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第11話 この結婚を利用して、手に入れるべきものを


黒川綾乃はわずかに眉をひそめた。


「怖いと思うでしょ?若様、十代の頃から人の命を奪ってるし、今じゃもう怖いものなしよ」小泉久美子がため息まじりに言う。


「たとえ彼がやったとしても、彼のせいじゃないわ」綾乃は静かに返した。あんな極限状態で生き抜いてきた子どもなら、どんなことをしても責める気にはなれない。


久美子はお茶を口にしかけて、驚いたように綾乃を見た。「若様の肩を持つなんてね。てっきり嫌ってて、ただ仕方なく一緒にいるだけかと思ってたわ。だって、新婚なのに一週間も帰ってこないし、綾乃さんも電話一本しないし、誰かに聞いたりもしない。まるでいない人みたいじゃない」


「ただ、事実を話しただけよ」と綾乃。


あの夜、車の中でのやりとりは確かに胸をざわつかせた。しかし、その出来事を理由に、個人的な感情を持ち込んで、過酷な環境で生き抜こうとした少年を「恐ろしい」と断じることは、彼女にはできなかった。


「それで、私にあんなことを聞いたのは、若様と仲良くなりたいから?」久美子は突然話を変えて、にっこりと笑った。「そうよね、もう夫婦だし、赤ちゃんもいるし、仲良く幸せに暮らせたら最高だよね!」


……考えすぎよ。


仲睦まじくなるなんて無理だし、関係を良くするのも難しい。せめて穏やかに日々が過ぎればそれでいい。


彼女と黒川真太の結婚は、授乳期が終わるまでの約二年弱で終わる。その期間を、最大限に利用しなければならない。


綾乃は対面の久美子に目でお茶を勧めた。久美子はようやくカップに口をつけ、一口飲んで目を見開いた。


「わぁ、本当に美味しい!」とたんに飲み干して、すぐさまおかわりを注ぐ。


「お茶はゆっくり味わうものよ」綾乃は思わず笑った。


「だって、本当に美味しいんだもん!」久美子は再び一口飲み、口の中で転がすように味わう。「ほんのり渋みがあって、後味が長く続く……香りも豊かで、まるで鳥のさえずりと花の香りに包まれているみたい」


「そこまで言う?」綾乃は微笑んだ。「ここ数日、しっかりお茶の淹れ方、覚えてもらうからね」


久美子はまた一杯飲み干し、首をかしげた。「どうして私が?覚えたところで、何になるの?若様との仲直りに役立つの?それともお金を稼いで、何か買い戻すつもり?」


綾乃は茶碗を指先でくるりと回し、長いまつげの影で黒い瞳が揺れた。「夫が一週間も家に帰ってこないなら、妻として何か差し入れしてもいいでしょう?」


「……そっか」久美子の胸は躍った。やっぱり、若様のこと好きなんだよね?ね?


……


夜になり、繁華街のネオンが昼間のように煌めく。人々の表情を鮮やかに照らしている。


高級車が次々と港区の一流ナイトクラブ「スペード」の前に停まる。眩い光が入り口へと伸び、巨大なスペードの看板がひときわ目を引く。


綾乃は車を降り、マスクを軽く整えて、賑やかな入り口を静かに見つめた。


「調べてきたんだけど、今夜はスペードのKingとQueenを決める決勝戦なんだって。お金持ちや有名人が集まって、めちゃくちゃ盛り上がるらしいよ」久美子が茶葉の箱を抱えて近づく。「でも、どうして今日なの?若様はよく来るけど、今夜はいないのに」


彼がいないからこそ、好都合だった。真太は、あの夜の罠に彼女も関わっていると疑い、良い感情を持っていない。もし彼がいたら、お茶なんてその場で叩き壊されて、計画は水の泡だ。彼の人脈を使って稼ぎたいが、本人は避けなければならない。


