バーの奥。
煙草の煙が、空気の層のように垂れ込めていた。
天井のファンがうなりを上げ、回っているのか止まっているのか分からない音を垂れ流していた。
カウンターでは、昼間から潰れた酔客がテーブルに顔を伏せている。
キングスリーは脚を組み、グラスを揺らしながら、目の前の男を観察していた。
ウェイド。元・特殊部隊員。
今は酒と過去に溺れてくすぶるだけの男。
よれたTシャツ、黄ばんだ指。
顔には皮脂と放棄の色が滲んでいた。
彼の前に置かれたグラスの底には、酒が少しだけ残っていた。
「……で?」
ウェイドが薄く笑って口を開いた。
掠れた声には、底の抜けた乾いた響きがあった。
キングスリーは指でグラスの縁を撫でながら、ゆっくりと告げた。
「うちの若ぇのが3人、片づけられた。
……そいつが軍にいたってのは、本当か?」
ウェイドは肩をすくめ、グラスの中の氷を指先で転がす。
「いたさ。……ジョージ・ウガジン。
東洋系で小柄。表情の起伏もねえ。
“処刑人”って呼んでいた」
キングスリーの目がわずかに細まる。
「“処刑人”なんて、随分な異名じゃねえか」
「……最初は冗談だったよ。
でもな、誰も笑わなくなった」
ウェイドの声が、徐々に低くなっていく。
「あいつは機械だった。
感情がない。痛みにも無反応。
冷静すぎて、仲間の死体より地雷の位置を気にしてた」
「優秀だった?」
ウェイドは鼻で笑った。
「射撃は下手だった。致命的に。
……けど、それ以外は全部が異常だった」
グラスの底を見つめながら、しばらく沈黙する。
氷がカチリと音を立てた。
「兵士としては、完璧だった」
キングスリーが身を乗り出す。
ウェイドは視線を合わせず、言葉を選ぶようにゆっくり続けた。
「判断。戦術。格闘。耐久。
ひとつでも突出していりゃ十分なのに、全部が突き抜けてた。
あいつが動くだけで、戦況が変わる。
……“兵士”なんてもんじゃねえ」
低く、湿った声でつづけた。
「あいつは、よく単独で索敵任務に出されてた。
誰とも組ませられなかった。
“静かで、確実で、絶対に漏れない”
……そういう扱いだった」
彼の口元がかすかに歪む。笑いではなかった。
「……一度だけ、帰ってこなかった。
敵地に潜って、捕まった。
無線も信号も反応ゼロ。
誰ももう、生きてるとは思ってなかった」
氷がカチリと鳴る。
ウェイドは飲まずに、グラスを睨むように見ていた。
「7日目の朝、戻ってきた。
歩いてだ。
肩は脱臼して骨が浮いてて、皮膚は裂けて焼けて、目は真っ赤に腫れてた」
キングスリーの口角がわずかに上がる。
「へえ。根性あるじゃねぇか」
ウェイドの手が止まる。
視線を上げる。そこにあったのは、笑いではなかった。
「……違ぇんだよ。
あれは、根性とか勇敢さじゃねぇ。
……異常だった」
彼はゆっくりと語り出す。まるで、何かを吐き出すように。
「あいつ、帰ってきても声を上げなかった。
叫ばねぇ、泣かねぇ、痛みのひとつも訴えねぇ。
ただ、左手で紙を要求して、座標と敵の配置を……
血まみれの手で書き続けた」
キングスリーは無言のまま、グラスを傾ける。
ウェイドは言葉を止めない。止めると飲まれるからだ。
「俺、ベッドから起き上がるあいつを見たとき……吐きそうになった。
だって……あれは、戻ってきた人間の顔じゃなかった。
むしろ、
吐き気を抑えるようにして続けた。
「……誰も近づけなかった。
寝てても、誰も隣に布団を敷こうとしねぇ。
あいつがいるだけで、空気がひとつ冷える。
拷問されて帰ってきたやつを見て、安堵するはずが……
俺たちは、ただ怖かった」
言いながら、ウェイドはふと、指を止めた。
乾いた喉を潤すように、酒を一口飲み込む。
その眼差しには、別の記憶が浮かんでいた。
「……もう終わったもんだと思ってたよ。
けどな――その数か月後、あいつがまた“現場”に立ってるって聞いた。
そん時、笑えなかった。背中に……氷水ぶっかけられたみてぇだった」
グラスを置いた手が、かすかに震えていた。
「……冗談じゃねぇ。
人間ってのは、1回地獄から戻ったら、もう終わりにしていいもんだろ……?」
ウェイドは自嘲気味に笑った。
そして、酒を一気に煽る。
「……あれ見て、思ったんだよ。
“この人間、どこまでが人間なんだ?”ってな」
キングスリーは目を細める。
笑っているが、内心は計算していた。
「まあ、でも今は違うんだろ?
もう軍は辞めたって聞いた」
「ああ。……腹を撃たれてな。
深くやられて、除隊した」
ウェイドは空のグラスを置いた。
その音が、妙に静かに響いた。
「今のアイツは、前みてぇな無茶はできねぇ。
でも、油断はするなよ」
キングスリーが眉をひそめた。
ウェイドは続けた。
「たとえ弱ってても、あの目は変わっちゃいねぇ。
痛みを感じねぇ。ためらいもねぇ」
そこで、ほんの一拍、言葉が切れる。
ウェイドの目が、かすかに濁った。
「……殺すことにも、何の躊躇もねぇんだ」
その声には、かつて見た何かを思い出すような滲みがあった。
「殴るでもねぇ、威嚇するでもねぇ。
必要と判断すりゃ、迷いなく喉を裂く。
まるで……そこに人間がいるとも思ってねぇみたいに」
沈黙が落ちた。
数秒後、キングスリーが小さく鼻を鳴らす。
封筒を取り出し、テーブルに滑らせた。
「報酬だ。悪くねえ話だった」
ウェイドは封筒を確認し、わずかに口角を上げる。
「……お前、あいつに会ったことがないんだな」
キングスリーはグラスを掲げ、にやりと笑った。
「だから楽しみなんだよ。
“処刑人”がどんなもんか、試してみたくてな」