黒川真太が寝室のドアを開けたとき、黒川綾乃はソファに座り、包帯を巻いた手で不器用に碗の中の氷砂糖入りツバメの巣をかき混ぜていた。それは小泉久美子が彼女のためにわざわざ作ってくれた滋養の一品だった。
怪我のせいで動きはぎこちなく、スプーンが包帯越しに傷口に触れるたび、ツンと痛みが走る。そのたびに綾乃は眉をひそめ、持ち方を何度も調整していた。
「誰?」
綾乃は耳をすませ、わざと足音の主を聞き分けられないふりをして、体を少し起こした。
真太の視線はすぐに、厚く包帯を巻かれた彼女の手に留まった。包帯の端からはうっすらと血が滲んでいる。
さらに床の上に転がる果物ナイフの先にも、赤黒い痕が残っていた。
彼は瞬時に悟った――彼女はナイフを手探りで拾おうとして、自分で切ってしまったのだ。
「頭の中、どうなってるんだ?」
真太は皮肉な口調で言い放つ。
こんなことで怪我をするなんて。
綾乃は声のする方へ顔を向け、穏やかな笑みを浮かべようとした。
「久美子にも、あなたの分の氷砂糖ツバメの巣を作ってもらったの。」
「まだ温かいから、よければどうぞ。」
真太は無言でゆっくりと近づく。その大きな体が影を落とし、無言の圧力を感じさせる。
彼は鋭い眼差しで、綾乃の虚ろな瞳をじっと見下ろした。
「どうして、今夜俺がここに泊まるってわかった?」
真太の目が一瞬鋭くなった。彼女が自分の動向を探っていたのかと疑う。
「わからないわよ。」
綾乃は困ったように首を振り、何も知らないという表情を見せた。
……
つまり、彼が泊まるかどうかに関わらず、彼女は燕の巣を用意していたのか?
この女は――
真太は彼女の手元の碗に視線を投げるが、何も言わず、そのままバスルームへ向かう。歩きながらシャツのボタンを外し、人目も気にせず脱ぎ捨てていく。
……
綾乃はソファで固まったまま、突然の光景に思わず息を呑んだ。
男の腕は引き締まり、背中の筋肉は滑らかで力強い。いくつかの古傷があっても、細い腰から感じる逞しさは損なわれていない。
暖色のライトに照らされ、どこか艶やかな雰囲気が漂う。
綾乃は真太に特別な感情はないが、人間として自然に少しだけ心がざわついた。
数歩進んだところで、真太がふいに振り返る。
その深い視線は鋭く、まるで彼女を見透かすかのようだ。
彼女が自分を見ているとでも?
綾乃は表情を変えず、目も虚ろなまま動かない。
真太はしばらく彼女を見つめた後、バスルームへ入っていった。
彼女が何も見えないことを知っているからか、ドアは半端に開いたままだった。
シャワーの音がはっきりと聞こえてきて、綾乃の耳が思わず熱くなる。
落ち着け、綾乃。心の中で自分に言い聞かせるが、さきほどの光景がなかなか頭から離れない。
仕方なく、燕の巣を一口食べて気を紛らわせることにした。
真太はシャワーを終えるのも早く、出てきたときにはグレーのルームパンツだけを身につけていた。ウエストは少し緩く、濡れた短髪は乱れ、水滴がまだ体に残っている。
……
綾乃は再びその姿を目にして、思わず固まった。
傷が痛み、碗を持つ手が震える。腕で碗を押さえていたが、ちょうどそのとき真太が現れた。
真太から見れば、彼女が碗を胸に抱きしめて、まるで燕の巣が冷めないよう必死に温めているようだった。
彼は薄く笑いながら彼女を見下ろす。
「温めておけば、俺が食べるとでも思った?」
「え?」
綾乃はきょとんとした。
その腰……水滴がまだ残ってる。まったく、罪作りな。
「余計なことは考えるな。」
真太の声は冷たい。
「ここじゃ、何を企んでも無駄だ。」
今日はもう疲れていた真太は、それ以上綾乃に構う気もなく、大きなベッドへと向かう。
ベッドのヘッドに寄りかかってスマホをいじり、布団もかけず、上半身も裸のまま。
……
綾乃は静かに碗を置いた。そしてようやく、重大な問題に気付く。――ベッドが占領されている。自分はどこで寝ればいい?
自分の役割を思い出し、綾乃はおずおずと尋ねた。
「今夜は家に泊まるのね。お布団の用意をしましょうか?」
「どちら側で寝るのが好き?ドアに近い方?それとも遠い方?」
真太はスマホを操作する手を止め、じっと彼女を見て言った。
「同じベッドで寝たいのか?」
「……いいの?」
綾乃は慎重に聞き返す。
「いいぞ。」
真太は気のない声で答える。
「朝になって、内臓がベッドに散らばっててもいいならな。」
……
綾乃は一瞬顔をこわばらせ、それでも穏やかに微笑んだ。
「私はソファで寝るわ。」
「お先に休ませてもらうね。」そう言い残し、綾乃はソファに横になり、クッションをぎゅっと抱きしめた。
しばらくは、まったく眠れなかった。
祖父母は離れの小さな家に住んでいる。
本館には美香と千鶴がいて、女のプライドをかけた争いが絶えない。使用人やボディーガードばかりが残り、噂話もこの部屋までは届かない。
最近は部屋にこもることが多く、静かな日々が続いていた。だが、急にもう一人増えると、やはり落ち着かない。綾乃は心の中で今後の茶屋の計画を練りながら、時間が静かに過ぎていく。
灯りがついたままで、目を閉じてもなかなか眠れない。
綾乃はクッションを抱き直し、寝返りを打つ。ふと視線をベッドにやると、真太は横向きに丸くなって眠っていた。スマホの画面がまだ光っていて、枕元からは動画の音がうっすら聞こえる。彼はすでに深く眠っており、前髪が額にかかっている。眠っているせいか、普段の鋭い雰囲気が和らいでいた。
布団もかけずに寝ている。
綾乃は慌てて視線をそらし、ふと眉をひそめる。――このままじゃ風邪を引く。熱でも出せば、しばらく家で休むことになる。そうなると自分も「献身的な妻」の役割を毎日演じなきゃいけない。茶屋に通えなくなるじゃない!
そう思うと、綾乃はそっとソファから起き上がった。途中で彼が目を覚まして自分の演技がバレないよう、慎重に家具を手探りしながら、ゆっくりベッドのそばへと近づいた。
彼のそばにしゃがみこみ、手探りで布団を広げ、そっと持ち上げて彼の腰までかけようとした、そのとき――
真太が突然、目を見開いた!