鈴原陽太の記憶の奥底には、幼稚園時代のとある場面が深く刻まれている。
クラスにはいつも彼を「父親のいない子」とからかうぽっちゃりの男の子がいた。その子の両親も止めるどころか、一緒になって嫌味を言っていた。母親の鈴原念乃がその話を聞くや否や、何も言わずに幼稚園に駆けつけた。
先生や子供たちが見守る中、彼女はまずそのぽっちゃりの父親にビンタを二十発も食らわせ、続いて母親の髪を引きちぎり、顔に爪痕を残した。最後には泣き叫ぶその男の子をパンツ一枚にして校門前に立たせてしまった。七、八人の先生が止めようとしても、誰も彼女を止められなかった。
あの光景は、幼稚園始まって以来の壮絶な親の抗議劇として語り継がれている。
結局、鈴原念乃は傷一つなく、呆然とした陽太を抱き上げ、堂々と医療費としてキャッシュカードを投げつけてこう言い放った。
「子供の躾ができないなら、私が代わりにやるわよ。これからうちの子をいじめたら、許さないからね!」
翌日、その家族はすぐに転園してしまった。
*
子分たちは、鈴原陽太の真剣な表情を見て、「喧嘩が強い」なんて言葉と、あの転校生の整った顔立ちをどうしても結びつけられなかった。
だが、陽太は嘘をつかない。
「陽太、昨日急に飲み会から抜けたのって、もしかしてあの転校生と一騎打ちしに行ったんじゃないの?それで……負けた?」
鈴原陽太「……」
本当は幼稚園の“伝説”を例に出そうとしたが、生まれ変わりのことなんてバレたら、念乃が化け物扱いされて研究所送りになりかねない……。仕方なく、渋々うなずいた。「……うん。」
子分たちは一斉に固まった。
あの陽太まで負けてしまう相手!?この転校生、一体何者だ……。
これからは、彼女に出くわしたら道を譲ったほうがよさそうだな――
そんな空気の中、一人の子分のスマホに通知が届く。画面を見た彼が叫ぶ。
「陽太!小早川さん、今週末また御景台の家にクラスメイトを招待するってさ!」
昨夜、小早川玲奈が掲示板にウイスキーの壁をバックに自撮り写真をアップしたことで、コメント欄は大盛り上がり。みんな彼女の豪華な家に憧れ、見てみたいと騒いでいた。玲奈は「ご近所迷惑になるから」と、渋々7〜8人だけを週末に招くことにしたらしい。
佐藤翔太が目を輝かせる。「陽太!こんなチャンス滅多にないぞ!御景台ってすごい豪邸なんだろ?行かなくていいのか?」
鈴原陽太は興味なさそうに首を振る。「行かないよ、別に行きたくないし。」自分は十年以上住んで見飽きた家だし、何も珍しくない。
佐藤翔太は「わかってるよ」という顔で、茶化すように言う。
「陽太、本当は行きたいけど呼ばれてないだけじゃないの?」
鈴原陽太は鼻で笑う。「バカらしい。」
そんな態度を見て、子分たちは「やっぱりな」と納得した様子だった。まあ、陽太の顔を立てておいてやるか――
*
その日のうちに、小早川玲奈が御景台の豪邸にクラスメイトを招く話は、湘南第三高校中に知れ渡った。
放課後のチャイムが鳴る。
12組の教室はすぐに人がいなくなった。
鈴原念乃は腕を組み、女王のようなオーラで陽太を睨みつけ、切り出した。「ねえ、“小早川お嬢様”がクラスメイトを“自分の家”に招くの、これで何回目?」
鈴原陽太は視線を泳がせ、しどろもどろに答える。「えっと……中二の頃から、何度か……」
ふん、と念乃が鼻で笑う。それじゃあ、数え切れないってことね。
「そんなに何度も、御景台が自分の家だって顔してるわけ?」
「借金取りに追われて、理恵さんと玲奈は元の家に帰れなくなって……でも、玲奈にも普通に友達付き合いがあるし、仕方なく御景台を……」陽太は必死で弁解しようとする。
念乃は核心を突く。「で、なんであんたはその“友達リスト”に入ってないわけ?」
陽太は頭をかきながら答える。「……俺、評判悪いし。玲奈みたいな優等生の友達に俺は……」
念乃は目を見開き、呆れた声を上げた。「じゃあなんで昨日、校門前であんな大げさな告白まがいのことしたの?」
「玲奈がSNSで、バラの花束で告白されてみたいって投稿してたんだ!俺がいれば、玲奈はもう人を羨ましがらなくて済むと思って……」
