前田愛子が鈴木さくらを一瞥すると、しぶしぶ言った。「わかった、まずはこれで。ところで、マネージャーって年俸制だったよね?」
鈴木一郎がほっとしたように年俸額を告げた。
その言葉に鈴木さくらの目が充血し、感情を抑えきれそうになった。
必死の思いで掴んだチャンスが、愛子の口からは「まずはこれで」と言い捨てられるとは。
しかも実務経験のない愛子の年俸が、自分の三倍だ。
納得できるはずがない。
愛子はさくらの表情に気づき、眉を上げて問いかけた。「さくらさん、不服そうだけど?」
一郎が即座にさくらを見た。
さくらは無理に笑顔を作り出した。「愛子さんはもともと会社の株をお持ちですし、副社長に就かれるのも当然です。マネージャー職ごときで、私が不服を持つはずがありません」
彼女は一郎が愛子の持つ株式を最も気にしていることを知っていた。
愛子がそれを盾に騒ぎ立てるのを警戒し、わざと株の話を持ち出したのだ。
案の定、一郎はその言葉に一瞬、不快感を滲ませた。
「ごもっとも」愛子は口元を上げて一郎を見た。「マーケティング部マネージャーでは軽すぎる。私は副社長になる」
さくらは声も出なかった。
まさか愛子がこんな要求を突きつけるとは!
愛子は腕を組み、余裕たっぷりに二人を見据えた。「重要な決裁は鈴木社長と一致させます。この副社長は名目だけのものですから」
これは確約書に署名する意思表明か?
一郎の心が動き、やむなく承諾した。
愛子が一郎に続いて書斎へ向かう途中、さくらの横を通り過ぎた時、二人だけに聞こえる声で言った。「さくらさん、五年前に私から奪ったもの、返してもらうわよ」
その言葉が終わるやいなや、さくらの顔色が一瞬で青ざめ、目尻に一瞬だけ狼狽と恐怖が走った。
まさか五年前のことを愛子が知っているのか?
さくらはすぐに平静を取り戻そうとしたが、その一瞬の動揺は愛子に見逃されていなかった。
愛子は確信した。五年前の件に、さくらが深く関わっていることを。
しかし今日は母の形見を受け取るのが主目的。彼女を追及する時間はない。機会はいくらでもある。
夕食前、鈴木美沙子は愛子が要求した品々を探し出し、鈴木家の半分を空にするほど持ち出してきた。
「まだ巨匠の真筆四幅と骨董の陶磁器六点が足りないわ」愛子は一瞥しただけで指摘した。
美沙子が慌てて一郎に助けを求める視線を送った。
これらは全て一郎が人脈作りに贈ってしまった品々だ。
一郎は顔を曇らせ、歯を食いしばって言った。「現金で弁償する」
愛子はゆったりと言った。「四億円で」
美沙子が思わず叫んだ。「そんな大金、ありえません!」
愛子は彼女を一瞥し、「ああ、そういえば翡翠のネックレスも一本足りてないわね。追加で一億六千万円ちょうだい」
一郎が怪訝そうに美沙子を見た。
あのネックレスは亡き妻が最も大切にしていた品だと彼は知っていた。
美沙子はうつむき、一言も返せなかった。
あのネックレスは彼女が先日、急な出費に困り、こっそり売り払ってしまったものだ。
まさか愛子が突然要求してくるとは。
「今すぐそれだけの現金はない」一郎は情に訴えかけようとした。「家族同士がこんなに細かく計算する必要はない。気まずくなるだけだ。今後、良い品が入ったら埋め合わせするよ」
愛子の態度は固かった。「口約束は受け入れられません。お金がないなら、借用書を書いて頂く」
傍らで聞いていた鈴木俊之が我慢ならず怒鳴った。「そんな被害者ぶった態度を取るな!お前の言ってる物の真偽も分からんのに、たかりに来たんじゃないのか!」
美沙子の目が一瞬輝き、一郎を見つめた。
一郎は目を伏せ、迷うような表情を浮かべた。
彼は愛子を通じて前田健太に繋がりたかったが、これほど大金を払うつもりはなく、すでに愛子には十分与えたと思っていた。
「たかが五億六千万円、私の妻がたかりに走るほど落ちぶれてはいない」冷たくも威圧的な男声が突然玄関から響いた。
一郎は驚きと共に顔を上げ、すぐに駆け寄った。「前田社長、ようこそお越しくださいました!」
前田健太は冷たく言った。「来なければ、鈴木社長が私の妻にどんな罪を着せるか分からなかった」
