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第16話 気に入った絵があるの?


しばらくしてから、小泉久美子がそっと部屋に入ってきた。ドアをしっかり閉めると、すぐに綾乃のそばへ駆け寄り、声を潜めて言った。


「若様は書斎に行かれたよ。当分は戻らないはず。どうだった?うまく乗り切れた?」


その言葉に、黒川綾乃はずっと握りしめていた両手をようやくゆっくりと開いた。袖の中に隠していた手のひらは、もう血と肉が混じり合い、掌紋も血で覆われている。割れた眉剃りの刃の破片が数枚、傷口に深く食い込んでいた。


「なにこれ……!どうしたの、それ?」久美子は綾乃の手のひどい傷を見て、思わず息を呑んだ。


「もう目は元通りに見えてるの。刃物が来たとき、とっさに体が避けようとしちゃう。それを抑えるには、こうするしかなかった」


激しい痛みで、本能的な回避反応を無理やり抑え込んだのだ。


綾乃は洗面台に歩み寄り、ティッシュを取り出して、慎重に掌の小さくて血のついた刃の破片を取り除いた。それらを包んで久美子に手渡し、


「これ、綺麗に処分して。絶対に痕跡を残さないで」


「……果物ナイフ? あれ、若様があなたを刺そうとしたの!?」


「うん」


「ちょ、ちょっと待って……果物ナイフを目立つ場所に置いてって頼んだの、あなたでしょ? わざと若様に使わせて、試されたのを知ってたの!?」


久美子は信じられないという顔で目を見開いた。


「そうだよ」綾乃は淡々と答え、洗面所で水道の蛇口をひねった。淡い紅色の血が流れていくのをじっと見つめる。


さっき久美子が「黒川真太が急に戻ってきた」と言ったとき、綾乃はすぐに違和感を覚えた。


今日の「スペード」クラブは来客が多く、人の出入りも激しい。監視カメラも玄関だけ。案内してくれたウェイターも忙しくて、誰がどの廊下に行ったかなんて気にする余裕はないはず。普通なら、綾乃と久美子が怪しまれることはまずない。


でも、彼女は気づいた。もし久美子が連れてきたのがただの茶師だったら、真太がこんな大騒ぎして自ら帰ってくることはなかっただろう。


久美子は黒川家で長く働いており、規則もよく知っている。誰かを連れてくるなら、ちゃんと注意点も伝える。普通の茶師なら、真太が疑う理由はない。


つまり、問題は綾乃自身にあった。


おそらく真太は監視カメラで彼女を見て、正体に気づいたのだ。綾乃は自分の変装には自信があったが、見破られたとしたら、それは体つきなどの特徴しかありえない。


もともと二人の間には因縁がある。もし綾乃がずっと盲目を装っていたなら、あの「二つの花」で彼を辱め、鬱憤ばらしをするのも、彼にとっては納得のいく流れだった。


真太が急いで戻ってきたのは、すべてを確認するため。綾乃は彼に振り回されたくなかったから、先に手を打ち、罠を仕掛けた。


目立つ場所の果物ナイフが、最初の餌だった。そして予想通り、真太はそれを手にして彼女の目を試した。


それに、あの絵の話を持ち出して「気に入った」と言ったのも、視力を装っていることや「花」の話題から意識をそらすためだった。


もし判断が間違っていても、真太が茶師=自分だと突き止め、「花」も自分が貼ったとわかっても、「あれは少女の不器用な好意表現だった」と説明すれば、多少なりとも怒りを和らげることができ、彼の過激な報復を避けられるかもしれない。


だが、今のところ、真太は「茶師は彼女自身ではない」と納得したらしく、久美子をこれ以上追及しなかった。


久美子は事情を聞いて、心底感心した様子で、慎重に綾乃の傷口を洗い、薬を塗りながら感嘆した。


「すごいよ……こんな短時間で、そんなにたくさん考えて、しかも全部実行するなんて!」


「まだ終わってないよ」綾乃は掌の痛みに耐えつつ、冷静に言った。


「鈴木おじさんにすぐ連絡して、全く同じ毛糸の花を二つ、急いで作ってもらって。クラブ側が調べても、結局は手違いだったってことで終わらせたい」


それが今、綾乃にとって一番理想的な結末だった。


「分かった、すぐに頼みに行く!」久美子は傷口を見て、痛々しさで胸が締め付けられる思いだった。


「でも、いくらなんでも自分にここまで……」


「大丈夫」


綾乃は淡々と答えた。


多少の怪我なら、真太の怒りを受けるよりはずっとましだ。


「ねえ、綾乃……」


久美子は包帯を巻き終えて、ついに我慢できず顔を寄せ、囁いた。


「本当に……昔から若様のこと、好きだったの?」


「ううん、全部その場しのぎ」


綾乃は即答した。


久美子は驚きのあまり口がOの字になった。


「ええっ! でもさっきの演技、信じちゃったよ! 本当に長年片想いしてたのかと思った!」


綾乃は口元を引きつらせた。


さっき真太が最後に言った「死ねばいい」との一言を思い出し、何とも言えない気持ちになる。


告白された相手に、いきなり「死ね」なんて言う人、いる?


一体、彼はどんな人間なんだろう――




書斎の重いドアは閉じられ、薄暗い空間の中、ひときわ長身の影が大きな机に沈みこんでいる。


黒川真太は片手で額を支え、無表情のまま机に広げた一枚の絵を見つめていた。


拙い筆致ながら、描かれているものはやけに多彩だ――殻を割ったアヒル、昇り始めた太陽、砂浜、波、貝殻……さらには砂粒の中にかすかに小さなカニのハサミまで見える。そのすべてが、さっき綾乃が語った内容と一つ残らず合致している。


顔でも、家柄でもなく――


まさか、絵に惚れたってことか?




「コンコン」


ノックの音が響く。


真太の瞳は暗がりの中で一層冷たく光る。手を伸ばして、机の上の絵をパタンと裏返した。


「入れ」


執事の山本武志が入室し、恭しく頭を垂れる。


「若様、お婆様が、今夜は必ずご自宅にお泊まりくださるように、と。明日の朝は、若奥様もご一緒に朝食を、とのことです」


真太はまぶたさえ動かさずに答える。


「俺が帰ると言ったら?」


山本はこうした反抗に慣れた様子で、丸い顔に変わらぬ丁寧さを浮かべて言った。


「それでしたら……ご主人様とお婆様の代わりに、しっかりした縄を二本、ご用意してお部屋の前にかけておきます。若奥様のお部屋も替えますか? 驚かせてしまうといけませんし」


その言葉に、真太はようやく顔を上げ、じっと山本を見つめて口元に薄い冷笑を浮かべた。


「じゃあ、お婆様に伝えてくれ。吊るすときは舌を思い切り出してな。できればあの女を怖がらせて、そのまま死んでくれたら、俺も一緒にあの世に行けるから」




山本はさらに頭を深く下げた。


「……」


「まだいるのか?」


真太は冷たい目で睨みつける。


「俺が送り出さないと出ていかないのか?」


「失礼いたします!」


山本は救われたように慌てて出て行き、静かにドアを閉めた。


若様が帰らずにここに泊まるということは――


これでようやく、お婆様にも報告ができそうだ。


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