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第19話 あなたを陥れたのは前田さやか


渡辺結衣は前田愛子の手首や腕に見えるあざを見て、それが全て前田健太の仕業だと聞くと、怒りで「最低な男」と口にした。


彼女が住む高級マンションは最高級とは言えないが、警備は非常に厳しく、居住者以外は一切入れない。


前田愛子が自由に出入りできるのは、購入時に資金を借りたため、登記簿謄本に愛子の名前が併記されているからだ。


渡辺は事前に調べ、健太が下の階に部屋を買ったことを知っていた。


妻を追いかけるために階全体を買い占める――聞こえはロマンチックだが、彼の真の目的を思うと、渡辺は愛子と同じく胸が悪くなった。


以前、愛子が五年前の事件に健太が関わっていると疑っていた時、自分は彼を擁護したことを思い出し、今では後悔でいっぱいだった。


「健太くんの投資金、返却するわ」渡辺は憤慨しながら言った。「愛子、あなたがしたいようにしなさい。私は絶対に味方よ」


その資金が会社にとって重要でも、彼女の中で愛子に勝るものはなかった。


しかし愛子は首を振った。「彼の投資金は、夫婦共有財産とも言える。返す必要はないわ。彼の影響力は、遠慮なく活用すべきよ」


少し間を置き、彼女は続けた。「最大二ヶ月。重要なことは急いで進めて」


渡辺のスタートアップ企業は、健太の投資が支えとなり、事業がずっと順調に進むはずだった。


五年間利用されてきた彼女が、今度は彼のリソースで"利子"を回収する――何らおかしくはない。


渡辺はすぐに彼女の意図を悟り、重々しくうなずいた。愛子が何をするにしても、全力で支援すると心に誓った。


病院のVIP室で、前田久美子は一人で現れた健太を見ると、手入れの行き届いた顔が曇った。「愛子は?さやかが入院しているのに、一目も見舞いに来ないなんて、本当に礼儀知らずだ」


ベッドで点滴を受ける前田さやかは、母が愛子を非難するのを聞くと、すぐに便乗した。「お兄ちゃん、愛子さんはまだ私のことを怒っているのかな?」


健太はさやかを一瞥すると、久美子から1メートル離れた位置に立った。「富田さんに電話した。すぐに来るはずだ」


さやかの目が輝いた。「私を迎えに来てくれるの?」


健太がかすかにうなずくと、彼女は化粧品を手に鏡に向かった。洗胃直後の青ざめた顔を、富田航平に見せたくなかったのだ。


久美子は呆れたように娘の額を小突いた。「富田さんに何を魅せられたのかしら。あの人以外は結婚しないなんて、自ら苦労を買ってるようなものよ」


最初から富田家との結婚には反対だったが、さやかは誰の忠告も聞かず、憑かれたように固執した。


久美子は健太に向き直り、不満げに言った。「富田さんに、これからはさやかを大切にするよう伝えてちょうだい。二度といじめないって約束させて」


健太はそっけない返事をした。


久美子は、健太が愛子を盾に富田を脅してさやかを迎えに来させたと思い込んでいる。それも悪くない――少なくしばらくは、彼女が愛子に因縁をつけることはないだろう。


一方、愛子はその日引っ越す予定だった。


亡き母が残した物件の中から選んだ部屋を、ようやく掃除させたところだった。


だが朝早く、鈴木一郎の電話で目を覚ました。


「愛子、弁護士が協議書を準備した。私は八時半に会議があり、午後は出張だ。会議前に会社に来て、すぐに署名してくれ」


愛子が返答する間もなく、電話は切れた。


愛子は完全に目が覚め、時計を見て一郎の意図を悟った――不意を突くつもりだ。


1時間半足らずでは、弁護士に協議書を精査させる時間がない。除非、健太に頼んで前田商事の弁護士を呼ぶしかない。


経済ニュースで健太が重要なプロジェクトの調印式に出席すると知り、一郎がわざとこのタイミングを選んだと確信した。明らかな悪意だ。


だが愛子は株式を取り戻す機会を待ち望んでいた。一郎が折れたのは珍しい。チャンスを逃すわけにはいかない。


その時、ある弁護士を思い出した。


しばらく逡巡し、会社へ向かう途中で中村拓真に電話した。状況を説明し「今、頼れるのは拓真さんだけです。もしご都合がよければ…報酬は心配ありません」


中村の声は寝ぼけていて、少しからかうように響いた。「前田さんが真っ先に私を頼ってくれるとは光栄です!」


社交辞令とわかっていても、彼が協力を申し出てくれたことには感謝した。


鈴木グループ本社に着くと、一郎の秘書が自ら出迎え、社長室へ案内した。


愛子にとってここは初めての場所ではない。


幼い頃、母に連れられて来たことがある。「いつかこの会社をあなたに託すのよ」と笑った母の言葉が、今も耳に残っていた。だが母は、彼女が成長するのを待たずに事故に遭ったのだった。


