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第6話 いい日々はこれから


黒川家の本邸は驚くほど広く、廊下はどこまでも続いているかのようだった。時折、見知らぬ顔の使用人たちが行き交う。


突然妊娠して名家に嫁いできた盲目の女性に向けられる視線は様々だ。好奇、軽蔑、嘲り、同情……ひそひそ話もかすかに聞こえてくる。


「奥様はもう若様にすっかり失望したみたいね。目の見えない人まで家に迎え入れるなんて」

「結婚式は使用人と一緒にやって、新婚初夜もひとりぼっち。若様はあの人のことなんて何とも思ってないわ。これから苦労するだけよ」

「挨拶しに行く?」

「若様のことだから、何をしでかすか分からないし、数日後には奥様が変わってるかも。無理して関わる必要ないわよ」


小泉久美子は思わずその人たちをきつく睨みつけ、振り向いて少し乾いた声で黒川綾乃を慰めた。


「奥様、あんな人たちの話なんて気にしないでください。あなたはおばあさまが選んだ長男の嫁です。これからきっといいことがありますから」


振り返った瞬間、久美子は思わず息を呑んだ。黒川綾乃は一切動じることなく、静かな表情で堂々と歩みを進めている。周囲の噂や視線など、まるで気にしていない様子だ。その落ち着きはまるで嵐の中の月明かりのように、清らかで凛とした美しさがあった。


「はい」

綾乃は穏やかに微笑んだ。

「家の間取りを教えてもらえますか?」


あれだけ言われて、そんなことを気にするの?と久美子は戸惑いつつも、素直に答えた。


「おじいさまは去年アルツハイマーと診断されてから、おばあさまが本館は騒がしいと嫌がって、二人で東側の小さな洋館に引っ越されたんです」


綾乃はうなずいた。


「本館は全部で六階です。一階は共用スペースとゲストルーム、二階がご主人様の事務所、三階があなたと若様のお部屋、四階には美香さんと次男様、三女様が住んでいます。五階は使われていなくて、六階は千鶴さんと小さな若様のお部屋です」


久美子は少し間を置いて付け加えた。


「奥様、気分転換したい時は裏庭に行かれるといいですよ。テニスコート、アーチェリー場、スキー場、芝居小屋、劇場、植物園、それに動物園もありますから」


その言葉には、黒川家の人間関係が複雑だから、裏庭のほうが落ち着けるという親切な意図が込められていた。


深夜、眠れずにいた綾乃は黒川家について色々と調べていた。黒川家は約二百年の歴史があり、黒川真太の父・黒川正栄が財団を継いでからはますます繁栄していた。中野家が没落した後、黒川家は日本の財閥のトップに躍り出て、不動産、銀行、運輸、エネルギー、製造など主要な経済分野を握るようになった。


黒川正栄は五十歳を迎え、最初の妻と長男の黒川真太が失踪してからは再婚こそしなかったが、誰もが知る二つの関係があった。一つはかつて人気だった女優・黒川美香との間に生まれた息子と娘、そしてもう一つは秘書の黒川千鶴との間に生まれた息子。二人とも黒川家に住んでいるが、正栄は外では家族や親しい人としか紹介せず、正式な立場については語らない。


世間では、美香の息子・黒川雅彦が正栄に最も期待されており、今も海外で学んでいるため、美香が本妻の座に近いと言われている。しかし千鶴はまだ三十二歳で美しく、正栄の機嫌を取るのも上手い。将来がどう転ぶかは分からない。


断片的な情報だけでも、黒川家というのは一筋縄ではいかない場所だと綾乃には分かった。そこに気分屋の黒川真太までいるのだから、まるで虎穴に飛び込んだようなものだ。


だが、視力が戻って以来、綾乃の心には久しぶりに闘志が蘇っていた。もう怖くない。この道をどう進めばいいか、自分なりに考えがある。


「春初の間に着きました」


久美子が小声で知らせた。


広々としたダイニングは上品に飾られ、昨夜の婚宴で宿泊した客たちが朝食をとっていた。綾乃が現れると、一瞬場が静まり返り、すぐにいつもの空気に戻った。誰も彼女に興味を示さない。


壁際では、小さな男の子がバスケットボールを抱え、美しい瞳で綾乃を睨みつけている。隠しきれない敵意と不満がそのまま表情に出ていた。


「兄さんと結婚するために妊娠を盾にしたなんて、恥知らずめ!」


男の子は低く呟くと、手に持っていたバスケットボールを綾乃めがけて力一杯投げつけた。


久美子は驚いて息を呑み、綾乃を引っ張って避けようとした。しかし綾乃は何も聞こえていないかのように、空ろな目でまっすぐ前を見据え、足を止めることなく歩き続ける。


ボールは彼女の背中をかすめて床に転がった。


当たらなかった!


男の子は歯ぎしりして悔しがり、数歩で綾乃の前に飛び出した。足を伸ばして無理やり道を塞ぐと、久美子にも睨みつけて「手を出すな」と言わんばかりの態度を見せる。


久美子は顔を青ざめて綾乃を見つめ、小さく助けを求めるような声をあげた。


綾乃は全く気付かないふりでそのまま進む。男の子は勝ち誇った笑みを浮かべた——これで転ぶぞ、この女は!


まさに転びそうになったその瞬間、綾乃は足を上げて正確に男の子の足の上に強く踏みつけた。


「うわあああっ!」


悲鳴がダイニングの静けさを切り裂き、一斉に周囲の視線が集まった。


「何するの、うちの子に!」

華やかな美貌の千鶴が箸を放り投げて叫びながら駆け寄ってくる。


綾乃はしばらく男の子の足の上に足を乗せたままの状態で、やっと気付いたように申し訳なさそうに口を開いた。


「ごめんなさい、見えなくて」


「痛い!痛いよぉ!うぅぅ……」

黒川哲朗は足を抱えてその場で飛び跳ね、バランスを崩して「べちゃっ」と転び、さらに大声で泣き叫んだ。


「わあああああ!」


「早く!大西先生を呼んできて!」

千鶴は怒りと心配が入り混じった表情で綾乃を睨みつけ、慌てて息子を抱え上げて医者のもとへ向かった。



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