「行こう」綾乃は余計な説明をせず、まっすぐ歩き出した。本当は自分が来るつもりはなかったが、久美子のお茶の腕前はまだ未熟で、仕方なく付き添うことにした。


余計なトラブルを避けるため、赤い付け毛でポニーテールを作り、メイクも少し変えてきた。


二人でクラブに入ると、受付で黄色と白の糸で作られた可愛らしい花が二つ渡された。


「決勝戦の投票用の花だって。応援したいホストかホステスの服に貼るんだって」久美子が意味ありげに笑う。


「ホストとホステス……面白いわね」綾乃は花をそのままポケットにしまった。


「渡辺支配人!」久美子が知り合いを見つけて、箱を抱えたまま駆け寄る。


スーツ姿の渡辺支配人が振り向き、満面の笑みを浮かべる。「おっ、久美子じゃないか!またお婆様の使いで黒川の坊っちゃん探しかい?今夜は来てないよ」


「え?若様いないんですか?」久美子は綾乃に教わった通り、驚いたふりをした。「家からお茶を届けに来たんですけど、どうすれば……」


言い終わらないうちに、横から声がした。


「久美子ちゃん?」


綾乃が振り向くと、少し離れたボックス席から、オールバックの若い男がソファにもたれてこちらを見ていた。顔立ちはさほどでもないが、腕には高級時計が光る。


「足立さん」久美子が丁寧に頭を下げる。彼は真太の仲間の一人、足立勇太。いつもつるんでいる遊び人だ。


「やだなあ、また足立さんなんて!黒川家は本当に堅いよね。気軽に足立って呼んでよ」足立勇太はウインクしてみせる。「なんで俺のLINE無視するの?寂しくて死にそうだったよ」


……この人、猫も女も手当たり次第。信じるわけがない。久美子は無言で受け流す。


足立は続けた。「まあまあ、真太がいないなら、そのお茶で俺にも一杯いれてよ。酒ばっかりで頭痛くてさ」


久美子と綾乃は目を合わせ、ボックス席へと歩み寄った。周囲には遊び仲間たちが集まり、ぼんやりした照明の中で談笑している。


「うちの専属の茶師だから、足立さんのために淹れてあげて」久美子が紹介しながら、箱を開ける。


中には小さな缶に入った茶葉だけで、あとは茶器が揃っていた。青と白の磁器の蓋碗が優雅さを際立たせる。


綾乃はそっと袖をたくし上げ、持参した山の湧き水を沸かした。


「茶師なのにマスクしたまま?外してよ」足立がじろじろと顔を覗き込む。目元は悪くないが、体つきは少し華奢だ。


周囲の一人が茶化す。「さすが足立さん、真太様と仲がいいからって、よくちょっかい出すよな。他の奴なら……」


「やめろ」足立は顔をしかめて制した。真太から嫌われないのは、あくまで自分が弟分として一線を守っているからだ。調子に乗って噂が広まれば、命すら危うい。そう思うと、マスクを外せという気も失せ、ただお茶を淹れる様子を眺めた。


「聞いた?真太様、また新しい遊び思いついたんだって。モグラ叩きとか言ってさ」誰かが言う。


「モグラ叩き?」足立が眉を上げる。


「そう。遊んだ女の子たち、みんな精神科に二回も行ったってさ」


「いかにも真太様らしいな」足立はまったく驚かない。


仲間たちは意味深に笑い合った。


綾乃は一瞬、手を止めたが、すぐに表情を整え、茶葉を丁寧に蓋碗へ入れた。葉の大きさは揃い、茶壺に湯を注ぐ手は流れるように滑らかだった。


湯の音が静かに響き、薄い煙とともに袖がふわりと動く。美しい所作に、話していた男たちも自然と目を奪われる。


蓋碗の中で、茶葉が舞うように広がり、ほのかな香りが漂い、濃い酒の匂いすら消してしまう。


足立は、最初は冗談半分だったが、その香りに思わず手を伸ばした。


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