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第5話 一口ごとに「奥様」


細やかな雨が夜の闇を包み込んでいた。


巨大な屋内プールは色とりどりのライトに照らされ、まるで喧騒のナイトクラブのような非日常的な雰囲気が漂っている。


若い男女たちは水に浸かりながら酒を飲み、ふざけ合い、水の中で鬼ごっこを楽しんでいた。目隠しされた女性が誰かを捕まえるたびに、その場で無邪気にキスを交わし、放縦な空気が満ちている。


爆音の音楽が空間に響き渡っていた。


黒川真太は部屋の隅のソファに沈み込み、グラスを持つ手を肘掛けに無造作に置き、磨き上げられたポインテッドトゥの革靴で床をリズムなくトントンと叩いていた。


彼の全身は薄暗がりに溶け込み、端正な顔立ちも影に隠れている。だが、その存在から発せられる近寄りがたい鋭い雰囲気は、姿がぼやけていてもはっきりと感じ取ることができた。


光と影が交錯する中、痩せ型で黒いパーカーをかぶった男が近づいてくる。


「若様。」


斎藤輝明がソファの横で立ち止まり、丁寧に頭を下げた。


黒川真太はうたた寝でもしていたのか、声に反応してゆっくりと目を開ける。その眼差しは静かで波立たない。


「若様、あの二人、しっかり調べました。奥様はあの夜以降、他の男とは一切関係を持っていません。お腹の子は、間違いなく若様の子供です。」斎藤が写真の束を差し出す。


黒川真太はグラスを放り投げ、写真を受け取ってざっと目を通した。


写真の中の鈴木悠太と鈴木成美は、顔が判別できないほどひどく殴られている。これほどまでに痛めつけられた後では、嘘を吐く余裕などないだろう。


「へぇ、最近は随分手荒になったな。」


黒川真太の声は冷ややかで、そこに情けは一切感じられない。


「若様のやり方を真似しただけです。」


斎藤が口の端を引きつらせる。「それと、鈴木悠太の証言ですが、奥様は一切この罠に関与していなかったそうです。むしろ、あの二人は奥様をしょっちゅう殴ったり、罵倒したりしていたらしいです。若様、奥様のために一発仕返ししておきましょうか?」


黒川真太はようやく重要な点に気づいたのか、斎藤を鋭く見上げた。


「奥様、だと?」


その視線に、斎藤の首筋に冷たい汗が伝う。まるで氷の刃で切り裂かれたような感覚だ。


「そ、それは…もうご結婚されてますし、若様の女性ですから、奥様と呼んだ方が…」


斎藤は内心で青ざめていた。長年黒川真太に仕えてきたが、暴力的で荒々しい性格のわりには、これまで女性の影など一切なかった。それだけに、たとえ奥様が過去に罠の片棒を担いでいたとしても、どこか違う存在なのかと勘繰っていた。


どうやら、それも間違いだったようだ。


「そうか?」


黒川真太は斎藤を睨みつける。「やたら“奥様”と呼ぶが、まるで子供を産む道具にご祝儀でも渡されたみたいだな。」


その声はさらに冷たさを増していた。


斎藤は全身の力が抜け、ソファに手をついてやっと立っている有様だった。やっと理解した。黒川家の「奥様」にとっては、復讐など意味がない。ただの道具扱いなのだ。


黒川真太は写真を投げ捨て、再びソファに身を預けて目を閉じた。


斎藤は横に立ったまま、心の中でぼやく。家で寝ればいいのに、なぜわざわざ騒がしいパーティーを開いて、爆音の中の片隅で寝ようとするのか。本当にこんなところで眠れるのか?家に帰ってあの“道具”の奥様を抱いて寝た方が、よほど安らかだろうに。


そんなことは口に出せず、斎藤はそっとその場を離れようとした。だが、ビキニ姿で濡れた女性が横をすり抜け、黒川真太の隣に座ってしまった。斎藤は止める間もなかった。


「黒川さん、一緒に遊びましょうよ?」


女は甘えるように身体を寄せ、シャツのボタンに指をかけてちょっかいを出す。


斎藤は思わず額を押さえた。今じゃないだろうに。


シャツが濡れて、せっかくの眠気が吹き飛ぶ。黒川真太は仕方なく隣の女を見やる。


彼の瞳は深い黒曜石のように澄んでいて、長いまつ毛の影がかかり、寝起き特有のけだるさが色気を帯びている。そのまなざしには、どこか危うい魅力が宿っていた。


女は一瞬で骨抜きになる。世間では黒川家の若旦那は冷酷非道と噂されているが…この目で見れば、なんと艶めかしいことか。せっかくこの場に潜り込んだのだから、手ぶらで帰るわけにはいかない。


