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070:夜の王と、処刑人の過去を知る男

 バーの奥。

 煙草の煙が、空気の層のように垂れ込めていた。

 天井のファンがうなりを上げ、回っているのか止まっているのか分からない音を垂れ流していた。


 カウンターでは、昼間から潰れた酔客がテーブルに顔を伏せている。


 キングスリーは脚を組み、グラスを揺らしながら、目の前の男を観察していた。


 ウェイド。元・特殊部隊員。

 今は酒と過去に溺れてくすぶるだけの男。


 よれたTシャツ、黄ばんだ指。

 顔には皮脂と放棄の色が滲んでいた。

 彼の前に置かれたグラスの底には、酒が少しだけ残っていた。


 「……で?」


 ウェイドが薄く笑って口を開いた。

 掠れた声には、底の抜けた乾いた響きがあった。


 キングスリーは指でグラスの縁を撫でながら、ゆっくりと告げた。


「うちの若ぇのが3人、片づけられた。

 ……そいつが軍にいたってのは、本当か?」


 ウェイドは肩をすくめ、グラスの中の氷を指先で転がす。


「いたさ。……ジョージ・ウガジン。

 東洋系で小柄。表情の起伏もねえ。

 “処刑人”って呼んでいた」


 キングスリーの目がわずかに細まる。


「“処刑人”なんて、随分な異名じゃねえか」


「……最初は冗談だったよ。

 でもな、誰も笑わなくなった」


 ウェイドの声が、徐々に低くなっていく。


「あいつは機械だった。

 感情がない。痛みにも無反応。

 冷静すぎて、仲間の死体より地雷の位置を気にしてた」


「優秀だった?」


 ウェイドは鼻で笑った。


「射撃は下手だった。致命的に。

 ……けど、それ以外は全部が異常だった」


 グラスの底を見つめながら、しばらく沈黙する。

 氷がカチリと音を立てた。


「兵士としては、完璧だった」


 キングスリーが身を乗り出す。

 ウェイドは視線を合わせず、言葉を選ぶようにゆっくり続けた。


「判断。戦術。格闘。耐久。

 ひとつでも突出していりゃ十分なのに、全部が突き抜けてた。

 あいつが動くだけで、戦況が変わる。

 ……“兵士”なんてもんじゃねえ」


 低く、湿った声でつづけた。


「あいつは、よく単独で索敵任務に出されてた。

 誰とも組ませられなかった。

 “静かで、確実で、絶対に漏れない”

 ……そういう扱いだった」


 彼の口元がかすかに歪む。笑いではなかった。


「……一度だけ、帰ってこなかった。

 敵地に潜って、捕まった。

 無線も信号も反応ゼロ。

 誰ももう、生きてるとは思ってなかった」


 氷がカチリと鳴る。

 ウェイドは飲まずに、グラスを睨むように見ていた。


「7日目の朝、戻ってきた。

 歩いてだ。

 肩は脱臼して骨が浮いてて、皮膚は裂けて焼けて、目は真っ赤に腫れてた」


 キングスリーの口角がわずかに上がる。


「へえ。根性あるじゃねぇか」


 ウェイドの手が止まる。

 視線を上げる。そこにあったのは、笑いではなかった。


「……違ぇんだよ。

 あれは、根性とか勇敢さじゃねぇ。

 ……異常だった」


 彼はゆっくりと語り出す。まるで、何かを吐き出すように。


「あいつ、帰ってきても声を上げなかった。

 叫ばねぇ、泣かねぇ、痛みのひとつも訴えねぇ。

 ただ、左手で紙を要求して、座標と敵の配置を……

 血まみれの手で書き続けた」


 キングスリーは無言のまま、グラスを傾ける。

 ウェイドは言葉を止めない。止めると飲まれるからだ。


「俺、ベッドから起き上がるあいつを見たとき……吐きそうになった。

 だって……あれは、戻ってきた人間の顔じゃなかった。

 むしろ、感じだったんだよ」


 吐き気を抑えるようにして続けた。


「……誰も近づけなかった。

 寝てても、誰も隣に布団を敷こうとしねぇ。

 あいつがいるだけで、空気がひとつ冷える。

 拷問されて帰ってきたやつを見て、安堵するはずが……

 俺たちは、ただ怖かった」


 言いながら、ウェイドはふと、指を止めた。

 乾いた喉を潤すように、酒を一口飲み込む。

 その眼差しには、別の記憶が浮かんでいた。


「……もう終わったもんだと思ってたよ。

 けどな――その数か月後、あいつがまた“現場”に立ってるって聞いた。

 そん時、笑えなかった。背中に……氷水ぶっかけられたみてぇだった」


 グラスを置いた手が、かすかに震えていた。


「……冗談じゃねぇ。

 人間ってのは、1回地獄から戻ったら、もう終わりにしていいもんだろ……?」


 ウェイドは自嘲気味に笑った。

 そして、酒を一気に煽る。


「……あれ見て、思ったんだよ。

 “この人間、どこまでが人間なんだ?”ってな」


 キングスリーは目を細める。

 笑っているが、内心は計算していた。


「まあ、でも今は違うんだろ?

 もう軍は辞めたって聞いた」


「ああ。……腹を撃たれてな。

 深くやられて、除隊した」


 ウェイドは空のグラスを置いた。

 その音が、妙に静かに響いた。


「今のアイツは、前みてぇな無茶はできねぇ。

 でも、油断はするなよ」


 キングスリーが眉をひそめた。

 ウェイドは続けた。


「たとえ弱ってても、あの目は変わっちゃいねぇ。

 痛みを感じねぇ。ためらいもねぇ」


 そこで、ほんの一拍、言葉が切れる。

 ウェイドの目が、かすかに濁った。


「……殺すことにも、何の躊躇もねぇんだ」


 その声には、かつて見た何かを思い出すような滲みがあった。


「殴るでもねぇ、威嚇するでもねぇ。

 必要と判断すりゃ、迷いなく喉を裂く。

 まるで……そこに人間がいるとも思ってねぇみたいに」


 沈黙が落ちた。

 数秒後、キングスリーが小さく鼻を鳴らす。


 封筒を取り出し、テーブルに滑らせた。


「報酬だ。悪くねえ話だった」


 ウェイドは封筒を確認し、わずかに口角を上げる。


「……お前、あいつに会ったことがないんだな」


 キングスリーはグラスを掲げ、にやりと笑った。


「だから楽しみなんだよ。

 “処刑人”がどんなもんか、試してみたくてな」

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