レストランの中は、一斉にざわめきが広がった。
小泉久美子は黒川綾乃を支えながら、近くの席に座ろうとした。そのとき、穏やかな女性の声がタイミングよく響いた。
「綾乃、こっちにいらっしゃい。」
綾乃が声のする方に顔を向けると、そこには43歳の元女優、黒川美香がいた。昨日、祖母に「新郎の代わりにメイドを使って結婚式の流れを進めては」と提案したのが彼女だった。今は上品な装いで、数人の親戚たちと食事をしている。
綾乃は言われた通り、その席に向かい座った。美香は優しげな笑顔で綾乃を見つめる。
「覚えてるかしら?私は美香よ。」
「美香さん、こんにちは。」綾乃は素直にうなずいた。
「ほら、この海老餃子、食べてみて。」美香は優しく取り分けてくれる。「さっきのこと、気にしないで。悪いのは綾乃じゃないわ。哲朗がやんちゃすぎるのよ。」
美香と仲の良い親戚たちも口々に続いた。
「そうそう、私もしっかり見てた。黒川哲朗がわざと転ばせようとしたのに、自分がやられたのよ。」
「千鶴さんは息子をすごく甘やかしてるから、綾乃も気をつけた方がいいわよ。」
「とりあえず何か食べて、部屋で休んだら?千鶴さんが本気で怒ると、お祖母様でも止められないかも。」
綾乃は黙って話を聞きながら、手探りで箸を取り、うつむいて静かに朝食を食べ始めた。
美香はしばらく綾乃を見て、軽く眉をひそめる。この新妻は、初めての家で理不尽な目に遭っても、一切動揺もせず、淡々と食事をしている。まるで何も感じていないようだ。
少し考えてから、美香は続けた。
「綾乃、あまり心配しないで。もし千鶴さんが無理を言ってきたら、私が黙っていないから。」
「ありがとうございます、美香さん。」綾乃は感謝の気持ちを込めてうなずき、さらにミルクケーキをひと口食べてから、小泉久美子に言った。
「これ、美味しいですね。もう一つ取ってもらえますか?」
美香は言葉を失った。真太は、こんな無表情な人を嫁にもらったの?
美香は次にどうやって千鶴と綾乃の間に溝を作ろうかと考えていた。すると、メイドがそっと近づき、彼女の耳元でささやいた。周囲には聞こえないが、綾乃の耳にははっきりと届いた。
「調べました、旦那様は今日の夜便で帰国され、到着後はそのまま楓林区へ向かうそうです。当面は自宅に帰られません。宿泊先はウィーン国際ホテル、行動は極秘。千鶴さんは何も知りません。」
美香の目が一瞬輝き、低い声で指示する。
「すぐに同じホテルの部屋を予約して。」
偶然の出会いを演出して、正栄の心を取り戻すつもりだった。
千鶴が現れてからというもの、正栄の気持ちはどんどん離れていき、二人の関係は冷え切っていた。もう別れ話が出てもおかしくない状況だった。もし子どもたちがいなければ、とっくに家から追い出されていたかもしれない。何としても正栄を取り戻さなくては。
「かしこまりました。」
メイドはすぐにスマートフォンを取り出して操作を始める。
綾乃は静かにミルクを口に運んでいた。
そのとき――
「綾乃!ご飯なんて食べてる場合?早く来て、哲朗がどんなひどい目に遭ったか見なさい!」千鶴が勢いよく戻ってきた。
綾乃は最後の一口のミルクを飲み干してから、慌てて立ち上がった。動揺した声で、
「ごめんなさい、千鶴さん、本当にわざとじゃないんです……」
そう謝りながら後ずさりし、無意識に美香の隣にいたメイドの腕にぶつかってしまった。その拍子に、メイドの手からスマートフォンが床に落ちてしまう。
千鶴は綾乃を追い詰めようとしていたが、ふと落ちたスマートフォンの画面が目に入り、動きを止めた。疑いの目でスマートフォンを拾い上げ、画面を数秒見ただけで、美香に鋭い視線を向ける。
「何よ、美香さん。何で楓林区のホテルなんて予約してるの?」
美香は柔らかな笑みを崩さずに答える。
「あちらで素敵なコンサートがあると聞いて。」
「正栄がもうすぐ帰ってくるのに、コンサートなんて悠長なこと言ってる場合?絶対に何かあるはず!」
千鶴はもう綾乃のことはどうでもよくなったようで、スマートフォンをテーブルに放り投げ、そのまま足早に部屋を出ていった。
美香は千鶴の後ろ姿を見送りながら、悔しさで震えていた。メイドを鋭く睨みつける。
「全く、スマートフォンひとつまともに持てないのね。」
メイドは困惑した表情を浮かべる。まさか視覚障害のある綾乃が突然ぶつかってくるなんて、想像もしていなかった。
綾乃はその場で戸惑った様子のまま立ち尽くし、美香までもが急いで出て行くと、ゆっくり背筋を伸ばした。
「怖かった……」小泉久美子がそっと近づき、安堵の息をつく。「奥様、運が良かったですね。千鶴さんに目をつけられたら大変なことになってましたよ。」
綾乃は耳たぶを軽くつまみ、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「ええ、本当に運が良かった。」
――
昼下がりの東京には、穏やかな日差しが降り注いでいた。車が街路を走り抜け、窓の外には木漏れ日が流れていく。
「私はただお見舞いに行くだけ。あなたが付き添う必要はないわ。」
後部座席に座った綾乃は、淡々とした口調で言う。
小泉久美子は、あんこ餅を小さくかじりながら答えた。
「ダメですよ、奥様。奥様は目が不自由なのですから、お祖母様からも付きっきりでお世話するように言われてます。」
綾乃はそれ以上何も言わなかった。祖母が選んだ付き人なら、黒川家の他の誰よりも信用できる。少なくとも、子どもが生まれるまでは、祖母はお腹の子を大切にしてくれるだろう。害を加えることもない。
車はやがて、ある個人病院の前に到着した。
久美子が綾乃を支えて院内に入り、天井から降り注ぐ光が床を明るく照らしていた。
二人で廊下の角を曲がると、近くの診察室のドアが半開きになっていて、中からおずおずとした声が聞こえてきた。
「黒川様、このムチの使い方は……力加減を間違えると、ご自身が怪我を……す、すみません、余計なことを言いました。すぐに包帯を巻きます……」
最近、「黒川」という名前に敏感になっていた綾乃は、思わず耳を澄まし、ドアの中を見つめた。
中では、マスク姿の医師が額に汗を浮かべ、手を震わせて目の前の男の怪我を手当てしている。綾乃の位置からは、無造作に組まれた長い足と、黒いスラックスの折り目、そして伸ばされた手の甲が見えた。そこは血で赤く染まり、ひどく傷ついている。
消毒液が傷口に滴る音がするが、男からは痛みをこらえるような息遣いすら聞こえてこない。まるで、痛みなど感じていないかのようだった。
……黒川真太、なのか?
綾乃は足を止め、じっとその姿を見つめた。