一郎は慌てて説明した。「全て誤解です、全くの誤解で」
彼は振り返り、美沙子とさくらにしきりに目配せした。
美沙子が口を開こうとした瞬間、愛子が先に笑いながら尋ねた。「鈴木社長、目がお悪いのですか?ずっと瞬きしていらっしゃいますよ」
健太はそれに乗るように言った。「明日医者を手配して鈴木社長を診てもらいましょう」
一郎は「……」
借用書を無事に受け取った愛子は、夕食に残った。
一郎は親子の情を演出しようと、進んで愛子に料理を取ってやった。
だが愛子はそれを皿の隅に寄せた。
父の愛を渇望する年齢はとっくに過ぎていた。
一郎は彼女が食事に残ったのは自分に心を動かされたからだと思っていたが、面子を潰されるとは思わず、健太を前に我慢するしかなかった。
彼は笑顔で健太に、株式を愛子に返還し、副社長として迎え入れるつもりだと話した。
健太は一瞬で彼の魂胆を見抜き、愛子の方を見て尋ねた。「本当にその副社長になりたいのか?」
彼の目には、愛子は気が弱く、実務経験もない。ヘッドハンティングされた副社長は、自分の庇護がなければ間違いなくいじめられると思えた。
「鈴木社長がそこまでおっしゃるなら、断れませんね」愛子はわざと困ったような表情を浮かべながら、一郎が取ってやった魚の切り身をぐちゃぐちゃに崩しながら言った。「あなたの顔を立てて、鈴木社長が私を気にかけてくれるでしょうから」
一言で、一郎が彼女を利用して健太に取り入ろうとしていることを暴いてみせた。
健太は意外そうだった。
利用されると分かっていながら、なぜ副社長になろうとするのか?彼女はいったい何を企んでいる?
健太は心の中で考えを巡らせながら、一郎にうなずいた。「今後は鈴木社長のご配慮をお願いします」
一郎は笑いながら言った。「愛子は私の娘です。前田社長、ご心配なく」
健太に特に異変がないのを見て、彼はここぞとばかりに尋ねた。「前田商事が新航路を開発なさると伺いましたが、前田商事とご協力いただくには、どのような条件が必要でしょうか?」
鈴木家は家具の貿易を手がけている。前田商事の航路に乗ることができれば、物流コストを大幅に削減でき、前田商事の影響力を借りて海外市場を開拓することも可能だった。
健太は愛子の目の前にある、ぐちゃぐちゃにされた魚の入った小皿をどけ、ちょうど骨を取り除いた身を彼女の茶碗に取ってやり、それからゆっくりと言った。「愛子が就任したら、彼女に私と話させてください」
これは明らかにこの利益を愛子に与えるつもりだった。
一郎は内心不満だったが、笑顔で応じるしかなかった。「問題ありません。愛子に手柄を立てさせれば、会社での立場も強固になりますから」
食事が終わり、健太が手配した人々も到着した。
愛子が取り戻した母の形見が次々と車に積まれるのを見ながら、一郎はようやく後悔が込み上げてきたが、健太の面前で反故にはできなかった。
鬱憤のはけ口もなく、全てを美沙子とさくらにぶつけるしかなかった。一人は物を隠すこともできず、もう一人は余計な口を利くから、これほどの損をしたのだ、と。
闇の中、黒のロールスロイスが静かに世田谷の高級住宅街を離れていった。
「どうして来たの?」助手席に座った愛子は限定版のピンクベアを弄びながら、分かっていてわざと尋ねた。
彼女は健太に鈴木家に戻ることを告げていなかった。
健太の長い指がハンドルに触れた。「鈴木社長が秘書に電話して、君が今夜実家で食事すると。いじめられないか心配で、力になりたくて来たんだ」
彼は少し間を置き、慎み深く尋ねた。「来たのが嫌だったか?」
愛子の視線が彼の指から手首へと移り、ゆっくりと言った。「私は五年前の前田愛子じゃない。いじめられてもやり返せる」
健太は少し驚き、彼女を一瞥した。真剣な表情を見て、笑みを浮かべた。「愛子も大きくなった、勇敢になったんだな」
愛子は自嘲気味に笑った。「そうね、今は自分を守れる勇士になったんだから」
ある種の成長は、強制されたものだった。
あれらの出来事を経験し、成長せざるを得なかったのだ。
車内の薄暗い光の中、健太は彼女の表情の異変に気づかず、冗談めかして言った。「愛子勇士、仕事のアシスタントを手配しようか?」