撤収のサイレンが響く軍の仮設基地。
夜明け前の冷たい空気の中、兵士たちは無言で装備を片付けていた。
ジョージは医療テントで処置を受け、意識が朦朧としている。
その外では、ある男の怒声が響いていた。
「貴様、自分が何をしたのか理解しているのか!」
中隊長の声はまるで死体安置所の空気のように冷たかった。
誰の皮膚にも触れず、骨まで鋭く響いてくる。
仮設司令部のテントの中、ヴィンセントは硬い椅子に腰掛け、腕を組んでいた。
190センチを超える黒人の大男。
淡い褐色の肌と、光の加減で色を変えるヘーゼルの瞳――
いくつもの時代と民族の記憶が、彼という男の中で交わっていた。
ただ座っているだけで、周囲の空気が緊張する。
今、その全身が怒りの熱を孕み、沈黙の中で軋んでいた。
「ええ、もちろんです。
俺は、仲間を見捨てなかった」
「ふざけるな!」
中隊長は机を拳で叩いた。
「貴様の勝手な行動で部隊全体が危険に晒された!
戦場でのルールを忘れたのか!」
ヴィンセントは目を細め、鼻で笑った。
「へっ! ルールねぇ……
確かに俺は命令を無視しました。
でも、じゃあ聞きますよ」
椅子の背にもたれ、皮肉気な笑みを浮かべる。
「どれだけあいつから恩恵を受けてきたか、ちゃんと数えましたか?」
中隊長は眉をひそめた。「何の話だ?」
「何人の兵士があいつに命を救われたか、言えますか?」
ヴィンセントの声には怒りが滲んでいた。
「ジョージは戦場のルールを理解していた。
俺たちよりもずっとな。
必要なら殺す?
そんなもんじゃない。
アイツは
俺たちは無表情で敵を殺すアイツを気味悪がってた。
でも……アイツがいたから、何人の仲間が生き延びた?」
感情の昂りが抑えられず、所々に第二母語であるルイジアナ訛りのフランス語が滲む。
中隊長が口を開く前に、ヴィンセントは続けた。
「敵に包囲されていた時、あいつが突破口を作った。
負傷兵が出た時、アイツが最後まで援護した。
誰よりも前線で戦って、誰よりも敵を倒し、誰よりも多く手を汚した。
それでも……置いていけだと?」
ヴィンセントは鼻で笑った。
「ふざけるな。
あいつは俺たちを助けるために何度も命を張ったのに、心を削ったのに、いざあいつがやられたら、簡単に見捨てるのか?
そんなのクソみたいなルールだ」
中隊長の目が鋭く光る。
「我々は、全員を助けるヒーローじゃない」
声には一片の感情もなかった。
中隊長は無言のままヴィンセントを見据えた。
その目は人間ではなかった。
ヴィンセントは吐き出す。
「俺たちの役目は、自分だけ安全に撤退することじゃねぇ。
仲間と共に生き延びて、次の戦場に立つことだ。
俺は知ってるぜ、アイツがいなきゃこの部隊は何度も崩壊してた。
お前にとっては、何も感じずに命令に従うだけの、都合のいい道具だったんだろ。
人付き合いも感情もねぇから、壊れても誰もなんも痛まない。
だから、あっさり捨てられると思ったんだよな」
ヴィンセントは立ち上がり、部屋を見回した。
そこには他の兵士たちも数人いた。
「Et vous aussi, bande de lâches !!!!」
(テメェらも同じだ、腰抜けどもが!!!!)
突然の怒声に、兵士たちは身を竦める。
ヴィンセントの巨体が、まるで獣が威嚇するようにわずかに前傾し、その両肩は地響きのような怒気を纏っていた。
目が鋭く光を反射し、その色は怒りでより深く、より危うく染まっていた。
「ジョージからどれだけ恩恵を受けた?
どれだけ助けられた?
なぁ、言ってみろよおい!!
アイツがいたから生きてるヤツは何人いる?」
誰も何も言えなかった。
「怖かった?
気味悪かった?
処刑人だ?
ふざけるな!
戦場じゃ何が重要かはっきりしてる。
優秀なアイツがいたから俺たちは勝ち続けたんだろ?」
ヴィンセントは拳を握りしめる。
「ジョージが倒れた時、お前らは真っ先に言ったよな。
“置いていけ”って。……そんなに簡単に、切り捨てられるのか?」
誰も目を合わせようとしない。
「……俺にはできねぇ」
ヴィンセントは深く息をつき、中隊長を睨みつける。
すると、中隊長はゆっくりと口を開いた。
「助けられなかったわけじゃない」
ヴィンセントの眉がピクリと動く。
「……Quoi…?!」(……何!?)
「だが、助ける余裕がなかった」
中隊長は静かに続けた。
「撤退戦でなければ、あるいは戦線が維持されていたなら、救出の選択肢もあったかもしれん。
だが、あの状況で最優先すべきは部隊の安全だった。
犠牲を払えば助かる?
そんなものは、戦場では何の意味も持たん」
「……ふざけんなよ」
ヴィンセントは唇を噛み、拳を握りしめた。
「意味がねぇ?
じゃあ、テメェは戦場で何を見てきた?」
「戦争の現実だ」
中隊長は冷静に言った。
「お前がどう思おうと、我々は感情で動く組織ではない。
軍は理想で戦うものではない」
「……そんなクソみたいな組織、こっちから願い下げだ」
ヴィンセントは深く息をつき、中隊長を睨みつける。
「それが軍隊の規律だ」
「だったら、そんな規律は俺にはいらねぇ!!!
Allez vous faire foutre!!!」
ヴィンセントは両手をテーブルにつき、真っ直ぐに言い放つ。
――最上級の侮辱。
――フランス語に乗せた、痛烈な拒絶。
だが本人でさえも、何を言ったのか気がついていなかった。
怒りで体が震える。
奥歯が鳴る。
だが、指先は死人のように異様に冷たい。
血が巡らないほど、強く拳を握りしめていた。
「俺はジョージを助けた。
あいつは“処刑人”だったかもしれない。
でも、俺にとっては相棒だった。
あんたたちがなんと言おうと、それだけは変わらねぇ」
中隊長は沈黙した。
ヴィンセントは息を吐き、ゆっくりと直立する。
「もういい。俺はここを辞める」
「……本気か?」
「本気さ。ここにいたら、また同じことが起きる。
俺には、もうそんなのはごめんだ」
ヴィンセントは一瞬だけ中隊長を睨みつけ、踵を返した。
“ジョージを見捨てない” と決めたあの瞬間に、彼の軍人としての人生は終わっていたのかもしれない。
だが、それでいい。
ヴィンセントはジョージを見捨てなかった。
それが、彼の選択だった。
◇
BGM:
MILLENNIUM PARADE
“Fly with me”
平井堅
“グロテスク(feat.安室奈美恵)”