「黒川さん、皆が言ってますよ。いつも一人で寂しそうだって。」


彼女は甘い声で探るように言う。


「さて、なぜだと思う?」


黒川真太は無表情で問い返す。


理由なんて決まってる。若様は自分の好きなようにしたいだけ。寝たいなら寝る。邪魔しないでくれ!斎藤は心の中で叫んだ。


だが女は、その問いを興味と受け取ったようで、まるで慰め役でも買って出るかのように、ぐっと距離を詰めてくる。


「お母様を早くに亡くされて、五年前に黒川家に戻ったと伺いました。きっと色々と大変だったんでしょう?もし誰かに話したいことがあれば、いつでも聞きますよ。」


おいおい、若様の母親のことに触れるなんて…と、斎藤は諦めて黙るしかなかった。


それを聞き、黒川真太は少し身を起こし、話題を変えた。


「鬼ごっこは飽きた。モグラ叩きでもするか。」


「いいですね。でも…ここにはゲーム機がありませんけど?」


女はきょろきょろしながら戸惑っている。


「来い。」


黒川真太は彼女の手首を掴み、プールサイドまで引っ張っていった。


プールでふざけていた人々は、黒川真太が近づくと一気に静まり返り、互いに顔を見合わせて水中で動けなくなる。彼がこっちに来るなんて、何事だ?


女は周囲の異変に気付かず、ただ黒川真太の美しい横顔に見とれていた。いろんな男を見てきたつもりだったが、黒川真太の前では呼吸さえ止まりそうになる。「黒川さん…きゃっ——!」


悲鳴が響き、女は黒川真太に蹴り飛ばされてプールへと落ちた。


黒川真太はプールサイドに立ち、長身のシルエットがライトに映し出される。


女は水面から這い上がり、怒りをぶつけようとしたが、黒川真太の冷たい視線と目が合った瞬間、「モグラ叩き」の意味を悟り、恐怖で逃げ出す。


音楽が止まり、場は静まり返った。


黒川真太はその様子を見ると、腹を抱えて豪快に笑いだした。笑いすぎて涙まで流している。


その頬を、一筋の涙が伝った。


斎藤輝明は、狂ったように笑う黒川真太を見て、さらに背筋が凍る思いだった。いや、狂っているのではなく、本物の変人なのだ。あの「奥様」が、はたしてこんな男に耐えられるのだろうか――


……


夜半を過ぎて目が覚めてから、黒川綾乃はもう一度も眠れずにいた。


ノックの音がした時、彼女はすでに身支度を終え、淡いラベンダー色のロングドレスに着替えてベッドの端に静かに座り、テレビのニュースを聞きながら情報を得ていた。


テレビの電源を切る。


「若奥様、もうお着替え終わってるんですね?」


家政婦の小泉久美子がドアを開け、目を丸くして驚いている。


黒川綾乃はきちんとした身なりでベッドの端に座り、穏やかで物静かな表情を浮かべていた。その所作には、どこか言葉にできない優雅さが漂っている。


「目が見えなくても、日常生活くらい自分でできます。」


黒川綾乃は微笑み、手首をそっと差し出した。そこにはわざとぶつけてできた赤い痕がある。日常生活の中で多少の怪我をしたことを示し、目が見えないふりを続けているのだ。視力が戻ったことは誰にも知らせたくなかった。この方が、人の本心を探りやすい。だが、何から何まで誰かの世話になるつもりもなかった。


「お怪我されたんですか?お腹に赤ちゃんがいるんですから、あまり無理しないでくださいね。」


小泉久美子はさらに驚く。


「大したことじゃありません。あとで杖を一本探していただけますか。」


黒川綾乃がそう言うと、小泉久美子はそれ以上は言わず、そっと彼女を手伝いながらダイニングへと向かった。



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