雨の音だけが揺れる夜、泣き声を残して捨てられた幼子は、森の灰狼に見つかった。
爪が土を引っかく微かな震え、鼻先に触れる温かな吐息──それがライルの最初の世界だった。闇しか知らない彼の耳と皮膚は獣の気配を正確に写し取り、やがて狼たちの短い唸りや尾を打つ風切りで“言葉”を読み取るようになる。
十歳の頃、旅商団が森へ迷い込んだ。
焚き火の香りに腹を鳴らしながらも、ライルは茂みの陰で震えた。見知らぬ人間に近づく勇気が、まだなかったからだ。けれど団長セルバは気づいて声をかける。
「怖くない。出ておいで」
柔らかな呼吸と薪を組む音──優しさを信じて一歩踏み出すと、肩に毛布を掛けられた。
「名前は?」と尋ねられ、言葉が出ない。
「なら、ライルでいいさ」
そうして与えられた名が胸に灯り、弱く小さな声で「…ライル」と真似た。
セルバは読み書きと剣を教えた。
目は見えなくても、空気が押し返す重さで刃の軌道を感じ取れる。
鈍く震える床板、相手の呼気、剣先に集まる魔力のざわめき──それらを重ねれば死角はない。けれどライルはいつも「もし失敗したら」「誰かを傷つけたら」と躊躇し、稽古後に小さく謝る癖があった。
旅の護衛で盗賊に襲われた夜、セルバは背中を押す。
「怯えてもいい。けど、守るために振るえ」
ライルは震える足で一歩踏み出し、風の裂け目を斬った。狼が教えてくれた跳躍が盗賊の懐へ滑り込み、一振りで鎧を裂く。息を呑む静寂の中、ライルは剣を伏せて小さく頭を下げた。「ごめんなさい……」 それが彼の強さと気弱さを示す初陣だった。
二十二歳。
ギルド本部の試験場には、目隠しをしたままの青年が立つ。見物人はざわめいた。生まれつき盲目など聞いたことがない。
模擬戦が始まる。木剣が唸りを上げて迫るたび、ライルは半歩退き、風向きの皺を裂き、恐る恐る打ち返す。三合、五合──木剣が跳ね飛び、観衆の息が止まった。
審査員が宣言する。
「ゴールドランク、認定だ」
歓声の中で、ライルは胸元を押さえ小さく息を吐く。ただ生き残れた安堵でいっぱいだった。
それでも夜更け、一人きりになると胸に残る渇きが疼く。
世界はどんな色なのか。空は本当に高く、花は本当に美しいのか。
見えないまま知った気弱な剣士は、答えを探す旅に出る決心をする。森の遠吠えを背に、静かに剣を携え、まだ知らない匂いの方角へ歩き出した。