念乃「……」
そのSNS投稿、陽太だけに見える設定なんじゃないかしら。告白騒ぎで玲奈はヒロイン扱い、陽太は散々な目に合い、玲奈のイメージアップまで。陽太、見事に利用されてるわね。
念乃はしばらく黙った後、真顔で質問した。「今、17歳の知的障害児を捨てたら何年刑務所に入るかしら?」
陽太「はっ???」
念乃は目を閉じ、ため息をついた。これ以上このバカ息子を見ていたら、本当に置き去りにしそう……。さっさとカバンを掴んで立ち去ろうとする。
「お母さん、どこ行くの?」陽太が慌てて追いかける。「まだどこに住むか聞いてないよ!知らない土地でお金もなくて危ないって!」そう言って、カバンから分厚い封筒を取り出し、念乃に渡す。
「これ使って。足りなかったらまた言って。」
念乃は中身をちらっと見る。ざっと2万円ほど。何食わぬ顔で受け取る。
陽太は続ける。「俺のアパートが嫌なら、御景台に帰ればいいじゃん!理恵さんに一言伝えるから……」
念乃は冷たく笑う。「あら?私が自分の家に戻るのに、居候に“許可”取らなきゃいけないの?」
「そういう意味じゃなくて……」
「いいわ。帰ってもいいけど。」念乃はぴたりと足を止め、陽太を見つめる。「まず小早川母娘を出て行かせて、部屋を空けて綺麗に掃除したら、戻ることを考えてあげる。」
「……」陽太は困った顔をする。そんなことできるはずがない。
念乃はさらに追及する。「で、“一時的に”住まわせるって、いつまでのつもりなの?」
「……」またもや言葉に詰まる陽太。
念乃は予想通りとばかりに、きっぱりと言い放った。「私はもう帰らない。あの家はいらない。私、潔癖症なのよ。」あの母娘が何年も住み、自分の家のように振る舞ってきたその場所に、もう一歩も入りたくない。
陽太は驚愕する。「いらないって!?じゃあどこに住むつもり?自分で部屋借りるの?」
念乃は息子を見つめ、急に憂いを帯びた表情でため息をつく。
「気にしなくていいのよ、陽太。理恵さんと玲奈ちゃんのこと、しっかり面倒見てあげて。」
「私は、世の中広いし、どこかに居場所くらいあるものよ。空の下でも、地べたでも、何とかやっていくわ……」
そう言い残し、念乃は息子の驚きと罪悪感と困惑が入り混じった表情をじっくり堪能し、封筒を持って颯爽と去っていった。
*
20分後。
横浜市内の最高級五つ星ホテルのプレジデンシャルスイート。
鈴原念乃は柔らかなソファに身を沈め、足を組み、銀のフォークで冷えたフルーツをつまみながら、最新のスマホを操作していた。
家は、もういらない。
だが、彼女の“いらない”は、決してあの母娘を得させる意味ではない。小早川玲奈は陽太のことを本当には好きじゃない。ただ家目当てで彼を利用しているのだ。
だったら、その家をきっちり取り戻してやるだけ!
スマホの画面上部に新着メッセージが表示される。
「ブラックカード会員様、御景台1701号室の直近4年間の管理費・修繕積立金納付明細をご案内いたします。」
念乃はフォークを置き、長い明細画像を開く。自分が“亡くなった”後も、御景台の管理費や修繕費、水道・電気・暖房代は、彼女名義の専用口座から自動引き落としされていた。面倒が嫌で、自分で専用の口座にまとまったお金を入れて自動支払いにしておいたのだ。
つまり、小早川母娘はずっと自分の豪邸をタダで満喫してきたわけだ。
明細の一番下には、赤字で太くこう表示されていた。
「ブラックカード会員様へご案内:当該口座の残高が1701号室次回分の支払いに不足しています。延滞金・サービス停止を避けるため、必ず今週日曜日(支払期限)までにご入金ください。」
今週日曜?
念乃は指で画面を軽くタップし、口元に冷たい笑みを浮かべる。
ちょうど小早川玲奈が「自分の家」でパーティーを開く日――
そう。
もう入金なんかしない。
さっと明細画面を閉じ、デザイナーから送られてきた新居のインテリア案のチャットを開く。
そう、新しい家。
御景台、1600号室。
あの母娘が占拠している1701号室の、すぐ真下だ。