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第3話 欠席の花婿


中野綾乃は、視界が戻った衝撃からまだ抜け出せずにいた。


黒川真太が突然、彼女の方に顔を向ける。


その顔は、いまだ白い霧に包まれていて輪郭すらはっきりしない。


だが、彼の視線だけははっきりと感じ取れた。まるで断崖絶壁の下にある底なしの冷たい湖のようで、ただ一度目が合っただけで、魂まで粉々に砕かれそうなほどだった。


その瞬間、全身を貫くような冷たさに襲われ、綾乃は思わず身を引いた。


だが顎を大きな手でぐいと掴まれ、骨が軋むほどの力で動きを封じられる。


激痛が走る。


「いいだろう、結婚しよう」


男の顔がぐっと近づき、低く艶のある声が冷たく響いた。


「綾乃さん、もっと食べて、しっかり体力をつけておくんだ。これから……ゆっくり、遊ぼうじゃないか」


そう言って、黒川真太は親しげに彼女の頬を軽く叩き、車を降りた。


極限まで張り詰めた神経に、強烈な吐き気が込み上げてくる。


隣にいた護衛が素早く車内のゴミ箱を差し出した。


綾乃は身をかがめて吐き、ようやく目の前の景色が鮮明になる。


顔を上げると、車のドアのところに立つ男の背中が見えた。


すらりとした長身に冷ややかな雰囲気。


黒の装いに片手をポケットに入れ、無造作な立ち姿のまま、眩しい光の中へと歩み去っていく。コートの輪郭さえもぼやけて見えた。


まるで地獄から来た使者のように、足音まで骨の髄まで冷たかった。




三日後。


静かな山林に囲まれたリゾート地。


林の中を抜ける舗装道路の先に、イタリア風の壮麗な邸宅が姿を現す。


両側に並んだ執事たちが門を開き、婚礼の客を迎えていた。


綾乃は純白の刺繍ドレスを身にまとい、数少ない出席者の視線を浴びながら、ゆっくりと煌めく光の中へと歩を進めた。


会場では一流の楽団がロマンチックな旋律を二度繰り返し、やがて静寂が訪れる。


客たちは互いに顔を見合わせていた。


新婦の隣には、華やかな衣装の老夫婦が気まずそうな顔で立っている。


そこには花嫁だけで、花婿の姿はどこにもなかった。


綾乃の視力はすでに戻っていたが、役目を果たすため、あくまで目の見えない花嫁を装い、場の気まずさには気付かぬふりをして、ただじっと立ち尽くしていた。


執事の山本武志が慌ててやってきて、老夫婦に小さく首を振る――若様の姿は見当たりません、と。


黒川玉子はそれを聞いて、目の前が真っ暗になるほどに激昂した。


「さあ!縄を持って来なさい!あの馬鹿孫の部屋の前で、私が首を吊って見せるしかないわ!」


周囲は慌てて彼女をなだめる。


綾乃はその場に立ち尽くしたまま、視界の端で、上品な佇まいの中年女性が黒川玉子の元に歩み寄るのを見た。


女性は声を落として囁く。


「おばあさま、真太様の奔放な振る舞いは今に始まったことじゃありません。今日の出席者は皆身内ですし、外に漏れる心配はありません。形だけでも、式を済ませてしまいましょう」


「花婿がいないのに、どうやって式を進めろと言うの?」玉子は怒りを抑えきれない。


女性は中央に立つ綾乃をちらりと見やり、彼女が空ろな目で前を見つめているのを確認すると、小さく鼻で笑った。


「どうせ何も見えていないんですから、誰か適当な人に花婿の代わりをさせて式を終えればいいんです。おばあさまが気にしているのは曾孫のことでしょう?お腹の子さえ無事なら、何の問題もありません」


声は低かったが、綾乃にもはっきりと聞こえ、その無遠慮な物言いに心が冷えた。


「それではあの子があまりにも不憫じゃないか……」玉子は綾乃を見つめる。


彼女は背筋を伸ばし、ブーケを握ったまま、無垢で大人しそうな顔をしていた。その姿に玉子の胸は痛んだ。


「中野家なんて、もう何年も前に没落しているんです。今やただの孤児。黒川家に嫁げるだけでも、十分幸運な話ですよ。可哀想なんて、とても言えませんわ」


女性がさらに言葉を重ねる。


玉子は眉をひそめ、しばらく逡巡した末に、ついに黙認した。


そこで、黒川家は背の高い使用人女性を花婿の代役に立たせた。


指輪の交換、署名、公証……すべて形式通りに滞りなく進められる。


綾乃は黙って見知らぬ人の腕を取り、何事もないふりをして、茶番のような式を終えた。


そのまま新居へと案内される。




「奥さま、若様は急な用で今夜は戻られません。どうぞごゆっくりお休みください」


使用人がドア越しに声をかける。


結婚式では花婿が現れず、誰かが代役を務める。


そして新婚初夜も、夫の姿はどこにもない。


花嫁にとって、これほどの屈辱はない。


だが綾乃の心は、すでに波一つ立たないほど静まり返っていた。


誰が相手でも、この結婚を受け入れるしかなかった。これが、自分に残された唯一の道なのだ。


部屋の鍵をしっかり閉めてから、ようやく周囲を見回す。


豪華だが冷えきった新居。どこにも真太の写真も私物もない。ベッド一面にバラが敷き詰められていても、人の気配は感じられない。


皮肉なことに、法的には夫婦となったのに、彼の顔さえはっきりと見たことがない。ただ、ぼんやりとした輪郭だけが残っている。


ドレスを脱ぎ、パジャマに着替え、ベッドの端に腰掛けて、ポケットから小さな銅製の置物を取り出す。


赤ちゃんの拳ほどの大きさの、犬の形をした可愛らしいものだった。舌を出した愛嬌のある表情。


結婚指輪をはめた手で、冷たい銅の表面をそっと撫でる。


三日前の出来事が、鮮やかに蘇る。


あの日から、黒川家によってリハビリ施設に隔離された。


部屋の出入り口には厳重なガードが敷かれ、脱出など到底不可能だった。


執事の山本武志が弁護士を連れて現れ、冷たい声で言い放つ。


「中野さん、もう黒川家の奥様になる覚悟はできたようですね」


綾乃はその言葉が滑稽に思えた。


彼らは自分を閉じ込め、逃げもせず、泣きもせず、助けも求めない姿を見て、きっと自分が黒川家の名声や財産を狙っている、と決めつけているのだろう。


本当に、そうなのだろうか?


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