夕方。
グレナンズ・フィットネスには、ゆるやかな熱気が漂っていた。
壁に掲げられたロゴの下、生徒たちは談笑しながらマットに腰を下ろしていく。
ジョージは少し大きめの道着に身を包み、無言で準備を整えていた。
袖は長い。ネット購入の誤差。しかし、気にした様子はない。
腰に黒帯を巻き、鏡越しに一度だけ目線を送る。
マットの隅には、ジェシカとリリー、そしてワラビー。
ジェシカは得意げに妹へ基本姿勢を教え、リリーは真剣な瞳でそれを見上げている。
ワラビーは隣の少年に向かい、ジョージに投げられたときのことを熱を込めて語っていた。
「今日は、背後からの拘束に対する防御法だ」
ジョージの声は低く、乾いていた。
しかしその一言で、生徒たちの背筋が自然と伸びる。
輪が整い、空気がひとつにまとまっていく。
そのとき。
ガラス扉が叩きつけられるように開いた。
ジム内のざわめきが、一瞬で凍りつく。
入ってきたのは、場違いな空気を纏った三人組。
スカジャン、破れたジーンズ、無精髭、サングラス。
見た目に差はない。リーダーの区別もつかない。
「よぉ、護身術って聞いて来たんだけどさ。
俺らも“体験入門”ってやつ、やってみてぇんだよな」
1番背の高い男が、作った笑顔でマットを靴のまま踏みつける。
生徒たちは硬直し、ナンシーが眉をひそめた。
ジョージは何も言わず、ほんのわずかに立ち位置を変える。
朝に読んだ要約記事が脳裏に浮かぶ。
(……ここで、か)
「なぁおい、マジでこいつが先生か? ちっさ……」
1人がジョージを指差し、吹き出す。
「ガキの護身術じゃね?
ママに連れられて来ましたってか?」
「まあまあ。護る力、どんなもんか、見せてもらおうぜ?」
3人はマット中央へ向かって歩き出す。
空気が急激に歪む。
ナンシーが前に出ようとしたその瞬間、肩に手が置かれる。
ジョージだった。
顔は変わらない。
ただ、首を静かに横に振る。
「……大丈夫。下がってろ」
そのまま、マットの中央へ向かって歩き出す。
一歩ごとに、場の温度が下がるようだった。
ナンシーは肌が粟立つのを感じた。
理由はない。
ただ、そこに立つジョージが、いつもと何か違っていた。
無風の中に吹く、見えない冷気。
男たちは一瞬だけ沈黙する。
違和感に気づいたのだ。
しかし、すぐに嘲笑で塗りつぶす。
「いいねぇ。じゃあまず、俺が——」
1人目が腕を振り上げて踏み込んできた瞬間。
視線が交錯する。
冗談も怒りもない。
そこにあったのは、人の皮をかぶった《何か》だった。
ジョージは体をわずかに捻り、拳を避ける。
すれ違いざまに腕を受け、肩の支点を制しながら流す。
男は自重に引き倒されるように崩れ落ちた。
音もなく。反応もできず。
関節の痛みより、自分の意志では止められなかったことの方が恐ろしかった。
――1.8秒
2人目が怒声とともに突っ込む。
ジョージは正面に立たず、斜め前へ踏み出して動線を切る。
肩を指先で抑え、腰を落とし、膝裏を払う。
男は自然に崩れ、座り込むように倒れた。
――3.9秒
3人目が一歩踏み出す。
拳を構えるが、躊躇が混ざっていた。
ジョージは腕を払って避け、その背後に回る。
肩を抱え、両腕を交差して胸元を固める。
――5.2秒
「動くな」
低く、抑えた声が耳元に落ちる。
男は言葉を飲み込んだ。
「……リリー、大丈夫。今のは……練習だよ」
ジェシカが耳元で囁く。
ジョージの動きはあまりに滑らかで、危険とは映らなかった。
しかし、教室の空気は確かに変わっていた。
ジョージは3人目を静かに解放し、一歩だけ後ろに下がる。
男は動かず、数秒後、小さく咳をして立ち上がった。
「……わ、悪かった。
試しただけなんだよ、な?」
震えた声。
目には怒りも羞恥もない。
ただ“理解できない恐怖”だけが浮かんでいた。
他の2人もふらつきながら立ち上がり、肩を貸し合って扉へ向かう。
「行こう……あいつ、マジでヤバい……」
「わかったって、くそ……なんだよあれ……」
振り返ることなく、ジムを出ていった。
自分たちが存在していた痕跡ごと、消したがるような逃げ方だった。
静まり返った空間。
ナンシーがスマホを手に近づき、小さく問いかけた。
「……警察、呼ぶ?」
正しい判断だった。
しかし、ジョージは首を振る。
「……もういい。
あれ以上は、自分で学ぶ」
そう言い残し、歩を引く。
顔には何の感情もなかった。
ただ、日常の仮面が戻るだけだった。
生徒たちは口を閉じたまま見つめていた。
誰一人「怖い」とは言わなかった。
ただ、“何かが起きた”ということだけを、確かに感じていた。
「うぉっ! やっぱすげぇーー!!」
ワラビーの声が弾ける。
それを合図に、生徒たちから感嘆の声が上がった。
ナンシーは無意識に呟いていた。
「……ジョージ、あなた、何者なの……」
その声は、ジョージの耳に届いていた。
しかし、振り向かない。
ただ左の掌を見つめていた。
そこにまだ、戦場の熱が残っていた。