車が都心に入り、確かに渡辺結衣の家の方角へ向かっていると確認できた時、初めて前田愛子は胸のつかえが緩んだ。前田健太の一言で中村拓真を疑ってしまった自分に、少し後ろめたさを覚えた。
降車時、彼女はわざと千円余計に渡金した。
振込額を見た中村拓真は眉を上げ、一瞬驚きの色を浮かべると、からかいを含んだ笑みを浮かべた。
「前田さん、私のサービスにご満足いただけたようですね?」軽く揶揄する声。
愛子は覚悟を決めて褒めた。「運転が安定していて、余計な話もしない。良かったわ」賠償でもチップでも、そう解釈してくれればいい。
中村は爽やかに受領し笑った。「前田さん、私は副業が多いんです。ご用があれば、いつでもご連絡を」
愛子:「五日後、中村弁護士には満足のいく回答をいただきたいものです」顧客を繋ぎ止めたければ、まず実力を見せてもらわねば。
中村は自信たっぷりに顎を上げた。「お任せください」
愛子が礼を述れ降車すると、一台の黒いロールスロイスが猛然と加速し、ベンツの前に急停車した。
ドアが跳ね開き、冷気をまとった前田健太が飛び出し、愛子の前に駆け寄ると彼女の両肩を掴んだ。焦燥に満ちた視線が彼女の全身を走った。
「無事か?」低い声に切迫感が滲む。
愛子が顔を上げると、漆黒の瞳に溢れんばかりの心配が詰まっていた。
彼女の口元がゆっくりと緩み、冷たい笑みが浮かんだ。「離れたくらいで、私が家に帰れないとでも?」この心配顔は誰に見せるつもり? リゾートに置き去りにして前田さやかとの食事を優先し、約束を破ったのは健太自身だろう。もし彼女に何かあれば、むしろ喜ぶはずでは? 芝居も不要になり、さやかと富田航平の邪魔もされずに済むのだから。それとも、さやかへの歪んだ感情を隠す盾を失うのが心配なのか?
愛子はゆっくりと手を上げ、肩にかかった彼の手を払いのけ、二歩下がって距離を取った。
「前田健太」彼女の目は氷のように冷たく、声は淡々としていた。「しばらく離れて暮らしましょう」離婚という言葉が舌の上で転がったが、最後に言い換えた。
健太のまぶたがぴくっと動き、手を伸ばそうとしたが振りほどかれた。
「愛子、迎えが遅れて悪かった。許してくれ」声を潜めて詫びた。
愛子は無視し、くるりと背を向けた。
健太が追おうとしたが、マンションの警備員に阻まれ、夜色に消える細い後姿をただ見送るしかなかった。
険しい表情で車に戻ると、補佐役に電話をかけた。「今すぐ、マンションを買え」物件名を告げ、「妻の名義で。場所は妻の友人・渡辺結衣宅にできるだけ近いところを」
指示を終えると、健太はベンツの前に歩み寄った。彼のロールスロイスが道を塞ぎ、ベンツの進路を断っている。運転席の窓をコツンと叩いた。
窓が下り、中村拓真の含み笑いを浮かべた整いすぎた顔が現れた。
その面影を見た健太は思わず眉をひそめた。どこかで見覚えがある!
「お前は何者だ?」健太の声は冷たく沈んでいた。「ホテルの運転手を気絶させたのか? 偽って妻に近づく目的は?」
「質問が多いね」中村の桃色の目尻が上がり、挑発的な笑みを浮かべた薄い唇が四文字を発した。「知・る・か・よ」
次の瞬間、ベンツが急バックすると鋭い旋回を切り、健太の衣擦るか擦らないかという距離をかすめて暴走していった。
無言の挑発。露骨な嘲笑!
健太は歯を食いしばり拳を握りしめたが、怒りを必死に抑え込んだ。いずれにせよ、この男は愛子を無事に送り届けたのだ。
五年ぶりに前田さやかが再び彼の目を盗み、愛子に手を出したとは。
煩わしげに眉間を揉みながら車に乗り込むと、箱根の温泉リゾートホテルで後始末をしていた部下から着信があった。
「社長、ホテルの運転手はどういたしましょう?」
健太の瞳は底冷えするように暗かった。「妻にしようとしたことを、十倍にして返してやれ」
さやかに買収され、愛子に危害を加えようとした運転手が顔面を殴打され山奥に放り込まれたまさにその時、愛子と結衣はソファでくつろぎながらパックをして映画を観ていた。
「ねえ、騙されてない?」愛子が中村に多額を支払ったと知り、結衣は警鐘を鳴らした。金額自体は問題ない。彼女が恐れたのは愛子の期待が裏切られることだった。
愛子は言った。「藁にもすがる気持ちで試すだけよ」中村の出現は五年前の真相調査の新たな糸口に過ぎない。最大の望みは富田まどかが紹介した記者にある。最悪でも鈴木さくらが使える。
愛子が腹をくくっていると分かり、結衣は安堵の息をついた。
愛子は続けた。「そうそう、この二日で母が遺した家を見に行くつもり。片付けたら引っ越すわ」
結衣:「うちにいればいいじゃない。引っ越すことないでしょ?」
愛子:「長居すると健太が君に因縁をつける」目的のためなら手段を選ばない健太を彼女はよく知っていた。結衣の家に長くいれば、彼女を戻すため結衣や会社を標的にしかねない。以前も投資の件で脅したことがあるではないか。
「寂しいなら一緒に引っ越せば?」
結衣は笑った。「名案! ちょうどこの家を売って会社に追加出資し、株主比率を上げたいと思ってたの」何しろ彼女の心血だ。融資で発言権を失うのは避けたかった。
愛子は父・鈴木一郎が話した「重要事項同意書」を思い出し、心が動いた。「信頼できる弁護士を知らない?」
結衣は離婚相談かと思い、真剣に考えた末に一人思い当たった。「札幌に凄腕の大物弁護士がいて、最近東京に来たって聞いた」東京の弁護士で健太に真正面から立ち向かえる者などほぼいない。だがこの札幌の大物は、筋金入りの変わり者として有名だった。依頼人が気に入らなければ金山を積まれても引き受けない。しかし一度引き受ければ相手が誰であろうと死闘を挑む。
愛子はそれを聞くと即座に興味をかき立てられた。大物に少々の癖はつきもの。彼女は当初同意書の作成を依頼するつもりだったが、その評判を聞くと離婚弁護士として雇うことを考えた。
結衣は幾重ものコネを辿り、ついに伝説の大物弁護士との面会を愛子のためにセッティングした。
愛子は予定より早く喫茶店に到着した。ところが予約席には既に人物が座っていた。背を向けているため顔は見えない。
愛子は慌てて駆け寄ると、深々と九十度のお辞儀をした。「申し訳ございません中村弁護士、遅れてしまいまして!」誠意に満ちた態度。
「私が早すぎただけです」少し低く澄んだ、どこか聞き覚えのある声がゆっくりと響いた。
愛子がはっと顔を上げた。
振り向いたその整いすぎた美貌を目の当たりにした時、彼女は思わず声が裏返るほど驚いた。
「あんた⁉」