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第4話 結婚は授乳期が終わるまで


鈴木悠太の本性を見抜いたその瞬間から、彼女は何度も試みてきた。


あちこちに助けを求め、警察にも連絡した。だが——


鈴木悠太はわずか数言で、彼女の抵抗を「箱入り娘が現実に適応できず、わがままを言っているだけ」と仕立て上げた。


しかも、鈴木家はさほど裕福でないのに、没落した名家のお嬢様を引き取った、という話が美談として広まっていた。彼女の体中の傷も、視覚障害者によくある「ぶつけただけ」と片づけられてしまう。


鈴木悠太のもとでさえ逃げ出せなかった彼女が、権力を誇る黒川家から逃げ出せるはずもない。


彼女は静かに問い返した。


「私に逃げる道なんて、あると思いますか?」


山本武志は無言だった。


「こちらが結婚前の財産分与公正証書です。もう一つは若様と中野さん個人の取り決めとなります。お腹の子が若様の子であることが確認できれば、結婚生活は授乳期が終わるまで維持されます。」


弁護士が二通の書類を彼女の前に置いた。


「点字バージョンもご用意していますので、ご確認ください。なお、後者の内容は公にできません。外には通常の結婚とだけ伝えます。」


つまり、授乳期が終われば、彼女は一切の財産を持たずに追い出される、ということだ。


名家であればあるほど、計算は抜かりない。


「十五歳で失明してから、点字は覚えていません。」


彼女は淡々と告げた。


その場で弁護士が内容を読み上げる。読み終えても、彼女は微動だにしなかった。


「黒川家はあなたの生活費は責任を持って出しますが、無茶な要求は通りませんよ。」と山本が付け加える。


彼女は無言のままだった。


「中野さん、お腹の子がいなければ、あなたのように若様に罠を仕掛けた女など、黒川家なら一瞬で“事故”に遭わせることもできますよ。」


山本の語気が強くなる。


それでも彼女は揺るがなかった。


「もし結婚を拒むなら、黒川家は非嫡出子の誕生を決して許しません。強制的な中絶の結果は、あなたにとって命取りでしょう。」


弁護士がさらに追い詰める。


二人の脅しにも、彼女は頑としてサインしなかった。


ついに山本の忍耐が限界を迎え、少し声を和らげて言った。


「中野さん、正直に言いましょう。都心のマンションひとつなら用意できますが、それ以上は絶対に無理です。」


その時、窓の外から子どもたちが玩具を奪い合って遊ぶ声が聞こえてきた。


彼女はようやく口を開いた。


「私は、あの子たちの持っている玩具がほしいです。買ってくれたら、サインします。」


「な、何ですって?玩具……ですか?」


「はい。」


「……」


山本と弁護士は、彼女をまるで理解不能な狂人でも見るような目で見つめた。


結局、執事が玩具を買い戻してきた。


それは十二支の小さな銅器のひとつ——舌を出した子犬。余青という名工の作品。


かつては高値で取引された芸術品であり、彼女の父親が溺愛のあまり全セットを競り落とし、彼女の遊び道具として与えていたものだった。


中野家が破綻し、家族が離散し、すべてが消え去った。


あの銅器セットも四散した。リハビリ施設での三日間、毎日、下の階の子どもがその銅器を普通の玩具のように投げたりぶつけたりして遊んでいるのを見かけた。子犬の底はすでに壊れ、価値は失われていた。


今、黒川綾乃は婚礼用のベッドに座り、手にした失われていた子犬の銅器を撫でている。中野家の品に触れるのは、五年ぶりのことだった。


偽りの結婚だろうが、命を差し出せと言われようが、彼女は構わないと思えた。


この五年間、彼女はただぼんやりと生きていた。未来を考えず、中野家唯一の生き残りとして、亡き家族の代わりに息をつないでいた。


だが、鈴木悠太の出現が、そのささやかな願いすら徹底的に打ち砕いた。


ならば、生き方を変えるしかない。


光はすでに戻ってきた。灰の中から、必ずよみがえる!


疲れた身体をベッドのヘッドボードに預け、銅器を撫でる指先の力がだんだん抜けていく。眠気が押し寄せ、まぶたが重く閉じた……


「実の兄たちや従兄弟を合わせて、うちの家系で六人も男の子が続いて、やっと小七という宝物が生まれたんだ。そりゃあ、お姫様みたいに大事にするさ!」


「小七、泣いてるの?六番目がまたお前の十二支を取ったのか?泣くな泣くな、お兄ちゃんがすぐに懲らしめてやる!」


「おじいちゃんも言ってた。中野家を継ぐのは小七だって。小七が決めれば誰が社長でもいいし、小七がやりたければ、みんな譲らなきゃならないんだ!」


「綾乃、兄ちゃんは絶対にお前を守る。お前がいる限り、もう誰にも傷つけさせない。」


「綾乃、中野家って、昔は本当に大きな家だったんだな。他の財閥も敵わないくらい。破産する前に……何か良いもの隠してなかった?」


「落ちぶれた鳳凰は鶏にも劣る!まだ自分が中野家のお嬢様だと思ってるのか?中野家は終わったんだ!みんな死んだ!焼けて灰になった!」


「この役立たずの目が見えない女!五年間もウチの世話になって、男と寝て金稼ぐくらいどうってことないだろ!ウチを出たら、その目じゃ、底辺でしか生きていけない!」


夢と現実が入り混じる。


炎が空を覆い、無数の火の粉が階段に、木の枝に降りかかる……


やめて!もう焼かないで!


逃げて!お願いだから、みんな逃げて!小七は一人じゃ生きていけない……


黒い熱風が爆発のように襲いかかる!


「いやっ——!」


黒川綾乃は悪夢から目覚め、汗で体が濡れていた。


開けた目に映るのは、冷たく空虚な新婚の部屋。


いつの間にか雨が降り始め、葉や屋根を打つ音が静かな夜にいっそう響く。新しい部屋の重い静寂をかき乱していた。


綾乃はうつむき、手のひらで小犬の銅器を強く握りしめる。その美しい瞳は赤く潤み、まだ恐怖から抜け出しきれていなかった。


だが、手の中の銅犬を見つめる眼差しは、次第に鋭く、そして揺るぎないものへと変わっていく。


中野家が失ったものは、必ずこの手で取り戻す——そう、彼女は心に誓った。



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