小泉久美子は床にへたり込み、真っ青な顔で両手を大きく広げた。
「……」
黒川綾乃は長いまつげを震わせながら尋ねる。
「例外はないの?」
「本当に好きな人にだけは、例外よ。でも、あなたは……」
小泉久美子はそれ以上言葉が出なかった。綾乃は子を身ごもったことでこの家に嫁いだが、黒川真太から愛されてはいなかった。
「少し考えさせて」
綾乃は視線をそらし、
「久美子、とにかくウィッグと服を処分して」
と頼んだ。絶対に認めるわけにはいかない。メイクも変えて俯いていたし、簡単には気づかれないはずだが、久美子が現場にいたのでは追及されれば隠しきれない。真太に詰め寄られる前に、証拠を消しておきたかった。
「あ、うん!」
久美子は慌てて部屋を飛び出し、証拠隠滅に走った。
綾乃は静かに座り、血の味を舌先に感じた。本当に自分を大切に思ってくれる人には、少しでも許しがあるのだろうか。もしも許しがないのなら、どうか敵意だけは向けないでほしい――そう願いながら考え込みかけたその時、扉が開いた。
久美子が蒼い顔で戻ってきた。
「大変!山本さんが、若様が帰ったって!」
綾乃はきゅっと袖口を握りしめる。
神山の夜は深く静まり返っていた。
山本武志が使用人たちを引き連れて玄関へ急ぐ中、車のドアが開く。黒川真太が無表情のまま降り立った。
「若様、お夜食のご用意ができておりますが……」
山本は汗をぬぐいながら声をかける。
真太は何も言わず、階段へと向かった。
山本は一瞬、呆然とした。若様は……まさか新婚の部屋へ戻るつもりなのか?
重い足取りで三階の廊下を進む真太は、奥の扉を鋭く見据え、口元には不敵な笑みを浮かべていた。死に急ぐ奴なんて、そうそういない。今夜は面白い夜になりそうだ――
煙草をくわえ、火をつける。煙を吐き出しながら、気だるげに新婚の部屋へと向かった。
半開きの扉の向こうから声が聞こえてくる。
「若奥様、ごめんなさい。お茶を届けること、できませんでした」
久美子が申し訳なさそうに言う。
「彼はいなかったから、気にしないで」
綾乃の声は柔らかい。
真太は目を細め、壁にもたれかかる。
「でも、どうしてですか?若奥様が自分でお茶を届けたいと言ったのに、私に家からのものだと伝えさせるなんて。彼がいなくても、奥様の気持ちは伝えられたのに……」
「彼は私に誤解があって、私の気遣いはかえって迷惑になるだけなの」
綾乃はゆっくりとした口調で言う。
「ただ、少しでもお酒が抜ければと思って」
「世間では、若奥様はお腹の子でこの家に取り入ったって言われてますけど……私は、奥様が若様のこと、特別に思ってる気がします。とても大切にしてるみたいで」
真太は煙草を噛み、皮肉げな目で天井を見上げた。黒川家に居場所を作るために色仕掛けか?“好き”だと?笑わせる。
部屋の中が数秒、静かになった。
「好きかどうかは、よくわからないけど……昔から彼のことを知ってたの」
綾乃は静かに微笑む。
「え?」
「子供の頃、絵を習っていた時、ネットで『初生』という絵を見たの。ひよこが殻を破って生まれる瞬間の絵だったわ。あの絵に惹かれて、描いた人に会いたい、師事したいって親にせがんだの」
「でも、両親に言われたの。これは黒川家の長男が描いた絵で、まだ子供だって。だから私は……」
言いかけて、言葉を止める。
真太は眉をひそめ、顔をそむけた。
久美子が代わりに尋ねた。
「どうしたんですか?」
綾乃は少し恥ずかしそうに、指をもじもじさせながら答えた。
「その頃、毎日のように……彼と結婚したいって言ってたの」
真太は思わず咳き込みそうになった。ずいぶん変わったアプローチだ。顔も家柄も関係なく、絵だけで惹かれたなんて。
