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第8話 暗流の動き


指がだるくなるほど抱きしめた後、前田愛子は健太の腕から離れた。

「これで気は済んだ?」健太は腰に手を当てながら苦笑いした。

「もし結衣をいじめるようなことがあったら、一生あなたとは口をきかないから」愛子は顔を背けた。

健太は彼女の鼻先を甘やかすようにつまんだ。


「脅かしただけだって説明しただろう?彼女のプロジェクトには手を出さないとも約束した」


愛子は眉をひそめて渡辺結衣の方を見た。うなずくのを確認してようやく口調を和らげた。「私には聞こえないんだから、誰に言ってるのよ?」

健太は彼女の生き生きとした表情をじっと見つめ、心のわだかまりが次第に消えていった。

先ほど届いた知らせに彼は飛び起き、愛子の心療内科医に連絡して聴力回復の可能性を聞かされ、青くなって駆けつけたのだ。


だが今の彼女の反応は、まったく耳が聞こえない様子そのものだった。


「悪かった」彼は声を柔らげた。「家に帰ろう。罰は何でも受け入れるから」

「帰らない!」愛子は結衣の手を引いてタクシーに飛び乗り、彼女の自宅へ向かった。

健太は仕方なく後を追い、二人の部屋の明かりが灯るのを確認してようやく立ち去った。

誰も気づかない路地裏で、黒のレクサスが静かに佇んでいた。

車内の人物は明るい窓を見つめたまま、微動だにしなかった。


「前田社長、あなたを怪しんでいたんじゃない?」風呂から出てきた結衣が尋ねた。

「さっきまでは疑ってたかもしれないけど、今は大丈夫」愛子は唇を尖らせた。「でも彼は鋭すぎる。計画を急がないと」

結衣は憂いを帯びた表情で言った。「彼の影響力を考えると、本人が承諾しない限りあなたが無事に逃げ切れるとは思えない。たとえ前田さやかさんとの写真を手に入れても、命取りになるだけよ」

しかし愛子には独自の思惑があった。「承諾しなければ、追い込んで承諾させる。前田家では祖母以外は私との結婚に反対だし、そもそも問題の根元はさやかさんにあるんだから」

彼女は男性モデルたちの言葉を思い出した。さやかは征服欲を楽しんでいるだけかもしれない。その欲求を健太に向けさせたらどうなるか…

愛子の笑い声を聞きながら、結衣はなぜか健太が災難に遭う気がしてならなかった。


「ところであなたの投資案件、どうなってる?」愛子が突然尋ねた。

「いくつか話はあるけど、条件が厳しすぎて」結衣はため息をついた。

「私が個人で出資するってのはどう?あなたのAIプロジェクト、興味あるし運営にも口出ししないから」

結衣は断ろうとしたが、「まさかプロジェクトに自信がないんじゃないでしょうね」という言葉に押され、承諾してしまった。


翌日、健太は愛子が渡辺結衣に出資したことを知った。

彼は愛子が結衣を盾に自分を牽制しようとしているのだと思い、胸にわだかまりを感じつつも、自らも多額の投資を行った。

この知らせが広まると、結衣の会社は引く手あまたの存在となった。

一方、鈴木一郎はオフィスの招き猫の置物を叩き割った。愛子は自分から取り戻した配当金を他人の投資に使いながら、鈴木グループの救済を拒んだのだ。

彼はスマホを見つめ、ふと狡猾な笑みを浮かべた。愛子を利用して健太を繋ぎ止め、前田商事に鈴木グループの再建を手伝わせる手があるかもしれない。


別の場所では、愛子が喫茶店で富田茜と会っていた。

茜は富田航平の従姉で、かつて富田グループの広報部長を務め、人脈の広さで知られる人物だ。

「茜さん、お願いです。あの記者を調べてください。あの時、私の写真を暴露した人物を」愛子の口調は切実だった。


茜はため息をついた。


「あなたは今、幸せそうじゃない?健太社長も大切にしているし、過去を掘り返す必要があるの?」


「引きずっているわけじゃない。前に進むために必要なの」愛子の瞳は固く据わっていた。

茜は最後まで諦めなかった。「手伝いましょう。昨夜の富田まどかの無礼への詫びということで」


愛子が去った後、痩せた人影が個室に入り、彼女が座っていた席に腰を下ろした。

その男は彼女が使ったコーヒーカップの縁を撫でながら、青ざめた顔にほのかな笑みを浮かべた。


「次から次へと調べたがって、真相がわかったところで何になるの?」茜は呆れたように言った。

男は答えず、愛子と同じコーヒーを注文すると、彼女のカップにそっと触れながらゆっくりと飲み干した。


茜は視線を外した。


「愛子さんを助けたんだから、まどかのあの愚か者を見逃してもらえるわね?」


「次はない」男の声はかすれていた。


「また愚行を繰り返せば、誰の顔も立てない」


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