前田愛子が鈴木家へ向かう途中、携帯に鈴木一郎からのメッセージが届いた。
「帰って食事を」――思いがけない誘いに、愛子は眉をひそめた。
前田健太と結婚して以来、彼女は鈴木家の敷居を跨いだことがなかった。
一郎も彼女のわだかまりを察していたはずだ。健太の威光を借りて近づこうとしながらも、自ら家に呼ぶことはなかった。なぜ今?
「わかった」愛子は短く返信した。
健太に疑念を抱かれる前に、自分の手に戻さねばならない――会社の株式を。
世田谷の高級住宅街に夕陽が沈みかける頃、愛子は目的地に着いた。青桐の木々に囲まれた白亜の一戸建ては、見慣れたようでいてどこか違っていた。彫刻を施した鉄門の前で顔認証システムに阻まれると、愛子は無表情でインターホンを押した。
現れたのは一郎の現在の妻・鈴木美沙子だった。
「愛子ちゃん、待ってたわ!」彼女の笑顔は熱烈だった。
五年前、陰で中傷して一郎を焚きつけ、愛子を部屋に閉じ込めて使用人に蛇や虫を放たせた張本人が、今さら何の芝居か。
愛子は呆れたように天を仰いだ。
「社長もいないのに、よくそんな熱演できるわね。見てて疲れるわ」
かつては幼く、母性を渇望していたから美沙子の偽善に騙された。母を亡くした自分を哀れんでくれていると、愚かにも身内と思い込んでいたのだ。
真実を知ったのは、トラブル後に一郎と対立した時だった。美沙子は慰めを装いながら、株式の名義書換委任状にサインさせて一郎に取り入り、使用人に自分をいじめさせていたのを耳にしたのだ。
前回のレストランでは一郎に集中していたが、今回はこうして近づいてくるなら遠慮は無用だ。
美沙子の笑顔が凍りついた。拳を握りしめながらかろうじて平静を装うと、口を開こうとした瞬間――
「ふっ」愛子は冷笑を残して勝手に屋内へ踏み込んだ。
外観以上に内装は様変わりしていた。彼女の旧居は使用人部屋に、母の書斎は物置になっている。
「母の書斎は誰の許可で? 中の物は?」愛子が美沙子に詰め寄ると、そこへ帰宅した鈴木俊之が駆けつけた。
「邪魔だ!」俊之に押され、愛子はよろめいた。
「五年前の恥さらしが、よくまあ帰ってこられたな! それで母を罵るとは?」
「俊之! 姉に向かって何て口の利き方!」
「母さんはまだかばうのか? あれは恩知らずの餓鬼だ! 母さんがあれだけ尽くしたのに、あの事件後は逆に噛みついたじゃないか!」
愛子の笑い声が響いた。
「何が可笑しい!」
「芝居に夢中な人と、是非も弁えぬ人。なかなか面白い舞台ね」
俊之の拳が振り上げられた刹那、「やめろ!」と一郎の怒声が玄関に響いた。
一瞥で俊之を制すると、一郎は愛子へ歩み寄った。
「ようやく帰って来てくれたな。前田社長は?」
「旦那を連れてきたら、皆さん落ち着いて食事できませんでしょう?」
「家族の食事がどうして落ち着かない?」
「株式の確認と、母の形見を受け取りに来たの」
愛子の口調に親への敬意は微塵もなかった。
「それは食後で」
「では今すぐ旦那を呼んで、形見の件を相談してもらいましょうか?」
「……」一郎は舌打ちした。権力を笠に着るのが大嫌いだった娘が、今や完璧に使いこなしている。
「…形見とは具体的に何だ?」
母が急逝した際、株式は信託されていたが他の品々には何の記録もなかった。証拠がないのをいいことに一郎は意地悪な質問をしたのだ。
しかし愛子は淡々と列挙した。骨董、絵画、宝飾品、果ては不動産まで――全て母が形見と定めた品々だった。五歳の時、母が翡翠のネックレスを「私の形見よ。いつかあなたに渡す」と言ってかけてくれた記憶が蘇る。他の形見も母が一つ一つ見せてくれたのだ。
一郎が否定しようとした瞬間、愛子が呟いた。
「母の結婚時には形見の目録があったはず。古いけど、探せば出てくるでしょう?」
実際には彼女が挙げた以上に品々はあった。鈴木家から逃れるように健太に嫁いだ当時、形見のことなど考える余裕はなかったのだ。物置と化した書斎を見るまで、すっかり忘れていた。
一郎の顔が歪んだ。先日健太が配当金を要求してきた恐怖が蘇る。
「…美沙子、品々を探して渡せ」歯を食いしばって命じた。
美沙子が悔しそうに去っていく中、一郎は低姿勢で言った。
「あの時は傷つけたかもしれん。だが父親にも事情があった。血は繋がっているのだから」
愛子はうなずくと、突然掌を差し出した。
「…これは?」
「傷つけたなら、償いは当然でしょう?」
一郎は息を詰まらせた。
「株式を返す代わりに、重要事項は私と合意するという誓約書にサインしてはどうか?」その口調には強制力が滲んでいた。
愛子は目を細めた。
「考えておくわ。でもこれで償いにはならないわね?」
一郎は追加の餌を投げた。
「君にポストを用意しよう。業務に慣れたら誓約書は無効にする」
「どのポスト?」
「…マーケティング部のマネージャーだ」
一郎の腹積もりは明らかだった。娘の業績向上に前田健太が協力するだろうと。
その言葉を聞いた玄関の鈴木さくらは青ざめた。彼女は二年かけてようやく課長に昇進したというのに、何の実績もない愛子が突然マネージャーに?
「姉さん、しっかりサポートしますから」笑顔でそう言うさくらの偽りの態度に、愛子は興味を引かれた。
かつて痩せた小柄なさくらを気の毒に思い、妹のように可愛がってきた。だがさくらは内心「鈴木家の令嬢として当然のものをもらうのに、お前の『譲り』など要らない」と憎んでいた。
後にさくらも一郎の実子だと知り、騙され続けてきたことに気づいたのだ。
ふと五年前のあの夜を思い出した。疲れていた彼女は富田航平に会うつもりはなかった。さくらが強く勧めたから出かけたのだ。
もしかすると、あの事件にはさくらも――?