「何かあったのか」
ジョージの声が、低く、乾いた音で空間を裂いた。
「どういうこと?」
張った声。射抜くような鋭い視線。
彼女は、真正面からジョージを見据えていた。
「ママ、転んだんじゃないよね? 殴られたんでしょ?」
ジョージは何も言わない。動きもない。
「だから、あんたがいるんでしょ?
守るために。だったら教えてよ!
何があったの?」
声が震えていた。怒りという名の震え。
その奥に潜むものを、本人も制御できていなかった。
ジョージは、わずかに息を吐いた。
「ジェシカには関係ない」
その言葉は、鋼のように冷たく、硬かった。
ジェシカの表情が一変した。
頬に紅潮が走り、拳が小さく震える。
「……関係ない? ふざけないでよ。
ママがあんな顔してるのに、私には関係ないって言うの!?」
ジョージは動じない。
表情を変えず、淡々と言葉を重ねる。
「ジェシカ……。
君が知ったところで、何ができる?」
ジェシカは息を詰まらせた。
その瞬間、何かを振り払うように、彼女は声を張り上げた。
「じゃあ――柔道を教えて!!」
一瞬、時間が止まる。
その言葉に、場の空気が変わった。
ジョージのまぶたが、ゆっくりと開閉する。
「……は?」
ジェシカは拳を握りしめ、力強く言った。
「私も強くなってママを守りたいの! だから教えて!」
言葉に偽りはなかった。
その場にいる誰よりも、真っ直ぐだった。
ジョージは黙って腕を組んだ。
しばらく沈黙。判断中。
敵味方ではなく、子供の覚悟を測るように。
「柔道は……簡単じゃない」
「でも、あんたはできるでしょ!? だったら、私にも教えて!」
幼さの中に混じる、真剣な意志。
子供の叫びではなかった。
一線を越えた声だった。
ジョージは短く息を吐き、腕を組む。
しばらく沈黙し、考え込んでいたが――
やがて、少しだけ視線を落とし、静かに言った。
「柔道は無理だが、護身術なら教える」
「護身術?」
ジェシカが眉をひそめる。
ジョージは無表情のまま「ああ」と短く答えた。
そして、静かに言葉を続ける。
「例えば……」
ジョージは一歩、ジェシカに近づく。
次の動きは、ほとんど予兆がなかった。
その手が、音もなく伸び――ジェシカの手首を取る。
静かだった。だが、強い。
力任せではない。支配に近い感覚だった。
指先から、冷たい圧が皮膚を貫いた。
ジェシカは本能で察した。
――逃げられない。
この掌の奥にあるのは、訓練された「意志」だ。
“本気の人間”が本気で向かってきたときの、それ。
ジョージの声が、低く、間を切った。
「……こう。手首を掴まれたら、どうする?」
低く、抑えた声が、静寂を裂いた。
ジェシカは喉が乾いて仕方なかった。
恐怖にではない。
生きるための本能に、脳が、肌が、全力で訴えていた。
(この人がもし敵だったら――)
脊髄が震えた。
でも、ジェシカは腕を引いた。
全力で。
――だが、動かない。
ジョージの手は、鉄のように動じなかった。
「……無理」
ジョージが静かに頷く。
「そうだ。大人の男に掴まれたら、子供の力じゃどうにもならない」
その言葉が、重く胸に落ちた。
だが、ジョージはそこで終わらせなかった。
掴んだまま、口を開く。
「でもな。力で抗う必要はない」
言いながら、手の圧を少しだけ緩める。
「いいか。まず、相手の“親指の向き”を確認する」
彼は手首を軽く回し、ジェシカの視線を誘導した。
親指と人差し指の隙間。
「そこが弱点だ。
掴まれてる手を、そこへ向けてひねる。こうだ」
ジェシカが言われた通りに動かすと――
すぽん、と音もなく抜けた。
「……えっ?」
ジェシカは呆然と、自分の手を見つめた。
さっきまで、びくともしなかったのに。
今は、簡単に逃れられた。
ジョージが補足する。
「指は閉じた側が強い。
だが、親指の隙間は構造上、どうしても弱い。
そこを突けば、力は最小限で済む」
ジェシカは黙って頷いた。
まだ信じきれないような目で、自分の手を握り直す。
「……やってみていい?」
「ああ」
ジョージが差し出す。
ジェシカが掴み、先ほどと同じように――ひねる。
また抜けた。
その顔に、驚きと、確信が浮かぶ。
「……ほんとにできた!」
ナンシーが思わず息を呑んだ。
ジョージは表情を崩さず、静かに言葉を続ける。
「これは基本中の基本だ。
だが、こういう“当たり前”が、生きるか死ぬかを分ける」
ジェシカの表情が変わった。
幼さを残した顔に、微かに影が差し、奥底に火が灯る。
「もっと教えて」
真剣な眼差しで、ジョージを見つめた。
ジョージは一瞬、迷うように視線をそらしたが――
やがて、静かにうなづいた。
「ここでやるには手狭だし、実際に動きを教えるにはスペースが足りない。
できればジムでやりたいんだが……」
ジョージはナンシーの方に目線を向けた。
「えぇ、構わないわよ。今日は定休日だし」
「ほんと!? 行こう、早く!」
言葉が弾んだ。
だが、ジョージは落ち着いた声で告げる。
「まずは食え。身体は、それが基本だ」
そう言って、彼は無言でテーブルの椅子を引いた。
ジェシカはその背中を見つめ、ゆっくりとパンケーキに手を伸ばした。
それは、ただの朝食ではなかった。
彼女にとっての、最初の一歩だった。