「どうかしましたか、奥様?」
久美子が振り返り、綾乃の手を取った。
綾乃は視線を引き戻し、心の中で「黒川という名字の人間なんて他にもいるわ」と自分に言い聞かせる。
そのまま前へ歩いていく。
「303号室、着きましたよ」
久美子が綾乃を支えながら病室の前で立ち止まる。ノックしようとした瞬間、綾乃は正確にドアノブに手をかけた。
そっと押すと、ドアが静かに開いた。
久美子は目を見開く。「奥様、方向感覚がすごい……」
窓から光が差し込む明るい病室には、ベッドが二つ並んでいる。ベッドの上には包帯だらけの鈴木悠太と鈴木成美。石膏で手足を吊られ、まるで壊れたミイラのような有様だ。見るに堪えないほどの惨状だった。
そして窓際には、白髪混じりで憔悴しきった中年男性――洋平が、古びたスーツケースを手にただ呆然と立ち尽くしていた。
「ガタン!」
綾乃が入室した瞬間、洋平の目に涙が浮かび、膝から崩れ落ちて床に額を打ちつけた。その体は恐怖に震えている。
久美子はその様子に驚き、言葉を失う。「こんな大げさなこと……」
綾乃は久美子の手を放し、携帯用の白杖を取り出すと、跪く洋平をまるで見えていないかのように素通りし、二つのベッドの間を歩いていった。
ベッドの上では、かろうじて息をしている悠太と成美が横たわっている。
悠太の顔は殴られて原型を留めておらず、腫れて変形し、紫色の痣が広がっている。目は腫れあがり、細い隙間しか開いていない。口元からよだれがだらだらと垂れている。
この顔を見て、綾乃の脳裏には過去一年の出来事がフラッシュバックする。皮肉で、そして吐き気すら覚える。
かつて、彼女は悠太の偽りの優しさを心から信じていた。突然失明し、何も持たない少女だった自分を、彼は甲斐甲斐しく世話し、慰めてくれた。そんな人に心を動かされないはずがなかった。
暴力を受けた最初のときですら、「自分が彼の負担になっているせいかもしれない。彼女になれば、きっと良くなるはずだ」と、愚かにも思い込んでいた。
だが、あの夜、自分のベッドで成美と悠太が関係を持ちながら、「何も持たない落ちぶれ令嬢をどう始末するか」とゲラゲラ笑いながら話しているのを聞いて、全てが崩れた。
綾乃の「視線」を感じて、悠太は恐怖におののきながら腫れた目を必死に開き、恨めしそうに睨みつけた。
「お、お前……」
綾乃はその視線をようやく外し、静かに微笑む。
「悠太。私が無事でいるのが、そんなに意外?」
「このクソ女!」
隣のベッドの成美が、かすれた声で叫ぶ。
「黒川家があんたを許すはずないでしょ!」
まさか……あの黒川真太が手加減するわけがない。無傷で済むはずがない、子どもも失ったんじゃ……
綾乃は黙ってその場に立ち、白杖を伸ばして、空中で左右にゆっくりと振る。そのたびに、二人のギプスの上に正確に杖が当たる。
「うぐっ!」
「いっ……!」
二人は痛みに体を痙攣させるしかない。
久美子は横で見ているだけで、思わず体をすくめてしまう。
もはや二人に抵抗する力はなく、かすれた声で呪いの言葉を吐くことしかできない。
だが、綾乃は何も聞こえないかのように、淡々と白杖を動かし続けた。
「本当に、感謝しなくちゃね」
「今の私は、黒川家の長男の嫁よ」
「な、なに……?」
悠太と成美は目を見開き、次の瞬間また激痛に身を震わせる。
「そんなに驚かないで」
綾乃は一呼吸おいて、はっきりと告げた。
「私がこうしていられるのは、二人のおかげだもの」
「だから、私、黒川綾乃が生きている限り、絶対に二人のことは――」
その言葉と同時に、綾乃の白杖が成美の足を吊る支柱を狙って一撃。
「ぎゃあっ!」
成美は虚ろな悲鳴を上げ、白目をむいてそのまま気を失った。
「ごめんなさい、うっかりして……」
と、綾乃はわざとらしくつぶやきながら、悠太のベッドに「探るように」近づく。
「やめてくれ!」
悠太は怯えた叫び声を上げる。
「来るな、頼むから……!」
ベッドの上で、這いずるように体を逃がそうと必死だ。
綾乃は無表情で悠太のベッドサイドに立ち、手探りで点滴の針を見つけ、そっと左右に揺らす。
「うわぁっ!」
悠太も白目をむいて気絶した。
その一部始終を目撃した久美子は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
病室は、ようやく静寂に包まれる。
綾乃は白杖をゆっくりと畳み、背筋を伸ばす。
二人はすでに真太から半殺しにされていたから、彼女にできることはほとんど残っていなかった。
「バン、バン、バン!」
沈黙していた洋平が、床に頭を何度も打ちつける。
声を震わせながら言う。
「お嬢様、本当に申し訳ありません。ご先代様にも、お祖母様にも……」
綾乃はゆっくりと顔を向け、洋平の白髪交じりの頭をじっと見つめた。