箱根の温泉リゾートは都心から遠く、観光客はほとんど自家用車利用のためタクシーはほとんど通らず、配車アプリでもドライバーが見つからない。こんな状況でなければ、前田愛子もホテルのフロントに頼むことはなかっただろう。人に借りを作るのが一番負担だったからだ。
「都心まで、いくら?」彼女は単刀直入に聞いた。
男は少し考え込んでから、探りを入れるように値段を提示した。「5万円?」
法外な値段。やはり金に困っているんだ。
「わかった」愛子は覚悟を決め、後部座席のドアを開けて乗り込んだ。
車は静かに発進した。
愛子は高級な本革シートにもたれながら、車内をさりげなく観察した。異常なほど整理整頓された車内には、甘く上品なクチナシの香りが漂い、心を落ち着かせる。この懐かしい香りに少し驚いた。彼が自分と同じ花の香りを好むとは。
片手でハンドルを操作しながら、男は振り返らずにミネラルウォーターを差し出し、ルームミラー越しにちらりと愛子を見た。「前田さん、車内の環境はご満足いただけてますか?」
「ええ」愛子は平静を装って水を受け取り、「ありがとう」と答えた。覗き見がバレたような気後れを感じ、そっとペットボトルを握りしめた。
男はその小さな動作を見逃さず、口元を楽しそうに緩めた。
愛子は少し居心地の悪さを感じ、窓の外を見た。通り過ぎる木々と街灯が猛スピードで後退し、入り乱れる光と影が、まるで牙を剥く怪物のようなまだらな木陰を作り出していた。不安が静かに湧き上がり、彼女はスマホを取り出して渡辺結衣と位置情報を共有した。
結衣:「???」
愛子:「法外な値段の白タクに乗った」
結衣:「ケン太のクソ野郎は?」
愛子:「妹とロマンチックディナー中よ」
結衣:「なんでまだ爆発しないの?」
愛子:「同感。代わりに聞いてみる?」
結衣:「……」
結衣:「どんだけリッチなの?運転手さんが超イケメンとか?」
愛子:「ベントレー。ナンバーイレブン」
結衣は「ナンバーイレブン」を丸囲みして、疑問符の連続を送ってきた。
愛子:「あのバーの人」
結衣は驚愕のスタンプを送ってきた。愛子は自分もさっき同じような表情をしていただろうと思った。
結衣:「ナンバーイレブンがベントレー?それにたまたま愛子が乗る?」
愛子:「偶然がなければ物語は作れない」
結衣:「落としなよ!ケン太に浮気されたなら、緑の帽子を編んで返してやればいい!」
愛子:「提案ありがとう。次はやめて」犬に噛まれたからといって、噛み返す必要がある?犬を懲らしめる方法はたくさんある。自分を不快にさせることはない。
愛子が素早く返信していると、運転する中村拓真がだるそうに電話に出た。
「踏んだ跡は必ず残るものだ。十年経っても変わらない」
「君は依頼するだけでいい。どう調べるかは私の仕事だ」
「私の能力を疑ってる?半年前に大阪であの事件が覆った決定的証拠は、私が掘り起こしたんだ」
愛子の指が止まり、思わず耳を澄ました。しかし電話は突然切れた。
愛子:「……」彼女は我慢できずに自ら口を開いた。「探偵のアルバイトもしてるの?」
中村は振り返らず、淡々と「ああ」と答えた。
愛子は少し躊躇してから詰め寄った。「大阪の事件の決定的証拠、本当にあなたが見つけたの?」十年前、大阪で起きた新婚夫婦惨殺事件。未成年三人が死緩判決を受けたが、その一人は一貫して無実を主張。証拠不足と仲間の証言で再審請求は却下されていたが、半年前に家族が決定的証拠を発見し、真犯人が別人であることを証明した事件だった。
中村は運転に集中しながら、好奇心旺盛な乗客の質問に答えた。「あの夜は流星群だった。天文マニアの録画から、三人目の影を見つけたんだ」少し間を置いて付け加えた。「事実が存在するなら、それを証明する証拠の連鎖が必ずある」
少し回りくどい説明だったが、愛子には理解できた。起こったことは必ず痕跡を残すのだと。
彼女はスマホを握りしめた。「ナンバーイレブン、お願いがあるんだけど」
「ナンバーイレブン?」男は含み笑いを浮かべた。「私は中村拓真だ」
愛子は我に返り、緊張のあまり彼のコードネームを呼んでしまったことに気づいた。「中村弁護士さん、失礼しました」頬がほんのり熱くなった。
中村は軽く笑った。「構わないよ。何を調べてほしい?」そして付け加えた。「私は高いよ」
愛子は銀行の残高を頭の中で計算しながら答えた。「五年前の、ある人物の行動を調べてほしい」
中村:「それだけ?」牛刀をもって鶏を割くような、もったいないというニュアンスが込められていた。
愛子:「もしそれが見つかれば、次をお願いしたい」彼の実力を探りたかった。もし前田健太に気づかれずに重要な時間帯の行動を調べられるなら、五年前の真実を深掘りしてほしいと依頼するつもりだった。
中村:「基本料金十万円。難易度によって追加料金」つまり、単なる行動調査でも最低十万円かかるということだ。
愛子は承諾した。「問題ない。調べられるなら」
中村は路肩に停車し、真剣な表情で彼女を見た。「確かなのか?」
愛子は固い眼差しでうなずいた。
中村はスマホを取り出し、QRコードを表示した。「追加して。手付金は二万円」
そんなに急?愛子は疑念を抱いたが、賭けてみる決心をした。コードをスキャンして追加し、二万円を振り込んだ。
中村は即座に受領し、尋ねた。「誰を?具体的な時期は」
愛子は声を潜めて言った。「前田健太。五年前の1月3日から5日までの行動」彼女は中村拓真を凝視し、微細な表情の変化も見逃さなかった。
中村は爽やかに笑った。「前田さんが潔いから、優先対応するよ。結果は五日以内に出そう」
愛子は驚いてすぐに付け加えた。「絶対に彼に気づかせないで」
中村はわずかに眉をひそめた。「私のプロ意識を信じてくれ」
車は再び発進し、都心へと疾走した。
愛子が告げたのは渡辺結衣の家の住所だった。港区ヒルズには戻りたくなかった。前田健太にも会いたくなかった。そろそろ自分の住まいを探し、離婚の準備を始める時期かもしれない。母の形見の品の中に、いくつかの不動産があった。
ちょうど物件を見に行く時間を作ろうと考えていた時、前田健太からのメッセージが届いた:
「どこ?ホテルは君が出て行ったと言ってたぞ」
「ホテルが手配した車じゃないだろ!すぐに位置情報を送れ!」
「運転手に悟られずに待ってろ!」
愛子は眉をひそめ、車を運転する中村拓真を怪しそうに見た。ホテルが手配した車じゃない?彼女はそっとカバンに手を伸ばし、アルミ製の女性用护身スプレーに触れた。胸が高鳴った。五年前のあの事件以来、これは彼女の外出時の必須アイテムになっていた。目の前の男は悪人には見えなかったが、人は見かけによらない……