指がだるくなるほど抱きしめた後、前田愛子は健太の腕から離れた。
「これで気は済んだ?」健太は腰に手を当てながら苦笑いした。
「もし結衣をいじめるようなことがあったら、一生あなたとは口をきかないから」愛子は顔を背けた。
健太は彼女の鼻先を甘やかすようにつまんだ。
「脅かしただけだって説明しただろう?彼女のプロジェクトには手を出さないとも約束した」
愛子は眉をひそめて渡辺結衣の方を見た。うなずくのを確認してようやく口調を和らげた。「私には聞こえないんだから、誰に言ってるのよ?」
健太は彼女の生き生きとした表情をじっと見つめ、心のわだかまりが次第に消えていった。
先ほど届いた知らせに彼は飛び起き、愛子の心療内科医に連絡して聴力回復の可能性を聞かされ、青くなって駆けつけたのだ。
だが今の彼女の反応は、まったく耳が聞こえない様子そのものだった。
「悪かった」彼は声を柔らげた。「家に帰ろう。罰は何でも受け入れるから」
「帰らない!」愛子は結衣の手を引いてタクシーに飛び乗り、彼女の自宅へ向かった。
健太は仕方なく後を追い、二人の部屋の明かりが灯るのを確認してようやく立ち去った。
誰も気づかない路地裏で、黒のレクサスが静かに佇んでいた。
車内の人物は明るい窓を見つめたまま、微動だにしなかった。
「前田社長、あなたを怪しんでいたんじゃない?」風呂から出てきた結衣が尋ねた。
「さっきまでは疑ってたかもしれないけど、今は大丈夫」愛子は唇を尖らせた。「でも彼は鋭すぎる。計画を急がないと」
結衣は憂いを帯びた表情で言った。「彼の影響力を考えると、本人が承諾しない限りあなたが無事に逃げ切れるとは思えない。たとえ前田さやかさんとの写真を手に入れても、命取りになるだけよ」
しかし愛子には独自の思惑があった。「承諾しなければ、追い込んで承諾させる。前田家では祖母以外は私との結婚に反対だし、そもそも問題の根元はさやかさんにあるんだから」
彼女は男性モデルたちの言葉を思い出した。さやかは征服欲を楽しんでいるだけかもしれない。その欲求を健太に向けさせたらどうなるか…
愛子の笑い声を聞きながら、結衣はなぜか健太が災難に遭う気がしてならなかった。
「ところであなたの投資案件、どうなってる?」愛子が突然尋ねた。
「いくつか話はあるけど、条件が厳しすぎて」結衣はため息をついた。
「私が個人で出資するってのはどう?あなたのAIプロジェクト、興味あるし運営にも口出ししないから」
結衣は断ろうとしたが、「まさかプロジェクトに自信がないんじゃないでしょうね」という言葉に押され、承諾してしまった。
翌日、健太は愛子が渡辺結衣に出資したことを知った。
彼は愛子が結衣を盾に自分を牽制しようとしているのだと思い、胸にわだかまりを感じつつも、自らも多額の投資を行った。
この知らせが広まると、結衣の会社は引く手あまたの存在となった。
一方、鈴木一郎はオフィスの招き猫の置物を叩き割った。愛子は自分から取り戻した配当金を他人の投資に使いながら、鈴木グループの救済を拒んだのだ。
彼はスマホを見つめ、ふと狡猾な笑みを浮かべた。愛子を利用して健太を繋ぎ止め、前田商事に鈴木グループの再建を手伝わせる手があるかもしれない。
別の場所では、愛子が喫茶店で富田茜と会っていた。
茜は富田航平の従姉で、かつて富田グループの広報部長を務め、人脈の広さで知られる人物だ。
「茜さん、お願いです。あの記者を調べてください。あの時、私の写真を暴露した人物を」愛子の口調は切実だった。
茜はため息をついた。
「あなたは今、幸せそうじゃない?健太社長も大切にしているし、過去を掘り返す必要があるの?」
「引きずっているわけじゃない。前に進むために必要なの」愛子の瞳は固く据わっていた。
茜は最後まで諦めなかった。「手伝いましょう。昨夜の富田まどかの無礼への詫びということで」
愛子が去った後、痩せた人影が個室に入り、彼女が座っていた席に腰を下ろした。
その男は彼女が使ったコーヒーカップの縁を撫でながら、青ざめた顔にほのかな笑みを浮かべた。
「次から次へと調べたがって、真相がわかったところで何になるの?」茜は呆れたように言った。
男は答えず、愛子と同じコーヒーを注文すると、彼女のカップにそっと触れながらゆっくりと飲み干した。
茜は視線を外した。
「愛子さんを助けたんだから、まどかのあの愚か者を見逃してもらえるわね?」
「次はない」男の声はかすれていた。
「また愚行を繰り返せば、誰の顔も立てない」