黒川綾乃がお茶を差し出す。
足立勇太は立ち上る湯気を避けながら、一口すする。まろやかな香りと深い味わいが喉を通り抜け、余韻が長く残る。彼は綾乃に目を向けた。
「太平猴魁か?」
綾乃は静かにうなずいた。
「面白いな。」勇太はさらに二口飲む。祖母が大の茶好きで、彼自身もいろいろな茶を味わってきたが、「美味しい」と心から思ったことは今までなかった。
その様子を見て、他の人々も次々に茶を求め始めた。綾乃は皆にお茶を注いで回る。香りはさらに広がり、人が集まってくる。しかし、茶碗の数は限られており、全員には行き渡らなかった。
勇太はカップの中の鮮やかな緑の茶葉を揺らし、黒川家の底力を心の中で認めた。ふと小さな缶についているカードが目に入る。
「帰期亭」
鈴木洋平 電話:090-XXXX-XXXX
勇太は後ろのボディガードに小さく指示を出す。
「このお茶屋を覚えておけ。祖母に買ってやってくれ。」
カードは何度も人の視線を集める。綾乃の今日の狙いは十分に果たされた。彼女は幼い頃から茶道に通じた伯母に師事し、茶葉の選び方も淹れ方も他の追随を許さない。
お金を稼ぐのは簡単じゃない。
でも、黒川真太の人脈に寄り添い、富裕層を相手にするなら……難しくはない。
小泉久美子は皆が感嘆する様子にやっと、綾乃が鈴木洋平に店を開かせた意味を悟る。もしこのお金持ちたちが帰期亭に通うようになれば、きっと大きな利益になるに違いない。彼女はすっかり興奮し、そのお茶の素晴らしさを熱心にアピールした。
「パーン!」と礼砲が鳴り響き、ついに決勝戦が始まった。
強いスポットライトが客席に伸びる巨大なT字ステージを照らし、次々と男女が登場する。女性たちは華やかなドレス、男性たちは白シャツに黒いスラックス、上のボタンを二、三個外して、ほどよい色気を漂わせている。
音楽は耳をつんざくほどの大音量。
聴覚が敏感な綾乃には苦痛そのものだった。会場を出ようとするが、久美子はステージの「イケメン」たちに目を奪われ、全く動こうとしない。
「もう少しだけ、あとちょっと!カッコよすぎる、やばい!」
「……」綾乃は騒音に吐き気を覚え、お腹を押さえながら言った。
「ちょっとトイレ行ってくる。戻ったら絶対出るからね。」
しかし久美子は全く耳を貸さない。仕方なく綾乃は一人で立ち上がり、スタッフに案内された方向へと歩き出す。外の喧騒とは打って変わって、廊下は静まり返り、人影もない。
奥まで進んでも、トイレの表示は見当たらなかった。
道を間違えたのだ。
引き返そうとしたその時、かすかな物音に気付いた。思わず横を見る。
少し開いた扉の向こうに、高身長の男が立っている。黒いパンツが長い脚を包み、ウエストラインがわずかに浮き出ている。
男は仰向けになって水を飲み、一方の手はポケットに。横顔は彫刻のように整い、濡れた短髪と全開の白シャツからは、精悍な筋肉のラインが露わになっていた。広い胸から引き締まったウエスト、そして黒いベルトへと繋がっている。
「……」男のウエストが、こんなにも色気があるなんて――
綾乃はその美しさに息を呑んだ。これが久美子の言っていた「ホスト」の一人に違いない。ステージで「イケメン」と騒がれていた連中よりも、目の前のこの男は格が違う。きっと今夜の目玉だろう。
黒川真太はグラスの水を飲み干し、不意に視線を感じて鋭く振り向いた。その目は鋭利な刃のように辺りを射抜く。
だが、扉の外には誰もいなかった。ただ廊下の明かりだけが差し込んでいる。
真太は視線を戻し、グラスを置いてソファに腰掛け、目を閉じて休んだ。
綾乃は扉の外の壁に背をつけ、鼓動を落ち着かせる。彼女は毛糸の花を二つ取り出し、シールをはがして、そっと半開きのドアに貼り付ける。
「今夜、あなたがキングでありますように。」
そう願いながら、彼女は足早にクラブを後にした。
外でしばらく待っていると、久美子が興奮気味に出てきた。
「いやー、カッコよかった!」
「大したことないよ。」綾乃は首を振る。
「確かに若様には敵わないわね。でも、私、あの人には声かけられないよ。こっちのイケメンたちを見るだけで十分!」
そう言ってステージの男たちを指差す。
「……」綾乃は初めて、誰かが黒川真太の容姿を褒めるのを聞いた。彼と結婚写真も撮ってないし、証書も手元にない。まあ、少なくとも赤ちゃんの顔は心配なさそうだ。お腹をそっと撫でる。
「帰ろう。」
……
個室の浴室で水音が止む。
真太が出てきて、濡れた包帯を外すと、手首には鞭の跡が赤く残っていた。軽く拭き取り、黒いシャツを羽織り、ボタンを二つだけ留めて部屋を出る。
薄暗い廊下で、真太は足を止めて振り返った。
深い色の扉には、黄色と白の毛糸の花が二つ貼られている。その鮮やかさが目に刺さる。
真太の目が冷たく光る。
同時に――
「ブン――」
クラブのメインフロアの爆音が突然止まり、眩しいライトが真っ白に切り替わった。ステージの出演者も、興奮した客たちも唖然とする。
勇太が応援していた女性がちょうど登場しようとしていたところで、これに水を差されて怒りを露わにし、テーブルを蹴り上げる。
「何やってるんだ?山崎、商売やめるつもりか?」
「ブラックスパード」のオーナー、山崎雄大は支配人たちを引き連れ、青ざめた顔で慌てて降りてきた。ボディガードたちが出口を封鎖し、悲鳴が響く中、出演者たちはステージに追い戻される。
客たちの不満の声が飛び交う。
「静かにしろ!」山崎は今にも倒れそうな様子だ。
その時、上の階から低い足音が響いた。皆が一斉に見上げる。
黒い革靴がガラスの階段を一段ずつ降りてくる。光が彼のゆるんだ襟元と無造作な眉に落ちる。黒川真太が無表情のまま全員を見回し、指先で毛糸の花をいじっている。
場内は静まり返った。
勇太の首筋に冷たい汗が流れる。
――今夜は、何かが起こる。