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第9話 鈴木さん、私、妊娠しました


しばらくして、綾乃はゆっくりと鈴木洋平の前まで歩み寄り、腰をかがめて彼を支え起こした。優しく穏やかな声で言う。


「鈴木さん、私は一度もあなたを責めたことなんてありません。あなたがいなければ、五年前に私はもう死んでいました」


五年前、中野家は没落し、突然目が見えなくなった彼女を世間は遠ざけた。ただ一人、鈴木洋平だけが彼女を守り続けてくれたのだ。


自分の息子である悠太以上に、彼女の世話に心を砕き、介護人を手配し、質素な生活をしながらも彼女の栄養だけは欠かさなかった。


やがて悠太が彼女の世話を「引き継ぐ」と、洋平は外で働くようになった。少しでも彼女のためにお金を稼ごうと、必死になって働いた。しかし、その間に悠太は二人の連絡を断ち、洋平は彼女に何が起きていたのか、まったく知らなかった。


綾乃が彼と再び連絡を取れたのは、つい最近のことだった。


「すべて私のせいです!まさかあの子が外で何年も過ごすうちに、こんな化け物みたいな人間になるなんて……あなたにこんな苦労をさせて、本当に申し訳ありません……」 


鈴木洋平は立ち上がろうとせず、何度も何度も頭を床につけて謝る。


「あなたはご主人と奥様が大事に育てた、まさに本物のお嬢様なのに……私のせいでこんな目に遭わせてしまって……必ず償います。ご主人と奥様のご遺志にも、必ず報います!」


「どうやって償うの?彼らを殺して自分も死ぬつもりですか?」


綾乃は静かに彼を見下ろしながら淡々と問いかける。彼の忠誠心をよく知っているからこそ、その覚悟も分かっていた。


「昔、妻が早産で意識を失ったとき、奥様は産後間もない体で一昼夜付き添ってくれました……そのせいで身体を壊してしまったくらいです……」


洋平は涙を流しながら続ける。


「悠太が学校でトラブルを起こして多額の賠償金が必要になった時も、ご主人がすぐに支払ってくださり、二年間も自分のもとで面倒を見てくれました……」


「……私たちはあなたにどれだけ感謝しても足りません。あんな人間以下のことをした悠太は、死んでも償えない!」


洋平は胸を叩き、悔しさに身を震わせる。


綾乃の母は有名な医師、父は名の知れた実業家。二人とも分け隔てなく人を大切にし、家族のように接してくれた。両親の思い出話を聞きながら、綾乃の指先が微かに震える。目は翳り、沈んだ表情を浮かべた。


しばらくして、彼女は苦笑いを浮かべる。


「でも鈴木さん、私はもうお嬢様なんかじゃありません。五年前から、もう違うんです」


それを聞いて、洋平はさらに激しく泣き崩れる。


「悠太に殴られるたび、いろんな病院に連れて行かれました。あとでこれらの診断書を集めて、証拠として警察に提出しましょう」


綾乃は淡々と自分の計画を話す。


「それだけじゃ足りません、お嬢様……」


洋平は自責の念でいっぱいだった。自分が育てたせいで、彼女がこんな苦しみを味わうことになったのだから。


「十分じゃなくても、今はそれしかできません」


綾乃は小さく息を吐き、そっと自分の下腹部に手を当てる。


「鈴木さん、私、妊娠しました」


洋平は涙に濡れた目を大きく見開き、信じられないという表情で彼女を見つめた。


「つまり、中野家に……新しい命が生まれるということです。もう一人、家族が増えます」


綾乃は苦しみを秘めた瞳で彼を見つめながらも、どこか揺るぎない強さを感じさせた。


「これは、いいことなんです。だから、私はやり直したい。でも今の私には何の後ろ盾もない。誰かの手助けが必要なんです」


最初は、この予期せぬ命を諦めようと思ったこともあった。でも、視力を取り戻してからは、心の奥底に新たな希望が芽生えた。


「そ、それが……どうしていいことなんですか。この子はつらい形で授かったのに……」


洋平は深い後悔に沈みながら、ようやく気づいた――綾乃の視線が、はっきりと自分を捉えていることに。


驚きのあまり、お嬢様、と声を震わせる。


「もしかして、目が……?」


「見えるようになったんです、鈴木さん」


綾乃は微笑みを浮かべる。


「ほんとうに?!」


洋平は歓喜のあまり、膝をついたまま彼女の腕をぎゅっと掴む。


「よかった……本当によかった!」


「ええ」 


綾乃は静かにうなずいた。


そのとき、「ゴン」という小さな音がした。


二人がそちらに目をやると、久美子がこっそり部屋を出ようとしてドアの枠にぶつかったところだった。


二人の視線が同時に向くと、久美子は顔面蒼白になり、今にも泣きそうな顔で言う。


「奥様……何も聞いてませんから……!」


まさかこんなことになるなんて!


久美子はただ平凡な生活を望んでいただけだ。卒業後、両親と一緒にいたくて黒川家に勤めることにした。


広い屋敷に住み、高い給料をもらい、仕事もそこまできつくない。両親には「人付き合いが下手なんだから、豪邸勤めなんて長く続かないぞ」と心配されたが、今どきそんな時代じゃないと気にも留めなかった。


でも今、彼女が見聞きしたのは……新しく来た奥様が盲目のふりをしていたこと!


しかも患者を二人も気絶させてしまい、「何の後ろ盾もない」「これからやり直す」なんて……黒川家で一体何が始まろうとしているのか? それを全部聞いてしまった自分は……消されるんじゃないの!?


綾乃は怯えきった久美子にゆっくり近づいた。


その瞳は澄んで鋭く、もう盲目の面影はどこにもない。


「本当は隠しておきたかったけど、あなたは毎日そばにいるから、いずれバレてしまうと思ってた」


言葉にならない圧迫感が、じわりと久美子に迫る。


久美子は背中をドアにぴったりつけ、悠太のときと同じように情けない声を上げる。


「来ないで!お願い、来ないで……叫びますから!本当に叫びますから……」


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