一郎は彼女を見るなり、協議書とペンを差し出した。「署名すれば、君のお母さんが残した株式は正式に君のものだ」


愛子はそれを受け取ってぱらぱらとめくったが、なかなかペンを握らなかった。


五年前も鈴木美沙子に騙されて書類に署名したことがある。当時、信託が株式の所有権を明確にしていなければ、経営権だけでなく全てを失うところだった。


一郎は彼女がゆっくりと書類をめくる様子を見て内心嘲笑しながら、作り笑いで急かした。「私は会議がある。早く署名してくれ。終わったら新しいオフィスに案内させる」


「社長がお急ぎなら、先に会議に出席なさってください。署名後、机に置いておきます」愛子は相変わらず落ち着いていた。


一郎は腹立たしさと苛立ちを感じつつ、会議室へ向かう前に秘書の山下に「署名するまで彼女を帰すな」とこっそり指示した。


一郎が去ると、愛子はすぐにスマートフォンを取り出し、協議書の写真を撮って中村拓真に送った。


10分も経たないうちに中村から返信があった。問題のある箇所を丸で囲み、修正案が添えられていた――ほんの数文字の違いで、内容が全く変わってしまう。


愛子は感嘆した。東京でも有名な弁護士だけあって、さすがにプロだ。


入り口まで行き、山下秘書に言った。「何箇所か修正が必要です。社長に伝えてください。直ったら署名します」


修正案を受け取った一郎の顔が青ざめた。


あの夜、家を出て行った愛子を出し抜こうと、わざわざ弁護士に依頼し協議書に罠を仕掛けた。


健太が手の空かないタイミングを選んだのは、彼女が法律に疎いと思ったからだ。だが見抜かれてしまった。


これまで一度も会社経営に関わらせたことがなく、彼女は芸術を学んでいた。どうしてそんな知識が?


一郎は彼女が健太に告げ口するのを恐れ、誤記だったふりをして修正に同意した。さらに「よく気づいたな」と褒めるメールまで送った。


修正後の協議書を受け取った愛子は、中村から問題なしと連絡があって初めて署名した。ようやく鈴木グループの真の株主となったのだ。


山下秘書が新しいオフィスへ案内した。「前田副社長、ご就任の辞令は社長が会議後に署名され、発令されます」


つまり、まだ正式な副社長ではないということだ。


愛子は焦らず、にっこり笑って言った。「山下さん、さくらさんを呼んでもらえますか」


山下秘書は内心で嫌な予感がしたが、一郎から愛子の要求は何でも聞くよう言われていた。渋々鈴木さくらを呼びに行った。


さくらは山下秘書の顔を立てざるを得ず、むっとしながら愛子のオフィスに入った。


本革の社長椅子にゆったりと寄りかかる愛子を見て、嫉妬が込み上げてきたが、表には出せなかった。愛子は株式を持ち、一郎さえも彼女を遠慮していた。


ついに我慢できず、皮肉っぽく言った。「前田副社長はお仕事熱心ですね。辞令もまだなのに、もう業務開始ですか?」


「あなたを呼んだのは私用よ」愛子は立ち上がると、一歩一歩さくらに近づき、じっと見つめた。


さくらはその視線に背筋が凍り、思わず後ずさった。「な、何をする気?」声は震えていた。


愛子は彼女の襟を掴むと、首をかしげて笑った。「五年前、あなたが私を騙して外出させ、誘拐されたわよね?この借り、そろそろ清算しましょうか」


あの夜、一郎の書斎で愛子が五年前の話を出した時から、さくらはびくびくしていた。まだ騙されていると思いたかった。


だが真実を直接聞かされ、さくらは一気に慌てふためいた。愛子の手の中で呼吸さえ困難になり、必死に言い訳した。「あなたを陥れたのは前田さやかよ!私も騙されたの!」


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