎への立ち入り許可を得ることが真の目的だった。


「やっぱり健太が一番優しい! 私のこと、一番愛してるんだもんね!」

愛子は首をかしげて、健太の深く情熱的な瞳をじっと見つめた。今度こそ、彼女は見逃さなかった——「自分を一番愛している」と言われた瞬間、健太の瞳にかすかに揺らめいた不自然な陰を。


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