もう我慢できず、真太は部屋に入った。
ソファにいた二人が驚いて立ち上がる。久美子は跳ねるようにして立ち上がった。
「若様!」
綾乃も慌てて立ち上がり、顔に動揺が走る。
「出ていろ」
真太の低い声には、冷たさと威圧が混ざっていた。
久美子はドアから逃げるように出ていった。
真太はドアをバタンと閉め、綾乃をじっと見つめる。綾乃は静かに立ち尽くし、長い髪を肩に垂らし、清楚な顔立ちはどこか不安げ。視線は虚ろで焦点が合っていない。新婚の赤いショートガウンを羽織り、Vネックのシルクが体のラインを引き立てる。細い腰にリボンを結び、裾から白い足が覗いている。素足のままカーペットの上に立っていた。
真太は彼女をしばらく見つめ、襟元を引っ張って熱を紛らわせた。
「さあ、話してみろよ。その絵の何がそんなにお前を俺に惹きつけたんだ」
皮肉たっぷりの声で問いかける。
綾乃は眉をひそめ、耳まで赤くなりながら、手をぎゅっと握る。
「ただ、絵が面白いと思っただけ」
「ひよこが卵を産むのを見たこともないのか?」
真太は嘲笑し、果物のナイフに目を落とす。
「違うの」
綾乃は首を振った。
「絵の中で、ひよこが殻を割って初めて外を見る瞬間、海辺の朝日が差し込んで、隅っこから卵の殻が割れる音が聞こえて……」
ゆっくりと語る。
真太は彼女の虚ろな目を見つめながら、ゆっくりと身をかがめて煙草を消した。そして、果物ナイフを手に取り、ゆっくりと彼女に近づいていく。
綾乃は何も気づかないまま、なおも話を続けていた。
「遠くの砂浜には小さなカニが砂をかき分けて……」
真太は唇を歪め、綾乃の目の前に立つと、突然ナイフを振り上げ、彼女の目元めがけて突き出した――
第15话 心を揺さぶる駆け引き
冷たい光が一閃した。
閉め切られていない窓から夜風が吹き込み、二人の服の裾をひらりと揺らす。
綾乃の長い髪が風に舞い、白い頬をかすめて流れ落ちる。その一房が鋭いナイフの刃先に触れ、音もなく切り落とされて宙に舞った。
鋭いナイフの先端は、彼女の美しい瞳からわずか数センチのところで静止している。
綾乃は微動だにせず、凛としたまま立ち尽くしていた。
その唇には、どこか懐かしむような淡い微笑みが浮かんでいる。
「この絵の本当の主役は、殻を破るアヒルの子。でも、よく見るとあちこちに新しい命があふれていて、朝日ですらそう。だから、特別に面白いと感じたの」
……
真太の口元に浮かんでいた笑みが、一瞬にして固まる。
まったく見当違いだ。
「スペード」のクラブにいたのは、彼女じゃない――。
綾乃は静かに前を見つめ、長いまつ毛を瞬かせる。まるで今になって異変に気づいたかのように、「あなた……私の前に立っているの?」
真太は手にしていたフルーツナイフを無造作に投げ捨てた。
ナイフが床に落ちて響いた小さな音に、綾乃は肩をすくめて一瞬だけ怯えた表情を見せる。「今、何を投げたの?」
言葉が終わるより早く、真太の大きな手が彼女の顎をぐっと掴み、片手で頸動脈を押さえつけるようにして、息苦しいほどの圧迫感を与える。綾乃の呼吸が止まる。
窓の外から吹き込む夜風は、骨まで冷たく感じられた。
彼女の体が一瞬で緊張する。
しかし、真太はそれ以上力を込めることなく、指先で優しく顎をなぞり、親しみを装うように唇をも撫でた。低く沈んだ声が、風の中で妙に優しく響く。
「たった一枚の絵で、俺を好きになったって?……本気か?」
……
その時になって、ようやく綾乃は気付いた。真太の恐ろしさは、彼が何をしたかではなく、その底知れぬ心の奥深さ、感情の読めなさにあるのだと。
彼の今の気分を推し量ることなどできないし、次の瞬間に何が待っているのかも予測できない――平穏か、それとも灼熱の地獄か。
