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第13話 彼をホストと勘違いしてしまった


黒川真太は運ばれてきた一人掛けソファに腰を下ろし、足を組みながら毛糸の花を弄っていた。その端正な顔には、まるで感情の気配が浮かんでいない。


足立勇太はそっと支配人を引き寄せ、こっそりと事情を探った。聞くや否や、目を見開いて驚愕する。誰がそんな無謀なことを?黒川真太の部屋の扉に、客がホストに贈る花を貼り付けただなんて――まるで彼をからかうかのように。これは命知らずもいいところだ。


渡辺支配人は大きな箱に入った毛糸の花を抱えて黒川真太の前に駆け寄った。冷や汗が止まらず、声も震えている。


「黒川様、本日配った花は1383本、回収できたのは1028本です」


オーナーの山崎雄大も、黒川真太の様子をうかがうが、表情からは何も読み取れない。


「黒川様…」と山崎雄大は声を震わせながら言った。「今日はお客さんが多くて、早めに帰られた方もいて、監視カメラは正面玄関しか…」


黒川真太は手を止めて、黒い瞳で山崎雄大の震える脚に目をやると、ふいに口元を持ち上げて微笑んだ。


「ちょっと聞いただけだよ。そんなに震えて、どうした?」


その声を聞いた山崎雄大は、腰が抜けてその場に膝をついた。


「全部、私の管理が悪いせいです!もう少し時間をください。監視映像を一つずつ確認して必ず見つけますから…!」


黒川真太は身を乗り出し、にこやかに尋ねる。


「一つずつ全部探すの?それは大変だろう?」


笑っているのに、言葉の端々が凍り付くような冷たさを帯びている。


「黒川様にご迷惑をおかけして…大変なんて、とても…」


山崎雄大は顔面蒼白だ。


黒川真太はさらに唇を近づけ、笑みを深めた。


「そうだよ、僕は君のところで不愉快な思いをした。どうしてくれる?」


「ど、どうかご勘弁を…」山崎雄大は震えが止まらない。


その瞬間、彼は歯を食いしばり、突然立ち上がって階段を駆け上がった。


「ドンッ!」


大きな音が響いた。


山崎雄大は皆の前でガラスの手すりを乗り越え、飛び降りた。


体はフロアランプの上に激しく落下し、ガラスの破片が飛び散る。彼はその場で気を失い、鮮血が床に広がった。


場にいた全員が息を呑み、声も出せずに立ち尽くした。


黒川真太はその様子を横目に眺めると、冷ややかに肩をすくめる。しばらくして、手にした花で鼻先を覆い、ゆっくりと言った。


「たかが些細なことで、山崎社長も思い詰めすぎだね」


そう言い終えると、手の花を血溜まりに放り投げた。


山崎雄大は担架で運ばれ、床の血もすぐに清掃される。支配人たちは膝が震えて立っていられない。


決勝戦は血で幕を閉じたが、終わりではなかった。


用心棒と支配人たちが並んでパソコンを設置し、監視映像を確認し始めた。現場の全員に名前を記入させ、花の一つ一つの出所を追跡する。


足立勇太はルイ14世のボトルを持って近づき、慎重に酒を注いで差し出した。


「真太様、くだらない奴らのことで気を悪くしないで、一杯どうぞ」


「くだらない奴らって、君ほど隠れてなかったけどな」


黒川真太は皮肉気に彼を見た。さっきまで出てこなかったくせに、今になって顔を出すのか。


「お許しを、お許しを」足立勇太は乾いた笑いを浮かべた。山崎雄大が飛び降りなかったら、自分も怖くて出てこられなかったのだ。


黒川真太はそれ以上追及せず、酒を受け取って一口飲み、ソファに身を預けて結果を待つ。犯人が見つからない限り、今夜は眠れそうもない。


時が過ぎ、グラスの酒も底をついた頃。


黒川真太は半分目を閉じていたが、不意に体を起こし、鋭い視線であるモニターに目を留めた。


「あれは誰だ?」


足立勇太も画面を覗く。


「ああ、美子さんだよ。真太様の家の使用人、今日はお茶を届けに来てたよ。君の家の茶葉はいいし、淹れる人の腕も抜群だ。うちの親父が知ったら引き抜こうとするだろうな」


「お茶を淹れる人、僕の家の?」


黒川真太は低く繰り返し、画面に映る華奢な姿に目を凝らした。赤い偽物のポニーテール、淡いシフォンドレス、顔を隠すマスク、伏せたままの瞳。


――どこかで見た顔だ。


黒川真太の口元に笑みが浮かぶ。その笑顔は一瞬にして冷たくなり、手の中の毛糸の花がギュッと握り潰された。


神山の黒川家邸宅、使用人たちは絵画を運びながら廊下を行き来している。


黒川綾乃は小泉久美子に支えられて部屋へ戻った。


小泉久美子は果物を持ってきて、嬉しそうに話す。


「これで帰期亭も繁盛するよね?お坊ちゃまたち、みんな興味津々だったもの」


「お客さんは来るだろうけど、リピーターを増やすには工夫が必要ね」


と綾乃は言った。茶葉自体はそこまで高級なものじゃない。自分の淹れ方で味を引き出しているが、それを店員に教えるのは難しい。小泉久美子ですら数日で習得できなかった。黒川家の若奥様という立場で、毎日自分が茶を淹れるわけにもいかない。


