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069:道場破り

 夕方。

 グレナンズ・フィットネスには、ゆるやかな熱気が漂っていた。

 壁に掲げられたロゴの下、生徒たちは談笑しながらマットに腰を下ろしていく。


 ジョージは少し大きめの道着に身を包み、無言で準備を整えていた。

 袖は長い。ネット購入の誤差。しかし、気にした様子はない。

 腰に黒帯を巻き、鏡越しに一度だけ目線を送る。


 マットの隅には、ジェシカとリリー、そしてワラビー。

 ジェシカは得意げに妹へ基本姿勢を教え、リリーは真剣な瞳でそれを見上げている。

 ワラビーは隣の少年に向かい、ジョージに投げられたときのことを熱を込めて語っていた。


「今日は、背後からの拘束に対する防御法だ」


 ジョージの声は低く、乾いていた。

 しかしその一言で、生徒たちの背筋が自然と伸びる。

 輪が整い、空気がひとつにまとまっていく。


 そのとき。


 ガラス扉が叩きつけられるように開いた。

 ジム内のざわめきが、一瞬で凍りつく。


 入ってきたのは、場違いな空気を纏った三人組。

 スカジャン、破れたジーンズ、無精髭、サングラス。

 見た目に差はない。リーダーの区別もつかない。


「よぉ、護身術って聞いて来たんだけどさ。

 俺らも“体験入門”ってやつ、やってみてぇんだよな」


 1番背の高い男が、作った笑顔でマットを靴のまま踏みつける。

 生徒たちは硬直し、ナンシーが眉をひそめた。

 ジョージは何も言わず、ほんのわずかに立ち位置を変える。


 朝に読んだ要約記事が脳裏に浮かぶ。


(……ここで、か)


「なぁおい、マジでこいつが先生か? ちっさ……」


 1人がジョージを指差し、吹き出す。


「ガキの護身術じゃね?

 ママに連れられて来ましたってか?」

「まあまあ。護る力、どんなもんか、見せてもらおうぜ?」


 3人はマット中央へ向かって歩き出す。

 空気が急激に歪む。


 ナンシーが前に出ようとしたその瞬間、肩に手が置かれる。

 ジョージだった。


 顔は変わらない。

 ただ、首を静かに横に振る。


「……大丈夫。下がってろ」


 そのまま、マットの中央へ向かって歩き出す。

 一歩ごとに、場の温度が下がるようだった。


 ナンシーは肌が粟立つのを感じた。

 理由はない。

 ただ、そこに立つジョージが、いつもと何か違っていた。

 無風の中に吹く、見えない冷気。


 男たちは一瞬だけ沈黙する。

 違和感に気づいたのだ。

 しかし、すぐに嘲笑で塗りつぶす。


「いいねぇ。じゃあまず、俺が——」


 1人目が腕を振り上げて踏み込んできた瞬間。

 視線が交錯する。


 冗談も怒りもない。

 そこにあったのは、人の皮をかぶった《何か》だった。


 ジョージは体をわずかに捻り、拳を避ける。

 すれ違いざまに腕を受け、肩の支点を制しながら流す。


 男は自重に引き倒されるように崩れ落ちた。

 音もなく。反応もできず。


 関節の痛みより、自分の意志では止められなかったことの方が恐ろしかった。


――1.8秒


 2人目が怒声とともに突っ込む。

 ジョージは正面に立たず、斜め前へ踏み出して動線を切る。

 肩を指先で抑え、腰を落とし、膝裏を払う。


 男は自然に崩れ、座り込むように倒れた。


――3.9秒


 3人目が一歩踏み出す。

 拳を構えるが、躊躇が混ざっていた。

 ジョージは腕を払って避け、その背後に回る。


 肩を抱え、両腕を交差して胸元を固める。


――5.2秒


「動くな」


 低く、抑えた声が耳元に落ちる。

 男は言葉を飲み込んだ。


「……リリー、大丈夫。今のは……練習だよ」


 ジェシカが耳元で囁く。

 ジョージの動きはあまりに滑らかで、危険とは映らなかった。

 しかし、教室の空気は確かに変わっていた。


 ジョージは3人目を静かに解放し、一歩だけ後ろに下がる。

 男は動かず、数秒後、小さく咳をして立ち上がった。


「……わ、悪かった。

 試しただけなんだよ、な?」


 震えた声。

 目には怒りも羞恥もない。

 ただ“理解できない恐怖”だけが浮かんでいた。


 他の2人もふらつきながら立ち上がり、肩を貸し合って扉へ向かう。


「行こう……あいつ、マジでヤバい……」

「わかったって、くそ……なんだよあれ……」


 振り返ることなく、ジムを出ていった。

 自分たちが存在していた痕跡ごと、消したがるような逃げ方だった。


 静まり返った空間。

 ナンシーがスマホを手に近づき、小さく問いかけた。


「……警察、呼ぶ?」


 正しい判断だった。

 しかし、ジョージは首を振る。


「……もういい。

 あれ以上は、自分で学ぶ」


 そう言い残し、歩を引く。


 顔には何の感情もなかった。

 ただ、日常の仮面が戻るだけだった。


 生徒たちは口を閉じたまま見つめていた。

 誰一人「怖い」とは言わなかった。

 ただ、“何かが起きた”ということだけを、確かに感じていた。


「うぉっ! やっぱすげぇーー!!」


 ワラビーの声が弾ける。

 それを合図に、生徒たちから感嘆の声が上がった。


 ナンシーは無意識に呟いていた。


「……ジョージ、あなた、何者なの……」


 その声は、ジョージの耳に届いていた。


 しかし、振り向かない。

 ただ左の掌を見つめていた。


 そこにまだ、戦場の熱が残っていた。

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