その頃の私の表情は、誰が見ても「暗い」表情だったと思う。公園のベンチに腰を掛け、自動販売機で買ったジュースを飲んでいた時のことだった。黒い袈裟を着た一人の僧侶が、
「あなた、随分と悩んでおられるでしょう?よかったら、私が話を聞きますよ。」
と声を掛けてきた。話すつもりなどなかったが、今の私には、誰もいなかったから、つい話してしまった。
「あ、…!お時間、大丈夫ですか?」
長々と話し込んでしまい、僧侶の時間のことを気にしていなかった。
「…そうですね。それでは次は、私のお寺まで来なさい。」
とお寺の住所が書かれたメモを渡された。お寺の名前はなんとなく聞いたことがある程度で、行ったことはなかった。
ついでに話しておくと、私は無宗教派である。母親は新興宗教にはまっており、私にも入るように勧められたが、断ったのだ。
数日後、私は渡されたメモを頼りに、お寺まで行ってみることにした。
「そう言えば、お坊さんの名前、聞いてなかったな…。」
すぐに分かるだろうか?などと思いながら、お寺までの道を歩く。
お寺が見えてきた。先日会った僧侶はお寺の回りを箒で掃除していた。
「先日はありがとうございました!」
「来てくれたかい。良かった、良かった!」
私はその時の、僧侶の言葉の意味が分からなかった。
「さあさ、上がりなさい。」
「…はい。」
靴を脱ぎ、入口に靴を揃えて置き、寺の中に上がる。
「まず、あなたに見せたいものがあります。こちらにおいでなさい。」
本堂を通り過ぎて、隣の部屋の壁にはたくさんのお面が飾られていた。
「あなたは、今日はどのお面をつけていますか?」
私ははっとした。お面は、笑っているお面、泣いているお面、怒っているお面、悔しそうな表情のお面、いろんな表情のお面があったのだ。
「…私は、知らずにお面をつけていたのでしょうか?」
「あなたはひとりで、ずっと堪えてきたのだと思います。せめて、私の前ではお面を外して、本当の表情を見せてください。」
「……!」
私は泣いてしまった。
「つらかったでしょう。これからはいつでも話を聞きますから。あなたはもう、ひとりで悩むことなどないのです。」
僧侶は私の肩をポンと軽く叩き、そう言った。
「あの、お名前、教えてください。」
「私ですか?私は
そうして私はちょくちょくお寺に通うようになり、精神科の受診頻度も少なくなり、ついには精神保健福祉手帳も市役所に返却したのだ。
薬も全く飲んでいない。体調も大分よくなった。
陳念さんに、お礼を言いに行こう。私はお寺に向かって歩き始めた。
お寺に着いたが、今日は陳念さんの姿は見えなかった。
近くにいた僧侶に
「あの、陳念さんは、今日はいらっしゃらないんですか?」
「ああ…、陳念は、五日前に亡くなりました。陳念から、きっとあなたが訪ねてくるだろうと言われておりました。実は陳念は、長い間難病を患っており、ずっと闘っていたのです。」
「…そんな!」
ぼろぼろと涙が溢れた。
「こちら、陳念から預かっていた手紙です。」
私はその手紙を受けとると、泣きながら家に帰った。
「あなたがこの手紙を読んでいる頃には、私はもうこの世にいないかもしれません。私もあなたに隠していたことがあります。もしかしたら、他の僧侶から聞いたかもしれません。私は難病を患っています。私自身も仮面をつけていたのかもしれません。私のことで泣く必要はありません。あなたは、あなたらしく生きてください。」
手紙を読みながら、涙が止まらなかった。
「私らしさ、ってなんだろう…。」
ポツリと呟いて、もう、返ってくることのない返事を待っていた。