小早川玲奈はなんとか平静を装いながら声をかけた。
「スマホを出して。管理費を支払わなきゃ。」
その言葉に、小早川理恵は目を見開き、鋭い口調で返した。
「なんで私が?!」
その場の空気が一瞬凍りつく。周囲の人たちは、玲奈の家で働く身が雇い主に対して随分と無礼だと不思議に思っていた。
玲奈は理恵を睨みつけながら歩み寄り、無理やりポケットからスマホを取り出して、低い声で「あとで私のスマホが見つかったら、すぐに返すから」と囁いた。
理恵はみんなに背を向け、しぶしぶとした表情で「絶対に返してよね」と念を押す。
「うん。」玲奈は心の中で、どうせ後で鈴原陽太に補填させればいいと考えていた。
スマホを手にした玲奈は、管理会社のスタッフに向き直る。「はい、電子振込でお願いします。」
「かしこまりました。」女性スタッフはQRコードを表示しながら答えた。
「合計で200万円です。」
「えっ、ちょっと待って!」玲奈は思わずスマホのカメラ部分を隠し、驚愕の声を上げた。「なんですって?そんなに高いの?」
スタッフは少し不思議そうな表情で、「ずっとこの金額ですよ。ご存知なかったんですか?」と問い返す。
御景台の住人なら知らないはずがない。
玲奈は一瞬ぞっとし、失言を悔やみながら慌てて取り繕った。「も、もちろん知ってます!」
「では、お支払いをお願いします。」スタッフはにこやかに再びQRコードを差し出す。
その時、理恵が玲奈の耳元に素早く近づき、小声で「私の残高じゃそんなに払えないよ!」と焦り気味に囁く。
言われなくても玲奈には分かっていた。イライラしながらも、ふと思いついてスタッフに言った。「実は、うちの使用人の残高が足りなくて。とりあえず未納分の一か月分だけ先に支払います。私のスマホが見つかったら、すぐに全額お支払いしますから。これならご迷惑もかけませんし、いかがでしょうか?」
「それは……」スタッフは戸惑いを見せる。
玲奈はほっと胸をなで下ろす。だが安心したのも束の間――
「玲奈さん、スマホここにあったよ――」
その声に全員が振り返る。鈴原念乃が白いスマホを手に立っていた。それは間違いなく玲奈のスマホだった!
「ごめんね、ソファの上に置いてあったの気づかなくて、座っちゃってたみたい。」
念乃は少し申し訳なさそうに微笑み、玲奈にスマホを手渡す。
玲奈は黙ったままスマホを見つめ、どうしても手を伸ばせなかった。200万円なんて、今払えるはずがない。しかも、さっき「スマホがないから全額払えない」と言ったばかりなのに、すぐ見つかってしまった。
ここでまた払えないとなれば、完全に言い訳が通じなくなる。しかも大勢の前で、すぐに陽太に連絡を取れる状況でもない。
「どうしたの、玲奈さん?」念乃は首をかしげ、「何か困ってるの?」と尋ねた。
小早川家の親子は、今まで一度も家賃も払わずに居候してきて、豪邸に住む“条件”なんて考えたこともなかった。
「何言ってるの?玲奈に困ることなんかあるはずないでしょ!」高橋恵理香が念乃を睨みつけて口を挟む。「玲奈は毎月の生活費だけで200万円よ?こんなの朝飯前だから!」
その言葉に玲奈の顔色が一瞬で青ざめたのに気づかず、恵理香は得意げに話し続ける。
その場の同級生たちは皆驚きの表情を浮かべた。普通の中学生にとって、数万円の小遣いでも多い方だ。200万円の生活費なんて想像もつかない。玲奈はやっぱり本物のお嬢様だと感心する。
「へぇ、そうなんだ。私には縁がない世界だわ。」
念乃は納得したように頷き、再びスマホを差し出した。「じゃあ、玲奈さん?」
玲奈は仕方なくスマホを受け取る。管理会社のQRコードが目の前にある。玲奈には分かっていた。一度スキャンすれば、「残高不足」と表示されるのは明らかだ。無理に笑顔を作り、平然を装って、
「あ、でも……昨日新作のバッグを何個も買っちゃって、今月の生活費ほとんど使い切っちゃったかも……」とごまかす。
「え、またバッグ買ったの?」高橋恵理香は大きな声で、「大丈夫よ!スマホが見つかったんだから、お父様に電話して送金してもらえばいいじゃない!」と無邪気に言う。
玲奈はスマホを握る手が震え、表情が崩れそうになる。こんな時に恵理香の余計な一言が恨めしい。
玲奈は歯を食いしばる。
「……今はお父様が仕事で忙しい時間だし、お母様は海外で時差もあるし、きっとスマホは見ていないと思う。」
すかさず理恵も「そうそう、ご主人も奥様もお忙しいんです!」と相槌を打つ。
スタッフは「それなら、ご両親の秘書の方にご連絡できますか?」と尋ねる。
200万円の生活費があるなら、秘書に頼んで振込んでもらうのも簡単なはずだ。
玲奈は緊張して髪を耳にかけ、咄嗟に「父の秘書も今は手が離せないみたいで!迷惑はかけたくないので、やっぱり一か月分だけ先に払います。後で必ず全額お支払いしますから!」と強めの口調で反論した。
「何か問題でも?私がここにいるし、未納分も払うと言ってるんだから、まさか逃げるとでも思ってるの?御景台の管理組合はこんな態度なの?」
同級生たちも味方する。
「そうだよ、玲奈さんがここまで言ってるのに!」
「彼女のお父さんの仕事を邪魔したらどうする気?」
「クレーム入れるよ!」
「クレーム」という言葉にスタッフも怯み、揉め事を避けるため渋々引き下がった。
「いえいえ、ご心配なく。では、とりあえず一か月分だけお支払いください……」
鈴原念乃は一部始終を見守りながら、玲奈の機転の良さに少し感心していた。
玲奈はQRコードを読み取り、金額を4万円と入力する。パスワードを打とうとした、その時――
「1701号室のオーナーがこちらにいらっしゃいます――」
エレベーターの「チン」という音と共に、落ち着いた男性の声が響いた。全員がその方を振り向く。
スーツ姿に金縁眼鏡、エリート然とした中年男性が堂々と現れ、その後ろには作業服姿の作業員たちが数人従っていた。男ははっきりとした声で言う。「1701号室のオーナーです。管理費は私が支払います。」
そのままスタッフのQRコードをさっと読み取り、ものの数十秒で「ピッ」と200万円の支払いが完了した。
一同、呆然。
「誰?この人?」
「1701号室のオーナーって言ったけど……?」
玲奈は驚きのあまり声を漏らす。
「……あなた、誰?」
中年男性はそのまま玲奈と理恵の方へ歩み寄り、厳しい口調で告げた。
「私は1701号室のオーナー、神崎隼人です。あなたたち二人は不法に私の部屋に居住しています。すぐに退去してください。さもないと、法的措置を取って損害賠償を請求します。オーナーとしての権利を守らせていただきます。」