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第10話 あの火事


黒川綾乃は彼女の前に静かに立ち止まった。スカートの裾がふわりと揺れ、その表情は冷ややかだった。


「ああっ——!」小泉久美子は足元が崩れ、その場にへたり込んで気を失ってしまった。


これで病室で倒れるのは三人目だ。


綾乃は少し呆れたようにこめかみを押さえた。まったく……みんな、肝が小さいわね。




水面にきらめく光が映り、半開きの窓からそよ風がそっとレースのカーテンを揺らす。


綾乃は畳に座り、白い手でそっと袖をまくると、茶箸で丁寧に茶葉を選び始めた。摘み取られた茶葉はどれも均一な色をしており、形も美しい。傍らの湯沸かしからは湯気が立ち上り、泡が蟹の目のように膨らんでいく。


久美子は向かいに座り、ノートを抱えて綾乃の一つ一つの所作を熱心に書き留めている。


「お茶を淹れる姿、すごく素敵です……」


思わず声が漏れた。


綾乃の手はとても白く、指の形も美しい。だが、細かな切り傷や擦り傷が無数にあり、家で庭仕事をしている山田さんよりも傷が多い。とても二十歳の女の子の手には見えない。


けれど、じっと見ていると、その傷跡さえも優雅な動きの中では気にならなくなる。


「綾乃でいいわよ」


綾乃は彼女を一瞥し、もう「お嬢様」と呼ばなくていいと目で伝えた。


久美子は頬杖をつきながら綾乃を見つめる。目の前の綾乃は、忍耐強く、静かな人だった。あの日、病院で全てを淡々と説明してくれたように、疑問を一つ一つ解きほぐしてくれた。気が付けば、完全に信用していた。


彼女が目が見えないふりをしていたのも、何かを企むためではなく、黒川家で無用なトラブルを避けるためだった。


だからこそ、結婚式で腕を組んでいたのが本当はただのメイドだと知っていても、儀式にはきちんと付き合った。


綾乃はただ黒川家を足がかりに再出発し、中野家から流出した古い品々を一つずつ取り戻し、いつか京都の故郷へ帰したい――それだけが望みだった。




「ア、ヤ、ノ」


久美子は一音ずつ名前を呼びながら、静かに言った。


「調べてみたんだけど、中野家ってもともと日本有数の大富豪だったんでしょ?家の物はどれも値がつけられないほど貴重。でも、今の綾乃の財力じゃ……箸一本だって買い戻せないよ」


「財力」なんて言葉すら大袈裟で、ほとんど無一文で黒川家に嫁いできたのだ。黒川家も最低限の生活しか保障してくれない。




「やってみないと分からないものよ」


綾乃は淡い笑みを浮かべ、湯の泡が魚の目のように大きくなったのを見て茶葉を洗い始めた。


「お金を稼ぐのって大変だし、そこまでして……何の意味があるの?」


久美子にはその気持ちが分からなかった。


中野家はもう没落し、人もいない。必死でお金を稼いで、古い品を一つずつ探し出すなんて……。


想像しただけで、疲れてしまう。




その言葉に、綾乃の手がほんのわずかに止まった。


熱湯が指先を焼くように痛い。しかし、手を引っ込めることなく、茶葉を洗う手は止まらない。声は静かで、波一つ立たない。


「だって……人は、もう戻らないから」


中野家の二十三人は、あの爆発とともに燃え盛る炎に呑まれて亡くなった。


遺骨すら判別できず、彼女が取り戻せるのは、もはや色褪せた冷たい品々だけ。




久美子は呆然と綾乃を見つめ、思わず言葉を失った。慰める言葉が見つからない。


しかし、綾乃はあっさりと話題を変えた。


「もういいわ。真太のことを教えて」


「え?」


久美子はきょとんとした。旦那様は結婚後一度も顔を見せず、綾乃も彼のことを話題にしたことがない。どうして急に……?


「何でもいいの。知っていることを話して。些細なことでも役に立つから」


「そ、そうだよね。夫婦だもんね……」


久美子は髪をいじり、唇を噛みしめてしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。


「黒川グループの弁護士団って知ってるでしょ?」


綾乃は頷いた。


「黒川家は、全国一の弁護士数を誇る財閥よ」


ネットでは「最強法務部」とも揶揄されるほどだ。




「そうそう。でもね、うちの若様の個人弁護士団の人数は、財閥の弁護士全員の……」


久美子は指を二本立てて見せた。


「四倍もいるの!」


「……」


「財閥が弁護士をたくさん雇うのは、会社が大きくて仕事が多いから。でも、若様が個人でそれだけ雇う理由は……」


久美子は苦笑いし、あとは自分で想像してほしいとばかりに黙った。




綾乃は黙ったまま、ふと真太がナイフを自分のスカートに突きつけ、「その場で切り刻んでやる」と脅した場面を思い出した。


ああ、あんなに乱暴で、何も恐れずに行動する人なら、弁護士がいなければとうに捕まっていただろう。


少し考えてから、再び尋ねた。


「他には?」




久美子は目をぱちくりさせ、何かを思い出したようにドアの方を気にした。


誰もいないのを確認してから、声を潜めて話し始めた。


「何年か前に、執事が社長に報告してるのをこっそり聞いちゃったんだけど……若様、五歳の時に交通事故にあって、記憶を失ったんだって。それで、いろいろあって、肉屋に引き取られたらしいの」


綾乃はじっと耳を傾け、洗った茶を茶碗に注ぎながら、七分目で止めた。


「その肉屋、若様のことを人とも思ってなかったみたいで。昼は家畜の屠殺や処理を手伝わされて、夜になると……」


久美子はさらに声を落とした。


「肉屋では、羊を殺す前にどうやって扱うか知ってる?」


「教えて」


綾乃は茶碗を手に取った。


「前足を一緒に縛って、後ろ足も一緒に縛って、そのまま放っておくの。鳴き声を聞きながら……。夜になると、若様も同じように縛られて、犬小屋に放り込まれて寝かされて、朝になったら外に出されて働かされる。食事も、煮崩れた野菜くずや内臓ばかり」


「寒い日は、剥ぎたての血の匂いがする羊皮を体に巻いて暖を取っていたって……」




綾乃は茶碗を持つ手が止まり、それ以上飲めなくなった。これは、まぎれもない虐待だ。




「何年もそんな生活で……ある時、肉屋で火事があって、夫婦が焼け死んだ。その時に、若様はやっと逃げ出せたんだって」


久美子の声はほとんど聞き取れないほど小さくなった。


「執事の話ぶりからして……その火、もしかしたら若様が……」


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