客室で身支度を済ませた愛子が階下へ降りると、健太はすでにダイニングテーブルに着き、タブレットでニュースを流し見ていた。
窓から差し込む朝日が彼の輪郭を淡い金色に縁取り、髪の一本一本が輝いているように見える。
愛子が近づくか躊躇っていると、健太は彼女の存在を感知したかのように視線をぴたりと合わせた。
彼は愛子の心の内を見透かしたように眉をわずかにひそめ、手招きした。「朝食を食べなさい」
「お腹空いてない」愛子は即座に返した。彼のそばに行くのは心底嫌だった。
健太がタブレットを置くと、口元がほころんだ。「じゃあ僕がおぶって行こうか?」
「誰があなたに抱っこしてもらいたいって言った?」愛子は苛立った口調で言い返した。
言い争うよりも抱きかかえられる方がましだと悟り、彼女はすごすごと歩み寄ると、わざと健太から最も離れた席に座った。
健太は苦笑いを浮かべると、彼女の隣に移動して腰を下ろした。「今日は仕事休んだから、遊びに連れて行ってあげる。箱根の温泉宿、どう?」
二人の席替えを見た使用人がさっと朝食を運び、静かに下がっていく。
愛子がフォークを握りしめると、目玉焼きをぐさりと刺した。黄金の黄身が白い皿の上に流れ出し、無言の抗議のようだった。
「そんなに怒ると体に毒だよ」健太はそっと彼女の手首を握り、指先で撫でながら自分の皿と交換した。「どうしたら機嫌を直してくれる?」
愛子は手を振りほどくと、含み笑いを浮かべた。「昨夜言ったでしょ、さやかに謝らせてよ」
「あの子の性格知ってるだろう?」健太の眉間に皺が寄った。「あいつに謝れってのは死ぬよりつらいことなんだ」
愛子はわざと難癖をつけていただけだったが、その言葉に烈火のごとく怒りが爆発した。「だったら死ねばいいのに」
健太の表情がたちまち曇った。「今なんて言った?」
「言ってやるわ」愛子は顎を上げ、健太の冷たく危険な漆黒の瞳をまっすぐ見据えた。「さ・や・か・が・死・ね・ば・い・い・わ」
健太が猛然と立ち上がると、両手をテーブルに突き刺すように置いた。机の縁を握る指先が力の限り白く変色し、顔面は血の気が引いている。まるで愛子がとんでもない呪いの言葉を吐いたかのようだった。
たかがさやかを罵っただけで、そんなに動揺するのか?愛子は内心で嘲笑った。健太の冷たい視線に晒され、手足がじんじんと冷たくなっていく。
彼女は腕を組んで背もたれに寄りかかり、それでも健太と無言の睨み合いを続けた。
自分の忍耐力を見誤っていたと悟った。このままでは三ヶ月も持たず、健太とは完全に決裂してしまうだろう。
「...食事が済んだら、箱根の温泉宿に連れて行く」健太がゆっくりと息を吐き出した。「前から行きたいって言ってたろ?」
愛子は唇を結び、返事をしなかった。
確かに以前箱根に行きたいと言ったことがある。だがそれは、さやかが健太と訪れた温泉宿をSNSで自慢していたのを見て、悔しさに駆られたからだった。健太はいつも仕事を理由に先延ばしにしていた。
行きたくないという言葉が喉まで出かかったが、愛子は飲み込んだ。さやかに健太への征服欲を抱かせたいのなら、行くしかない。
箱根の温泉宿は都会の喧騒から遠く離れ、山紫水明の自然が美しく広がっていた。
車中、健太は終始愛子の機嫌を取ろうとした。
愛子も程々に応じ、降車する頃には薄笑いを浮かべていた。この後健太と休暇の写真を撮るのだから、不機嫌な顔のままではさやかを刺激できない。ただし健太を許したとは一言も言わなかった。
自然は確かに心を癒す妙薬だった。
四月の陽気の中、咲き乱れる花、舞う蝶、鶯の囀り、せせらぎの音——春爛漫の風景の全てが生命力に満ち溢れていた。
午前中をかけてリゾート内を散策するうち、愛子の心も次第にほぐれ、暗雲が晴れたような爽快感が広がった。
愛子の気分が明らかに好転したのを見て、健太は久々に笑みを浮かべ、胸をなで下ろすと同時に密かな後悔が胸をよぎった。
心理カウンセラーが「自然の中でエネルギーを交換することがトラウマ克服に有効だ」と助言していたのを思い出した。彼女を連れ出すのはずいぶん久しぶりだ。もっと一緒に過ごすべきだろう。
昼食を観光地の名物店で済ませた後、健太は愛子を宿泊先のホテルへ案内した。
エレベーターが降りてきた時、愛子は何気なく顔を上げると、中にいる男女を見て表情をわずかに硬くした。
エレベーターから現れた上品な婦人は気品にあふれていたが、隣に立つ若い男はどこか不良めいた雰囲気を漂わせている。シンプルな白いシャツに黒のパンツという装いだが、奔放な気質は隠せない。特に印象深いのは深窓の桃尻目で、一挙手一投足が孔雀が羽を広げるように魅惑的だった。
あの夜、渡辺結衣がクラブで呼んだホストの一人だ。まさかリゾート地まで営業範囲を広げているとは?