彼女は唇を固く噛みしめた。
そして、しばらくの沈黙の後、まるで全ての勇気を振り絞ったかのように、決然とした声で言った。
「そう、好きよ。あの絵を描いていた時のあなたが――」
真太は彼女をじっと見つめ、その突然の、ほとんど無謀な告白に一瞬だけ驚いたような顔をした。
けれどすぐに、またあの薄ら笑いを浮かべる。骨ばった手が彼女の頬をそっと撫で、やがて目尻にとどまる。指先が優しく押し当てられ、その声は氷のように冷たい。
「お前ごときが、俺を好きになる資格があるとでも?」
目の見えないこの女が、俺に惹かれるつもりか――。
「分かってる、そんな資格ないって」
綾乃はまつ毛を伏せ、かすれた声で言う。
「あなたは、あの事件と私が無関係だなんて信じていないでしょうし、あなたは黒川家の長男で、私はただの不完全な人間。それくらいの分別はあるわ」
……
「信じてくれなくてもいい。あの時、子どもなんていらないって言ったのは本心よ。流産できる体なら、あなたに迷惑なんて絶対かけなかった」
彼女は目の前の男に向かって、どんどん声を小さくしていく。好きな人に冷たく突き放される痛みと、かろうじて保っている自尊心――その全てをさらけ出していた。
「確かにあなたが好き。近くにいたいし、あなたの本当の姿を知りたいと思った。でも、それ以上のことは絶対に望まない。契約が終わればすぐに出て行く。あなたに迷惑はかけない」
「……本当に、哀れなことを言うな」
真太は彼女の頬を撫でていた手の動きを止め、嘲るような口調に変わる。
「そんな言葉、俺が信じるとでも――」
言い終わる前に、綾乃が何度も瞬きをして、必死に感情を抑えようとしているのが分かった。だが長いまつ毛にはすでに涙がにじみ、瞳には確かな光が揺れている。彼女は唇を強く噛みしめて、涙をこぼすまいと必死だった。
……
本気で泣くつもりか――。
真太の顔から笑みが消え、目は深い墨のように暗くなる。
突然、彼は彼女の首筋を強く引き寄せ、勢いよく抱きしめて、そのまま唇を奪った。
月明かりが薄いカーテンを通して差し込み、彼女のばらばらと広がる髪が、彼の固く握った手に絡みつく。
綾乃はまったく抵抗せず、ただ長いまつ毛が激しく震え、白い頬がほんのり赤く染まっていく。その表情が、彼女の心の葛藤をありありと映し出していた。
真太の深い瞳は、彼女のわずかな変化も見逃さず、強引に唇をこじ開けて、その柔らかさを貪るように味わった。
彼女はしばらく呆然とし、やがて不器用なほどぎこちなく、けれどどこか貪るような熱を持って応えた。
……
本当に、ここまでやるのか。
真太は彼女の首筋をぐっと掴み、身体を引き離して赤く腫れた彼女の唇を見つめる。喉が無意識に鳴り、再び激しい欲望が湧き上がる。
だが、それを必死に抑えて、唇を彼女に寄せたまま低く囁く。
「そんなに俺が好きなのか?」
「信じてくれないなら、何度でも……」
「じゃあ、俺が『死ね』と言ったら?」
彼は冷たく言葉をさえぎった。その声には、これっぽっちの感情も感じられない。ただ日常の一コマを語るかのような静けさだった。
風の音が、部屋の中で止まったように感じる。
カーテンが静かに揺れ、室内には重苦しい沈黙が広がった。
いくら綾乃が真太の反応を頭の中で想像していても、この言葉には完全に固まってしまう。
「……え?」
「――ふっ」
真太は目を伏せ、彼女の一瞬の驚きの表情をしっかりと見届けると、短く冷笑した。そして、彼女への圧迫を唐突に解き、そのまま背を向けて部屋を出ていった。
一言も残さず。
綾乃は呆然と、彼の去っていく背中を見つめていた。
あの言葉……いったい、どういう意味だったのだろうか。