「綾乃ちゃんならきっといい方法を思いつくよ」


小泉久美子は彼女の商才を全く疑っていない。


綾乃は微笑んでリンゴを切りながら聞いた。


「ところで、あの絵はどうしたの? 使用人が行ったり来たりしてたけど」


「絵画の保管とメンテナンスよ」


「でも、全部が有名な絵ってわけじゃなさそうだけど?」


「黒川家が無名の絵を集めるわけないでしょ?」と久美子は即答したが、ふと思い出したように言い直す。「あ、もしかして若様が幼い頃に描いた絵のこと?」


「……」


「若様は斎藤先生に師事して、三歳で絵を始めて、四歳にはもう何度も賞を取っていたらしいよ。あちこちで展示もされたって。でも帰国してからは、もう描けなくなったって、おばあ様がずっと気にしてた」


そういうことか、と綾乃はそれ以上は聞かなかった。


その時、小泉久美子の携帯が鳴る。相手は足立勇太だ。


茶楼のことかと一瞬警戒して電話を取ると、驚きのあまり手にしていたブドウを落とした。


「えっ?」


綾乃が顔を上げる。


久美子は電話を切ると、すぐに近寄ってきて興奮気味に話す。


「大ニュースよ!足立若様が言ってたけど、若様が“スペード”のクラブで大暴れしたって!」


「大暴れって何?」と綾乃は首をかしげる。今日、黒川真太は“スペード”のクラブにはいなかったはずだが?


小泉久美子は腰を下ろしながら説明した。


「私の情報が間違ってたみたいで、若様は今日は“スペード”のクラブで専用の部屋で休んでたんだって」


「それで?」


綾乃は桃の一切れを口に運ぶ。


久美子は果物をつまみながら続けた。


「それがさ、どこのドジが若様をホストと勘違いして、投票の花を2本も部屋の前に貼ったんだって! 若様、めちゃくちゃ怒ったらしいよ!」


「……」唇に痛みが走る。綾乃は血の粒を指で触れた。


久美子は気づかず、話を続ける。


「もう、絶対に命がないよ!山崎社長は若様の怒りを鎮めるために、そのまま飛び降りちゃったんだから。血まみれだったって!」


綾乃の体が一瞬こわばる。


「そんなに大事になったの…?」ただの勘違いだったのに、まさか侮辱するつもりなんて一切なかった。


「そりゃ大事よ!」久美子は思い出しても震える様子だが、ふと口ごもった。


綾乃は見抜いたように言う。


「何か隠してるの?」


久美子はしばらく迷い、小声で話し始めた。


「ちょっと…言いにくいんだけど。若様、北港で用心棒をやってたとき、無理やりホストをやらされたことがあるんだって」


「……」


「どのくらいやってたかは分からないけど、絶対に納得してなかったって。山本執事の話だと、その時、若様は大男たちに押さえつけられて、金持ちのマダムの部屋に連れ込まれたんだって。そしたら…中の人は穴だらけで運び出されて、壁の血が三日間も落ちなかったってよ」


「……」


綾乃はすべてを理解した。これは単なる誤解ではなかった。黒川真太の一番深い傷を、まるで踏みつけたようなものだ。


「なんで平気な顔してるの?」久美子は不思議そうに聞く。


――平気なわけがない。


綾乃は背筋をピンと伸ばし、不自然なほど落ち着いた声で言った。


「ねえ、うちの花、どこにあると思う?」


久美子は一瞬呆け、それからガクガクと膝をついた。


「ま、まさか…あんたがその命知らず!?」


綾乃は淡々と答えた。


「白シャツ着てたから、間違えただけ」


そう言ってブドウをひと粒口に放り込み、冷たい甘さで胸のざわめきを押さえる。足りない。さらにサクランボ、リンゴ、桃、マンゴー…山盛りの果物を次々と平らげていく。


久美子はぼんやりと聞いた。


「妊婦ってそんなに食べて大丈夫なの?」


大丈夫。妊婦は生きている限り何を食べてもいい。明日は分からないけど。


綾乃は少し落ち着いて尋ねた。


「もし、私が正直に謝って、心から詫びたら、許してくれる可能性はあると思う?」


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