隣の婦人は若々しく見えたが、少なくとも二十歳は年上だろう。選り好みしないんだな。それなのに、なぜさやかは断られたのだろう?
あの夜は何もしていないが、白昼の下で彼を見かけると穴があったら入りたい気持ちになり、愛子は思わず健太の影に隠れた。
ところが男は愛子に向かって会釈すると、わざとらしくウインクして婦人の腕を組み、すれ違っていった。
「知り合いか?」驚いた小鳥のような愛子を見て、健太は親子ほど年の離れた男女を振り返りながら眉をひそめた。
あまりにも際立った男の風貌に、一抹の危機感がよぎる。
愛子は慌てて首を振った。
健太は言いかけてやめた。ようやく持ち直した雰囲気を壊したくなかったのだ。知りたければ彼女から聞き出す以外の方法もある。
客室に入ると、愛子は昼寝をせず、健太が仕事の電話をしている隙にバルコニーのチェアに座り、今日の最重要任務——SNSへの投稿に取りかかった。
厳選した九枚の写真を軽く編集し、公開設定で投稿した。
『長い人生には数えきれないほどの景色がある
一つの風景を逃しても、次の出会いは必ず訪れる
でも本当に美しいのは
あなたと手を繋いで分かち合う瞬間』
自分でも甘ったるいと感じる文章に、健太とのツーショットや手をつないだ写真、自分のソロショット、風景写真を添え、位置情報も明記した。
五年前のあの事件でSNSを全削除して以来、初めて自身の名で発信した投稿だった。
健太が電話を切る頃には、投稿には既に多数の「いいね!」とコメントが並んでいた。
渡辺結衣:『このラブラブぶり...』
疾風:『噂に聞く前田社長の妻寵、伊達じゃないですね』
芳菲:『ご無沙汰。元気そうで何よりよ』
...
愛子がスマホを見つめて楽しげに笑っているのを見て、健太は揺り椅子の前にしゃがみ込みながら尋ねた。「何がそんなに楽しいんだ?」
愛子はスマホをくるりと反転させ、自身の投稿画面を見せた。
「今朝の暴言を許してほしいなら、この投稿をあなたのタイムラインにシェアして」背もたれにもたれながら、わがままな口調で言い放った。
健太は画面を一瞥すると、「一つの風景を逃しても」の文言で目が止まった。
彼女と富田航平は幼なじみで、自分よりも深い絆で結ばれていた。あの事件の後、航平に裏切られた彼女は見事に彼を忘れた。もし自分の秘密がバレたら...
彼女もまたあのようにさっぱりと手を放し、次の景色を探しに去って行くのだろうか?
健太の胸がざくりと痛んだ。考え続けるのが怖かった。
愛子を深く見つめると、彼はうつむいてスマホを操作し始めた。
一分も経たないうちに、愛子がタイムラインを更新すると健太のシェア投稿が表示され、思わず息をのんだ。
健太はこれまでプライベートをSNSに投稿したことがなかった。彼が拒否するだろうと予想し、その後に「いいね!」かコメントを求めるつもりだったのだ。
まさか健太が、彼女のために初めての例外を作るとは!